2014年10月31日星期五

騎獣とロウ原紙の完成

城の魔術訓練場に到着すると、ダームエルとブリギッテの二人は反対側で訓練するように言われ、わたしは神官長と向き直る。魔術特訓の始まりだ。

「では、前回の復習として、大きさを変えてみなさい。割れるようなところを想像しないように気を付けなさい」SPANISCHE FLIEGE D6
「はい」

 わたしは飾りから魔石を取り出して、落とさないように手で握った。風船ではなく、ボーリングの玉のように丈夫な物を思い浮かべつつ、大きさを変えていく。すぐに「よろしい」という合格の声が降ってきた。

「次は、形を固定する練習をする。思い浮かべた大きさまで魔力を流したら、そこで止める。自分の意思で魔力を止めるだけだから、君にはそれほど難しくなかろう」

 神具への奉納でも、自分の意思で魔力を流したり、止めたりしているので、神官長の言う通り、それほど難しくはなかった。ピンポン玉から大玉転がしの玉まで自在に大きさが変えられるようになったところで、「いいだろう」と神官長の声がした。

「それでは、形を変える訓練に入る」

 丸い魔石を三角錐にしてみたり、直方体にしてみたり、ウニのようなとげとげにしてみたり、本の形にしてみたり、ペンの形にしてみたりと魔石の形を変えていく。
 最初は一つの形を作るのに時間がかかったけれど、慣れてくると頭で想像した物へとすぐに形が変えられるようになってきた。
 感心と呆れが混じったような声で、「君は本当に覚えが早いな」と神官長が褒めてくれる。珍しい。

「ローゼマイン、これが最後だ。余計なことを考えず、自分が乗れる動物を想像しなさい」

 動物の乗り物と言われて、一番に思い浮かんだのは、遊園地などにある動物の遊具だった。百円玉を入れると、三分ぐらい動くおもちゃ。

「形が定まったら、魔力を切って固定す……何だ、これは?」
「えーと、『パンダ』の乗り物ですね」

 一人用でかなり小さ目だ。遊園地の乗り物というよりは、赤ちゃんが跨って足でこいで走るおもちゃっぽくなった。ちゃちすぎる。
 自分でも失敗したな、と思っていたら、神官長が実に胡散臭い物を見る目で、パンダの乗り物を見下ろした。

「これは空を飛ぶのか?」
「……ちょっと、難しいと思います」
「ちょっと、ではないように見受けられるが?」

 こめかみを押さえた神官長が「覚えは良くても、非常識だ」と呟いた。言われた通りに動物の乗り物を作ったのに、非常識と言われるのは納得できない。

「わかりました。次はちゃんと乗り物に見えるように、もうちょっと大きくしてみます」
「いや、大きさより形を定めよう。君はこの獅子が作れるか?」

 神官長がするりと魔石を一撫でするだけで、自分の騎獣を出した。自分でやってみたからわかる洗練された動作に溜息が出る。このレベルになるまでには、かなり練習が必要だ。

「エーレンフェストの紋章が獅子で、領主は頭が三つある獅子に乗っている。領主の子は基本的に獅子を使う。もちろん、強制ではないが……」

 ジルヴェスターのことだから、ごちゃごちゃしたのが好きな小学生男子的な思考回路から、ケルベロスみたいなライオンに乗っているのかと思っていた。ジルヴェスターの騎獣にはそんな意味があったのか。
 領主の養女であるわたしも獅子を使うことが許されているらしい。

「了解です。ライオンですね」

 神官長が乗っている騎獣はあまりにもリアルで怖いので、自分が乗る騎獣は可愛いライオンにしたい。
 わたしは自分が乗れそうなライオンを思い浮かべて一つ頷くと、魔石に魔力を流し込んだ。

「……君は美的感覚が壊滅的だな。何故、獅子を出すのに、そのような奇妙なものになる!?」
「え? 奇妙ですか? 結構可愛いと思いますけど?」

 言われた通りにライオンの乗り物にしたけれど、デフォルメされたものはダメらしい。
 ライオンの形で、大きさもぐんと大きくなって、ちゃんと遊園地の乗り物サイズになった。

「乗れるのか?」
「乗ってみます。よいしょ」

 乗って、手綱ではなく、背中に突き出たハンドルを握ってみたところまではよかったけれど、乗っても思ったように動かない。……違う。思ったようにしか動かない。わたしのライオンさんは足をジコジコと動かして、もそもそと動くだけなのだ。SPANISCHE FLIEGE D9
 遊園地のおもちゃを明確に思い浮かべたわたしの騎獣で空を飛ぶなんて、土台無理な話だった。

 しかし、これは困った。正直、わたしの中で空を飛ぶ乗り物として考えた時に、動物では詳細で精密なイメージがわかないのだ。全く飛べる気がしない。

「わたしが乗れそうな乗り物で、空をバッと飛べそうなライオン……」

 ネコではなく、ライオンだが、バス型にしてみた。電線の上をひょいひょい走っていたあの映像のイメージでなら、空も飛べる気がする。速そうだし、空を駆けまわりそうだ。
 実際できたのは、ネコのバスのイメージがよほど強かったのか、ネコにぎざぎざのシャンプーハットを付けただけのようなライオンバスだったが、まぁ、いい。

「なんだ、これは?」
「ご覧のとおり、『ライオンバス』です」

 前に立つと、わたしのイメージ通り、みょんと窓が大きく口を空けて入り口になる。本当に思った通りに動くのが面白くて、わたしは喜び勇んで乗り込んだ。
 乗ってみると、ハンドルがあって、運転席もある。多分、この辺りは車のイメージだ。麗乃時代は運転免許も持っていたせいか、外見に比べて運転席周りだけ、やたら細かい。ちなみに、わたしが運転できるのはAT車だ。
 きちんと座るためのシートもあるし、安全のためのシートベルト付きだ。これならば、落ちそうになる心配もないし、寒くもないだろう。

「魔力の無駄だ。もっと小さくしなさい」

 外から聞こえた神官長の声に、わたしは大きさだけを変えてみる。マイクロバスサイズのライオンバスが一人乗りの車のサイズになった。外見は変わらずライオンがついている。

「ローゼマイン、ずいぶんと変な形だが、それは動くものなのか?」
「やってみます」

 わたしは運転席に座って、シートベルトを締めると、ハンドルを握って、少しずつ魔力を込め、アクセルを踏んでみた。ライオンの足が動きだす。

「すごい! 動いた!」

 教習所で走るような、てろてろとした動きで魔術訓練場を走り、「飛べ」と念じながら、ハンドルを傾けた。ライオンの顔が上へと向けられ、飛行機が離陸するときのように、体がシートに押し付けられた状態で少しずつ高度が上がっていく。

「わぁ! 飛んだ!」

 わたしのライオンバスはハンドルの角度でちゃんと空を駆けることができるようで、魔術訓練場の天井近くまで駆け上がることができた。

「どうですか、フェルディナンド様? いい感じじゃないですか?」

 ライオンバスから降りて、わたしが、ふふん、と胸を張ると、神官長は何とも言えない渋い顔になった。

「君は本気でそんな物に乗るつもりか?」
「はい!」

 一人で乗る時は小さくなるし、魔力を込めれば大きくできる。一人用からマイクロバスサイズまで自由自在。おまけに落ちる心配もなくて安全だ。
 リアルで怖い顔をしている神官長のライオンより、わたしのライオンの方が高性能で、可愛いと思う。

「では、その動物を別の物に変えてくれ。そのような奇妙なものに紋章の獅子を使うのは止めてもらいたい」
「え? 可愛いのに?」

 わたしがライオンバスを見ると、神官長も眉間にくっきりと皺を刻んだ状態で視線をライオンバスに向けて、すっぱりと批判した。

「美しくない」
「そうですか。……じゃあ、せっかくなのでもっと可愛くしてみましょう」
「だから、美的感覚が狂っている君の可愛さは必要ないと言っている」

 ちょっとセンスが違うだけでひどい言い様だ。そこまで言われたら、尚更可愛くしてやりたくなってきた。

「……何だ、これは? 魔獣か? まるで大きいグリュンだ。どうせならば、シュミルにしなさい。その方がまだ周囲に受け入れられやすい」
「シュミルって何ですか? 見たことないのに、無理ですよ。それに、グリュンじゃなくて、『レッサーパンダ』くんです。この愛嬌のある顔とぶっとい尻尾が愛らしいと思いませんか?」
「全く思わない」

 どうやらこちらには、レッサーパンダに似た魔獣がいるらしいが、そんな怖そうなものと一緒にしないでほしい。SPANISCHE FLIEGE
 わたしの抗議は意にも介さず、レッサーバスをじろじろと見ていた神官長が、ピッと尻尾を指差した。

「そのような尻尾は邪魔なだけだ。せめて半分くらいの長さにしなさい」
「嫌ですよ! レッサーくんの尻尾を切れ、だなんてひどいこと言わないでください!」
「魔力の無駄遣いだ。無くても良いくらいだろう」

 しばらくの睨み合いの結果、尻尾の長さは半分くらいの長さにさせられたけれど、わたしの騎獣として、車型は譲らず、レッサーバスで決定した。

「では、それで早速神殿まで戻るぞ」

 屋内で練習した後、騎獣で神殿まで帰ることになる。転落したら危険なので、低空飛行で貴族街を抜けていくのだ。

「ローゼマイン、それでは遅い」
「はい!……うひゃぁっ!?」

 ぐっと魔力を込めてアクセルを踏み込んだら、ぐぉん! とスピードが上がった。慌ててアクセルから足を離したら、魔力が止まった状態になったようで、急ブレーキがかかる。

「きゃうっ!?」

 魔力で動かしているので、車の運転と全く同じようにはいかず、意外と魔力の調節が難しい。
 少しずつ魔力を込め、一定のスピードで安定して駆けることができるようになるより先に神殿に到着してしまった。

 レッサーバスが周囲に迷惑をかけないよう、そして、自分達が巻き込まれないように光るタクトのシュタープを構えたまま、少し距離を取って付いてきていた護衛二人がホッとしたようにシュタープと自分の騎獣を消す。

「君は魔力が多いからな。騎獣に乗るうえで細かい調節は慣れるまで大変だろうが、慣れるしかない。収穫祭までには自由に扱えるように練習を重ねるように」
「……はい」

 あまりうまくいかなかったことにわたしが溜息を吐くと、神官長が軽く咳払いした。

「コホン! 私の予想より習得が早かった。数日間は少し読書の時間が取れるだろう」
「本当ですか!?」

 それからは、騎獣の練習をしたり、図書室の整理をしたり、ロジーナにフェシュピールの練習をさせられたり、夏の成人式と秋の洗礼式のための祈り文句の練習をさせられたりしながら、日々の生活を送っていた。

 時折、オルドナンツが飛んできて、演奏会の打ち合わせという名の昼食会が開かれる。
 演奏会の総責任者であるお母様、演奏会の警備責任者としてエックハルト兄様、そして、わたしの護衛だから、と言い切るコルネリウス兄様が昼食時に出入りするのだ。
 お父様は城で領主と一緒に食事を取っているので、フーゴの料理を食べているらしいが、騎士寮の食事は別の料理人が作るそうだ。
 ランプレヒト兄様もお休みの日になれば神殿へやってきて、昼食とお菓子を食べるようになってきた。

 料理長の料理研修が早く終わってくれないと、わたしの側仕えの気が休まらない。貴族を相手に緊張しているニコラを見ていると、ちょっと可哀想だ。



 神官長のコンサートまであと五日となった日の夕方、図書室で目録を作りながら資料整理をしていると、ギルが顔を輝かせて図書室に飛び込んできた。

「ローゼマイン様、ザックの蝋引き機械が完成しました。見に来てください」

 作業途中だった目録作成の手を止めて、手早く片付けると、わたしはギルとダームエルと一緒にすぐさま工房へ向かった。
 灰色神官には作業を続けるように言って、わたしは機械を覗き込んで話をしているルッツとザックに声をかける。

「ごきげんよう、ザック。蝋引きの機械ができたと聞きました」
「これです」

 作業台の上に、大人ならば両手で持てそうな大きさの機械が乗っていた。
 ルッツはすでに蝋を溶かせるように準備している。その脇にはトロンベ紙も準備されていた。マルクの教育のすごさに改めて感心しながら、わたしも機械を覗き込んだ。Motivator

「ローゼマイン様、もう火をくべていて熱いので、お手を触れないよう気を付けてください。……ここで蝋を溶かしています。この部分をこうやって動かして、蝋を引くのだそうです」

 ルッツが顔を上げて、貴族に対する礼をすると、馬鹿丁寧な口調で機械の説明をしてくれる。真面目腐った顔をしているが、絶対に面白がっていると思う。

「では、原紙をわたくしの書字板くらいの大きさに切って、蝋を引いてみてください」

 ルッツとギルが手分けして、トロンベ紙をA6サイズくらいに切り始めた。
 準備ができるまでの間に、わたしは少し離れたところで黙々と作業しているヨハンのところへと移動する。

 ザックの機械に比べると大きく複雑そうだ。しかし、以前に見たザックの設計図通りの物へと仕上がりつつあるのがわかった。設計図通りの物を作らせたら、やはりヨハンの技術が一番だと思う。

「ヨハンの機械はどうですか?」
「あぁ、ローゼマイン様。まだ……あと数日はかかります。でも、ローゼマイン様の期待に添えるいいものができると思いますよ。ザックの設計はすごい」

 熱を帯びた目でそう言いながら、ヨハンは真剣に持ち込んだ部品を組み立てていく。
 ヨハンが完全にのめりこんでいるのがわかったので、邪魔にならないようにわたしはすぐにその場を退いた。

「ローゼマイン様、準備が整いました」

 ローラーに紙を挟んで、ハンドルではなく、手で直接ローラーを回して、紙に蝋を引く。中心は木を使っているので、金属のローラーに熱した蝋が付いても、持つ部分は熱くならない。

「この工房の紙の大きさなら、これで十分だと思う」

 ヨハンが作っている蝋引きの機械をちらっと見て、ザックはそう言った。
 自分の手で回すことになるザックの蝋引きの機械は、あまり大きくすると重くて回せなくなるのだろう。しかし、ザックの言う通り、今のところこの工房で絵本にするために扱っているのは、A4サイズくらいの紙で統一しているので、ロウ原紙もそれほど大きくする必要はない。

「では、ルッツとギルが作ってくれた蝋を次々と試して、一番良い配合を探しましょう」

 小さ目の機械はローラーも小さいので、それほど多くの蝋を溶かす必要もなく、蝋引きができる。
 今日までにギルとルッツが作ってくれた蝋に、番号が振られ、準備されている。混ぜる松脂の量を三段階で変えた蝋が三種類。合計で九種類ができていた。

「よっ……」

 すでに何度か試しているのだろう。慣れた手つきでルッツとザックが機械を動かして蝋を引いた。二枚できると、蝋を片付けて、新しい蝋を準備していく。

 蝋引きされたロウ原紙がわたしの前に差し出された。出来上がった物を最終的にチェックして、判断するのがわたしの仕事だ。
 ギルがやすりと鉄筆をわたしの前に準備してくれた。出来上がったロウ原紙をガリ切りしていく。

「これは一応使えそうです。……これはダメですね。削りにくいわ。……これもダメ。ちょっとひびが入ったみたいです。……これはイイ感じですね。」

 やはりローラーで挟んで塗ると蝋の厚みも均一になるようで、見た目も美しい。そして、松脂を加えると柔軟性が増したようで、ガリ切りしても、ロウ原紙にひびが入らないものができていた。その中でも、一番使いやすい物を作ってもらうことにする。

「では、ルッツ。この配分で蝋を作るようにしてください。……絵本と同じ大きさのロウ原紙を20ほど作成しておいてください。明日にはヴィルマを呼んで、ガリ切りをしてもらいましょう。ガリ版印刷で絵を印刷します」
「かしこまりました」

 ルッツとギルに後を任せると、わたしはザックを見上げてニッコリと笑った。蒼蝿水(FLY D5原液)

2014年10月28日星期二

祈念式終了

「ひわっ!?」

 ガクンとバランスを崩し、わたしは斜めになった葉っぱの上を滑るようにして、空中へと飛び出す。
 ローゼマイン様、と叫ぶ皆の声と騎獣を出すブリギッテの姿が見えた。D9 催情剤

 ブリギッテの騎獣よりも速く、木々の向こうから何かが飛び出してきた。空中で重い頭の方が下がって視界がぐるんと回る中、残像のように見えた何かがこちらに向かって突っ込んでくる。

 重力に囚われて、頭から真っ逆さまに落ち始めたわたしの体が何かにガシッとつかまれた。次の瞬間、ぶわっと上昇する感覚に内臓が刺激され、うぐ、と呻き声が出る。
 一体何が起こったのか、と目を瞬きながら、視線を巡らせると、何故か神官長の怖い顔が間近にあった。眉間の皺が普段の五割増しくらいひどい。

「……神官長? どうしてここに?」
「落下する君を回収するためだが?」

 気に入らなかったならば、もう一度落としてやろうか、と睨まれて、わたしは振り落とされないように、慌てて神官長の腕にしがみつく。

「助かりました。ありがとうございます」
「……あぁ」

 落下からは助かったけれど、あまり助かった気がしないのは、この後にお説教がくるのを確信できるからだろうか。
 不機嫌極まりない神官長の様子にブルブル震えながら、わたしはレッサーバスの前に下ろされた。

「ローゼマイン様、ご無事ですか!?」

 フランが心配顔で駆け寄ってくる。わたしが「神官長に助けていただきましたし、大丈夫です」と答えると、フランはホッとしたように体の力を抜いた。

「さて、ローゼマイン」

 騎獣を片付けた神官長の低い呼びかけに、すわ、お説教開始か、と身構えたけれど、神官長は疲れたような声で「採集はできたのか?」と尋ねただけだった。
 少しばかり肩透かしを食らった気分になりながらも、わたしは頷いて、ライレーネの蜜を詰めた瓶を神官長に見せる。

「はい、無事にライレーネの蜜は採集できたのですから、褒めてください」

 わたしが差し出した瓶を手に取ると、神官長は瓶の蓋を開け、ほんの少しだけ蜜を手のひらに零した。そして、目を細めて蜜に魔力を流し込んだ後、ゆっくりと息を吐く。

「……あぁ、予想していたことだが、これは君の魔力に染まっているようだな。魔力が通らない」
「え? そんなはずは……。だって、神官長に言われた通り、これですくいましたよ?」

 採集方法は間違っていなかったはずだ。わたしが採集道具のスプーンを取り出して、「これが不良品だったのではないですか?」とむくれると、神官長は緩く首を振った。

「そうではない。君の魔力で成長したライレーネだ。花自体が君の魔力に染まっていたのだろう」
「う……。もしかして……わたくし、失敗してしまいました?」

 せっかくタルクロッシュをやっつけて、女神様にお願いして、ライレーネの蜜をもらったのに、失敗してしまったのだろうか。神官長はもちろん、同行してくれた皆に申し訳ない気持ちで尋ねると、神官長は緩く首を振った。

「いや、君の素材採集という点から見れば、問題ない。問題はないが……ハァ。とにかく、なるべく早くフォンテドルフの冬の館に戻るぞ」

 神官長だけではなく、フランもエックハルト兄様もダームエルも、男性陣は皆疲労の色が濃い。顔色が悪くて、疲れ切ったような息を吐いている。

「何かあったのですか?」
「森の不思議に関する話は明日だ。早く帰って休む方が先だろう。君達もろくに寝ていないはずだ」

 なんと、神官長達も森の不思議に振り回されて大変だったらしい。ただ、詳しい話は明日だと言われて、話は打ち切られてしまった。
 何があったのだろうか、と首を傾げながら、さっさと帰り支度を始める男性陣をわたしは呼び止める。麻黄

「ちょっと待ってください。ここの泉の水を少し汲んで帰りたいのです。ちょっとした傷や病に効く癒しの水なんですよね? 孤児院で病気の子が出た時に使えるし、数日間お世話になっているのだから、フォンテドルフの村長にも少し分けてあげれば喜ぶと思うのですけれど」
「好きにしなさい」

 幸いにも、道中の水を運ぶためにレッサーバスに乗せられていた樽がある。数リットルが入るくらいの大きさの樽で、すでに二つが空になっている。昨夜の食事とわたしとブリギッテが体を拭うために使ったせいだ。
 わたしは側仕え達にその樽に泉の水を汲んでもらい、レッサーバスに乗せてもらう。

「せっかくですから、飲み水も補給いたしましょう」

 各自、飲み水用の皮袋に泉の水を補給してからフォンテドルフの冬の館に戻った。
 疲労の色が濃い男性陣はもちろん、楽しかったとはいえ、夜中にはしゃいだ女性陣も寝不足だ。皆が欠伸を噛み殺し、目を時折擦っている。疲れているため、一日しっかりと休息を取ることになった。

「ローゼマイン、寝る前にこれを飲んでおきなさい」
「はい」

 湯浴みをして、すっきりした後、わたしは神官長に手渡された疲労回復の薬を飲んで寝台に潜り込んだ。



「それで、神官長達は一体どのような不思議な体験をしたのですか?」

 次の日の朝食後、わたしは食後のお茶を飲みながら、神官長に尋ねた。
 わくわくしながら問いかけたわたしと違って、神官長とエックハルト兄様とダームエルが揃って顔をしかめる。楽しい思い出ではないようだ。

「……端的に説明すると、女神の嫌がらせを受けていた」
「え?」

 わたし達がキラキラと光る不思議な光と遊んでいたフリュートレーネの夜は、男性陣にとっては大変な夜だったそうだ。

「ローゼマイン、夜の間、我々は交代で見張りをしていただろう?」

 エックハルト兄様の言葉にわたしは頷いた。交代で起きて見張りをするのは、訓練で慣れている騎士が請け負うことになったのだ。
 事が起こったのは、神官長が見張りをしていた時間帯だったらしい。

「ざわざわと木が動き出した。最初は風かと思ったのだが、風は吹いておらず、ただ、木々がざわめいていた」

 警戒しながら周囲を見回していると、突然木々がうごうごと動き出し、レッサーバスを枝から枝へと受け渡し始めたらしい。神官長の説明から、わたしは木々にバケツリレーのように運ばれるレッサーバスを想像して、そのシュールさに思わず眉を寄せる。

「君が信じられないのも無理はない。実際に見ていた私でも目を疑った。木々が意思を持ったように君を騎獣を運んでいくのだからな。あり得ない光景だった」

 レッサーバスがバケツリレーされるのを見た神官長は、即座に全員を叩き起こして追跡し、レッサーバスを取り返そうと木々に攻撃をしかけたらしい。しかし、わたし達が乗っているレッサーバスに直接攻撃を当てるわけにもいかない。
 攻めあぐねている間にレッサーバスは、女神の水浴場へと連れて行かれてしまったそうだ。

「……神官長やエックハルト兄様の全力で攻撃されなくて良かったです」

 泉の方へと騎獣で行こうとしても木々が立ちふさがり、邪魔されて、どんどんと距離が離されていく。邪魔する木々を打ち払いながら、泉の前へと到達したものの、今度は分厚い魔力の壁に阻まれて、入れない。

「泉の周辺だけが雪もなく、寒さも感じなかっただろう? あの場に満ちていた魔力が関係しているのはタルクロッシュの討伐の時からわかっていたが、まさか自分達が弾き出されるほど強い魔力に満ちているとは思わなかった」

 魔力が豊富で、ほとんどの魔力の壁は突破してきたらしい神官長は、苦い顔でそう言った。
 木の間から泉とレッサーバスが見えているのに、その場に入ろうとしても入れないという非常に腹立たしい状態だったそうだ。

 魔力に満ちた光が飛び回り、レッサーバスへと群がっている時には一体何が起こるのかとハラハラし、レッサーバスからわたし達が出てきて遊び始めた時には「この馬鹿者!」と思わず怒鳴ったらしい。全く聞こえなかったけれど。老虎油

「とにかく、あのような魔力の固まりが大量にうごめく危険な場所にふらふらと出て行くような考えなしの行動を二度としないように望む」

 騎獣の中はわたしの魔力で満たされているので、中にいる限りは安全だ、と神官長は言った。魔力を持つ相手が敵かどうかも判別しないまま、外に出るのは危険行為だったそうだ。

「あのキラキラに敵意は全く感じませんでしたよ」
「……最初に敵意を感じなくても、君達があれらの機嫌を損ねた場合、どうなっていたかわからぬぞ」
「あぁ、そういう可能性もありましたね」

 魔力の壁に隔てられた先で、神官長を初めとして、フランもダームエルもエックハルト兄様も、わたしの達の行動には頭の痛い思いをしていたらしい。
 いくら呼びかけても誰も聞いていない。多分、聞こえていない。
 見守っている方の心情も知らず、楽師はフェシュピールを弾き始め、料理人達と側仕えはお菓子を広げてピクニックを始める。

 泉の中を覗き込み、タルクロッシュを狩るくらいならば、自分達がいないことに気付くべきだ、と言って、神官長がわたしとブリギッテを睨んだ。

 わたしとブリギッテは顔を見合わせる。そう言われてみると、男性陣が周囲にいないことに気付かなければならなかったのだが、あの時は全く頭に思い浮かばなかった。

「周囲の光景があまりにも現実味が薄くて、夢の世界みたいだ、と思っていたせいかしら?」
「わたくしも騎獣の中では、連絡を取らなくては、と思っていたのですが、騎獣から出た瞬間に忘れました。あの時は本当に人数が足りないことを全く不思議に感じなかったのです」

 ブリギッテはレッサーバスから出る時にはオルドナンツを飛ばすつもりで、魔石を握って外に出たらしい。けれど、外に出た途端、何のためにオルドナンツを飛ばそうと思ったのかわからなくなったそうだ。
 君達にも魔力の影響があったのかもしれないな、と神官長が眉間を押さえた。

「そのうち、君が泉に向かって歌いだした。歌に合わせて魔力が広がり、花が育ち始める。あの時の我々の焦りが君にわかるか?」

 ライレーネの蜜を採ることが本当にできるのか。花が開き始めているのに、まだ悠長に歌っているわたしを見て、非常にやきもきしていたらしい。
 エックハルト兄様も肩を竦める。

「ローゼマインは葉に乗って、蜜を採りに向かっただろう? 本当に驚いたのだよ」
「足場がしっかりしない葉に乗るようなことを普通の人はしない。何のために騎獣があるのか、私が君に騎獣を与えたのか、よく考えろ」

 神官長に言われて、わたしはポンと手を打った。
 なるほど。騎獣で採集に向かえば、朝日が当たって葉っぱが小さくなっても落ちなかったに違いない。

「普通の人は賢いですね」
「違う。君が愚かなのだ」

 風が吹いたら落ちそうな葉っぱの上でせっせと採集するわたしの様子は、胃がキリキリするほど危険そうに見えたらしい。

「いつ落ちるか、とハラハラしながら見ていたら、空が明るくなるにつれて壁が薄くなっていった」

 朝の光に不思議な光が消えていく。それと同時に不思議な光景は消えていき、自分達が知る泉の姿を取り戻していく。

「全てが元に戻っていくのが見えているというのに、足元の葉が見る見るウチに小さくなっているのに、君はまだぼんやりと空を見ていただろう? あまりの危険さに騎獣を出し、薄くなった魔力の壁を破って駆け始めたら、案の定、茎が折れた」威哥十鞭王

 茎が折れるより先に、騎獣で駆け出していたから、わたしが空中に投げ出されたところを捕まえることができたそうだ。

「本当にお世話になりました。作れるものならば、わたくしが神官長に胃薬を作ってあげたいくらいです」
「そんな危険な物は飲まない。気持ちだけで良いので、あまり危険なことをしてくれるな」
「……善処します」

 後のことはわかるだろう、と言われて、わたしはハァと息を吐いた。

「まさか、殿方はそれほど大変だったとは思いませんでした」

 わたし達は夢心地でとても楽しかったので、男性陣がそこまで苦労して、胃をキリキリさせているなんて全く考えていなかった。

「それにしても、どうして殿方は入れなかったのでしょう? 泉の女神様は殿方が苦手なのでしょうか?」
「水浴場と呼ばれるくらいです。もしかしたら、フリュートレーネの夜は男子禁制なのかもしれません」

 わたしとブリギッテが考えてみても、男性と女性の差がわからない。もしかしたら、レッサーバスの中のお菓子を狙っていたのかもしれない。
 色々と答えを考えていたが、結局誰にも正解なんてわかるはずがない。

「ひとまず、ライレーネの蜜は収穫できた。当初の予定は果たせたので、明日からは祈念式だ」
「はい」

 春の素材も収穫できたので、フォンテドルフを出発して、わたし達は祈念式の行程へと戻る。
 フォンテドルフを出発する前に、当初の予定通り泉の水を分けてあげた。

「しばらくお世話になりました。これは泉の水です。怪我人や病気の方が出た時に使ってください」
「恐れ入ります」
「おそらく、他の水よりも効力が高いはずだ。エーレンフェストの聖女が汲んできたからな」

 神官長が村長に向かってそう言うと、村長は驚いたように息を呑み、わたしと密閉できる容器に入った水を交互に見つめる。

「なんと!? そのような貴重な水を頂けるとは……」
「神官長!?」

 わたしがじろりと神官長を睨むと、神官長は「そういうことにしておけ」と小声で言った。
 春の泉は魔力が高いと知られるのは、色々と不都合なことがあるらしい。それを隠すために神官長が妙なことを言ったせいで、わたしが渡した水は癒しの聖水として丁重に扱われることになってしまった。

 ……まぁ、大事に使ってくれるなら、それでいいけど。

 無事に残りの祈念式も終えて、神殿へと戻った数日後、わたしは興奮気味の神官長から呼び出しを受けた。

「何の御用ですか? 本日はギルベルタ商会との面会があるのですけれど……」
「いいから来なさい」

 神官長の工房となっている隠し部屋に引っ張り込まれ、今回採集したライレーネの蜜について、話をされた。神官長が興奮気味に早口で説明してくれたけれど、専門用語が多すぎてよくわからない。

「……つまり、どういうことですか? 専門用語抜きでもうちょっと簡単にお願いします。それか、専門用語がわかる本をわたしにください。今すぐに読みますから」

 簡単にしてくれた説明によると、採集したライレーネの蜜はわたしの魔力を帯びているけれど、完全にわたしの魔力に染まっているわけではないらしい。田七人参