2014年6月7日星期六

青嵐

「昨日、あまり眠れなかったの?」
 欠伸を何度も繰り返す成に、萌子はそう尋ねた。成が寮に帰ってきた頃には、すでに寮が静まり返っていた。シャワーを浴びたかったけれど、物音で誰かを起こしてしまいそうで、べたつく肌のまま、成は横になった。考えることがたくさんありすぎて、なかなか寝付けず、ようやく寝たと思ったら、遅刻するぞと湊に起こされていた。眠気の覚めない頭で萌子を迎えに行くと、すでに萌子は家の前にぽつんと立っていた。十分の遅刻だった。
「…ちょっと、湊の歯ぎしりがひどくてさ」精力剤
 ごめん湊、と成は心の中で謝る。
「そういえば、昨日、どこに行ってたの?」
 萌子に急に聞かれて、成はえ?と聞き返す。
「寮に電話したら、今出て行ったって言われたから。昨日の夜、九時半ごろかな」
 九時半と呟いて、成ははっと気づいたように慌てて答えた。
「ちょっと…、コンビニ。コンビニ行ってた」
「また罰ゲーム?」
 くすくすと笑う萌子を見て、成は肩の力をすっと落とした。
 嘘をつくつもりはなかったが、本当のことも言えなかった。祥子の秘密を、成が萌子に言えるはずもない。
 それに、やましいことは何もない。
 その言葉に、成はちくりと痛んだ胸を抑え込んだ。

「何か潮臭いぞ、成」
 朝練が終わってケンにそう言われた成は、自分の匂いを嗅ぐ。確かに潮の香がした。昨日の夜、長く海にいたせいだ。
「シャワー室、借りてこいよ」
「ああ」
「でも一限には間に合うように戻れよ。担任には俺が適当に言っておくから」
「サンキュ」
「あと萌子にも。そんな匂いじゃ嫌われるぞ、萌子に」
 急いで部室を出たところで、すでに着替え終わって教室に向かおうとしている一馬に軽くぶつかった。
 悪いと落ちた成のタオルを、一馬が拾い上げる。サンキュと答え、受け取ろうとした成の顔を、一馬がじっと見て口を開いた。
「お前さ、昨日の夜、誰かと一緒にうちの店の前歩いてたか?」
 祥子と待ち合わせたのは、アルジャーノンの前だ。部活の後でバイトしている一馬に見られていても、おかしくはない。
 だが成は、昨日はコンビニに行ったと萌子に嘘をついている。それに、一人ではなかったことも、一馬は見ている。
「…いや、えっと。通ってないよ。俺は昨日コンビニに行っただけ」
 余計なひと言も付け加えてしまったが、特に一馬は気にする様子もなかった。
「そうだよな、やっぱり俺の見間違いだよな―」
「わるい、俺急いでるからっ」
 成は口早にそう言うと、そそくさと駆け出していった。
 残された一馬の方は、少し様子のおかしい成の後姿を見ながらも、自分の考えを変えることはなかった。
 昨日、アルジャーノンでバイトをしていた一馬は、閉店後にゴミを出そうと外に出たところで、坂を下りて行く二人の影を見つけた。坂を下りれば、そのまま海に出る。人通りの全くいない通りでもないが、一馬が一瞬目を止めたのは、街灯照らされて一瞬見えた横顔が、成に思えたからだ。だが、隣を歩く女の後姿は、身長的にも髪型的にも、萌子ではない。
 だけど、こんな時間に、あいつが萌子以外の女と一緒に歩くか?
 答えは明確だ。
 あいつじゃない。
 そして成の答えが、その考えを一層確かなものにした。
 成はよく言えば素直、悪く言えば不器用。仮にさっきのが下手な嘘だったとしても、萌子のことに手いっぱいのくせして、他の女とどうこうできるような性格じゃない。
 昨日見た光景を、ただの風景として一馬が忘れようとしたところで、いきなり声をかけられた。
「渡部さんっ」
 ボタンのシャツも閉まりきっていない状況で、樹生が息を切らせて立っていた。慌てて部室から飛び出してきたようだ。
「おいおい新田、せめてベルトくらい締めろよ」
「さっきのっ、昨日成さんが誰かと一緒に、アルジャーノンの前歩いてたって話っ」
 樹生の様子に思わず笑う一馬を無視して、樹生は声を張り上げてそう言った。だが口にしてから自分の声の大きさに気づき、罰の悪そうな表情に変わる。樹生が成の熱烈な支持者であることは、一馬も知っている。
「ああ。でも、俺の見間違いだ」
「二人じゃなかったってこと?」
「俺が見たのは、男女のカップルだ。一瞬、男が成に見えたんだけど、女は萌子じゃなかった。それに、本人が違うと答えた」
「その女の髪って、肩より少し短いくらいの長さ?」
 うーんと考え込んでから、一馬が答える。
「だったかな」
 それじゃ、先行くぞ。今日は日直で、職員室に寄らなきゃならんから。
 そう言って一馬は歩き始める。続けるようにして、次々と着替えを終えた部員たちが、立ち尽くす樹生を追い越して行った。



 一限目には無事間に合い、授業が終わったところで、成は祥子に声をかけた。
「祥子、ちょっと」
 そう言って廊下へ促す。祥子に話しかけようとした萌子が、一瞬成の方を見つめたが、何でもないというように笑い返してきた。
 ちくりとする胸の痛みを抱えながら、廊下に出てきた祥子に、成はそっと出した紙を差し出す。祥子はそれを躊躇いながらも、受け取った。紙は成が朔哉から受け取ったもので、朔哉の今の住所が書かれている。
「ありがとう」
 渡されたものが何かを理解した祥子は受け取りながらそう答えると、紙を大事そうにポケットにしまった。いいよ、と答えながらも、成の胸の痛みは激しくなっていく。朔哉は何も言わなかったが、意味するところは成もわかっているつもりだった。それに、萌子の為に渡されたものを、祥子に渡すことが間違っているのは成にもわかっている。けれど、萌子に渡せば、萌子は朔哉の元に行って、二度と成のところにはやってこない。
 痛む胸を隠しきれず、ふいと廊下の窓へと視線をそらすと、祥子が言った。
「それから、昨日もありがとう」
 礼を言われる筋合いではない。成としても、抱えてしまった重荷を、どこかで一度下したかったし、弱音も吐きたかった。だが、卒業式に校庭で自分のした行為を考えると、凪高の人間には誰にも話せなかった。唯一、その共犯者に近い祥子を除いては。
 首を横に振る成に、祥子が微笑みかける。
 成を探しに、三年の教室までやってきていた樹生は、そんな二人の様子を廊下で見ていた。そして、握りしめた拳をわなわなとふるわせると、踵を返し、自分の教室に戻って行った。



「湊さん、ちょっと話がある」
 昼休み、そう樹生に言われ、湊は半ば強引に部室まで連れてこられた。入口のドアをきちんと閉め、鍵までかけると、樹生はカーテンまで丁寧に閉めた。
「どうしたんだ、樹生」
「誰かに聞かれたくないんです」
 そう言って、真剣な表情のまま樹生は深いため息をつく。
「何?話って」
「それが…」
 勢い込んで湊を連れてきたものの、いざ言葉にしようとすると、何かが躊躇われた。憧れの先輩のことを侮辱する話をすることに、樹生自身戸惑っているのだ。湊はただじっと樹生が話し出すのを待っている。樹生は決意を固めると、はっきりと言った。
「成さん、浮気してる」
 え?と湊が返す。樹生は自分の決意が弱まらないようにと口早に続けた。
「相手は、菅原祥子。朔哉先輩の彼女で、萌子さんの親友」
「…あの二人は、まあ仲はいいけど、お前がそんな心配する間じゃないよ」
 湊は樹生の行き過ぎた勘違いとでも言うように、全然信用していないようだった。余計に樹生はもっと熱くなって訴える。
「でもオレ見たんだ。
 この前、二人が駅で肩組んで歩いてるの。何か事情があったのかもって、成さんに聞いてみた。そしたら、成さん嘘ついた。コンビニ行っただけだって。でも違う。望だって見てる。
 それに昨日だって、菅原祥子に電話で呼び出されて出て行った。一二時ぎりぎりで帰ってきたの、湊さんだってしってるだろ?成さんたちはそれまで一緒に海にいたんだ。渡部さんが海に向かう二人の後姿見てる」
 笑顔だった湊の表情が、僅かに強張る。話しながら興奮してきた樹生が声を張り上げて言った。
「それにっ、今日二人は廊下でこっそり何かを渡してた。
 …っ誰だっ」
 ドアのあたりで物音がして、樹生が思わず大声で怒鳴る。大股でドアの前まで歩き、鍵を外しドアを開くと、新人マネージャーの大野まりが顔を出した。強張った表情のまりを見て、樹生は急いで部室に入れる。再びドアに鍵をかけると、まりに脅すように言った。
「いいかっ、今聞いたことは、誰にも言うなっ」
「は、はいっ」
 裏返ったまりの声に、湊はため息をつきながら、ぽんと優しくまりの肩を叩いた。
「落ち着け、樹生。だいたいそんなに心配することないよ。
 成のことだから、祥子の相談につきあってたとか、そんなことだと思うよ。浮気だなんて―」
「違いますっ」
 反論しようとした樹生に代わり、まりがいきなり湊の言葉を遮った。
「何が違うんだよっ」
 無関係なまりに割ってはいられ、思わず樹生は言い返す。だが、それで怯むまりではなかった。
「あの二人、お互いを想い合ってますっ」
 まりの言葉に驚いたのは樹生の方だった。思わず湊の方を見ると、湊も驚いて樹生の方を見ている。
 まりは焦ったように話しだした。
「私も昨日、見たんです。二人が、海浜公園にいるところっ。話は途切れ途切れで、よくわからなかったけど、新田先輩の話を聞いてわかりました。
 あの二人、お互いの気持ちもわかってます。付き合いたいって、そう思ってますっ」
 まりの言葉が本当ならば、それははっきりとした証拠だった。
 樹生と湊が再び顔を見合わせたところで、急にドアがノックされた。無視をしようと思ったが、ドアは何度も叩かれる。ため息をつきながら樹生はまりに黙るようにとにらみを利かせると、ドアを開けた。
 重要なミーティングの最中だから邪魔するなと、あしらおうとした樹生は、顔をあげたところでその言葉を飲み込むしかなかった。
「何…やってんだ?」
 怪訝そうな表情で、そこには成が立っていた。
「あ…」
 まさか今の話、聞いてないよな。
 そう思いながら答えに悩む樹生を気にせず、成は部室に入ると、奥のロッカールームを見て、あれ?と声を出すと、思いついたようにミーティングルームのドアを開けた。そして、
「萌子、こっちにいたんだ」
と声をかけた。
 驚いて顔を見合わせる三人を置いて、成はミーティングルームにいる萌子に話し続ける。
「ごめん、来るのが遅くなって。担任の話、大した話じゃなかった。確かロッカーの上の段ボールだったよな」
 成に引っ張られるように萌子が部室へと姿を現す。気まずそうな萌子の表情に、話を聞かれていたことを樹生も湊も理解した。ただ、そうとは知らない成だけが、元気よく話している。実のところ、朔哉の住所を祥子に渡したことが、成の気持ちを少し楽にさせていた。
「またこの前みたいに怪我されちゃ大変だし。ああ、そうだ。樹生たちにも手伝ってもらおう」
 始まりは今日の休み時間中のお喋りだった。
 探しても見つからないビブスの話になり、ふとケンが部室の個人ロッカーの上にある段ボールがいくつかあって、それが長い間開けられていない話を言いだしたのだ。もしかしたら、そこに入ったままかもしれない、と。それを聞いた萌子は、当然その段ボールを見てみると言ったのだが、この前ロッカーの上の荷物を取ろうとして怪我をしている萌子である。大丈夫だから、部員たちがいない練習中に一人でやるという萌子を、成が昼休みに手伝うということで納得させたのだ。媚薬
 いざ昼休みになると、成は担任の呼び出しを受けてしまい、萌子は先に一人部室へとやってきた。成を待っているわけにもいかず、ロッカーの上に手が届くようにするためと、萌子は隣のミーティングルームへと入った。ちょうど足場になる椅子があるのだ。だが、その椅子を探し出したところで、部室の方から物音が聞こえた。開いたままのドアの隙間から中を覗くと、張りつめた雰囲気の樹生と湊だった。声をかけようとしたところで、いきなり成と祥子の話が出てきた。もう萌子が中に入っていけるような雰囲気ではなかった。
 途中でまりも加わった話を聞きながら、ショックを受けた心の片隅で萌子はそういえば、と思い返し始めていた。
 そういえば、この前祥子は練習を見に来ていた。
 祥子がそんなことをしたのは初めてだった。と、萌子はふいに一年生の時に同じクラスだった白井百合のことも思い出していた。
 百合も成が好きで、よく練習中に成を見にグラウンドにやってきていた。
 そういえば、グラウンドにやってきた祥子の視線も、どこか遠くを見ているようだった。あれは、成を探していたんだろうか。
 DVDを貸し合う二人、珍しく「祥子」と名前で呼ぶ成。
 考えれば考えるほど、疑惑は浮かんできて、樹生やまりの話が本当のような気がしてきた。
 そして、浮気をする男によく言われる、罪悪感からかいつも以上に優しくなるという態度。
 じっと見つめる萌子の前で、成は楽しそうに笑っている。
「ちょっと、待って」
 萌子は成にそう言うと、状況を見守っているだけの樹生たちに言った。
「悪いんだけど、成と話したいことがあるから、ちょっと部室を出てくれる?」
 樹生が何か言いかけたが、それを湊が制し、三人は大人しく出て行った。
 静まり返ったところで、成が口を開く。
「何?話って」
 今となっては成の笑顔が恨めしい。萌子は深くため息をつくと、なるべく冷静にと口を開いた。
「成は、祥子のことどう思ってるの?」
 突然の質問で、成は戸惑った。
「どうって。クラスメート、だろ」
「だったら、どうして嘘ついたの?」
 え?と成の表情が強張る。その表情で、成の答えがわかり、萌子の声は微かに震えた。
「昨日の夜も、コンビニに罰ゲームじゃないんでしょう。祥子に呼び出されて、海で二人でいた。寮の門限の時間はとっくに過ぎても」
 驚いて顔を自分を見つめる成の真直ぐなところが、萌子の癇に障る。
「おまけにこの前は、駅で肩を組んで歩いてたって。今日だって、廊下に呼び出して、何か渡してた。ねぇ、何を渡したの?」
 それは…と答えかけて、成ははっとしたように乾いた声で言い直す。
「…誰がそういうこと―」
「誰だっていいじゃない。問題は、成が嘘をついたってことよっ」
 ついに声を荒げた萌子に、成は黙り込んだ。
「…嘘つかないで、答えて。祥子のこと、…好きなんでしょう?」
 違うと言って欲しい萌子に、成は答えた。
「祥子はそういう存在じゃない」
 はっきりと違うと言わない成に、萌子は苛立って言い返す。
「だったら何で嘘ついたの?どうして?」
 どうして、好きでもない私の隣にいるの?
 どうして、優しくしてくれるの?
 成にずっと聞きたかったことがどんどん心の中から溢れてくる。だが、萌子はかろうじて、その途中で口を閉ざした。成の表情が曇ったからだ。
「…嘘をついたことは、謝る。だけど、肩なんて組んでないし、それに俺も祥子もそういう関係じゃ―」
 ないという成の言葉を無理やり遮り、祥子のことを庇うような成に堪らず萌子が叫ぶ。
「私のこと、だましてたんだ。成も、祥子も。
 そうよ、きっと祥子は、成が目的で私に近づいたのよ。だって、そうじゃなきゃ声なんかかけるわけない。冷静に私たちの関係を考えたんなら、近づいてくるわけない。
 百合と一緒。私のこと、利用しようとして―」
「祥子はそういう奴じゃない」
 これ以上祥子を罵倒する萌子の話を聞きたくなくて、思わず成がそう答えると、萌子が軽い衝撃を受けたような表情をしていた。そして、呟く。
「…庇うんだ。やっぱり、好きなのよ。祥子のこと」
 だから、私とは付き合っていると言わない。
 私のことは、好きなんかじゃない。
 頑なな萌子に、成は言い返す。
「何でそうなるんだよ。落ち着いて考えれば違うってわかるだろ?」
 少なくとも成は、朔哉のことを言いたかった。萌子は祥子と朔哉が付き合っていると信じているのだから。
 しかし成の言葉に、萌子の何かが振り切れた。
「わかんないよ、成のことなんか、成の気持ちなんか、わからない。
 私たち、付き合ってるんだと思ってた、なのに成は違うって言う。
 だったらどうして一緒にいるの?
 どうして私の傍にいるの?」
「それは―」
「はっきり言葉にしてくれなきゃ、成の気持ちなんかわかんないよっ」
 一方的に言われ続けて、成の中でも何かが振りきれていた。
「疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ。
 だいたい、そんなこと言う萌子はどうなんだよ。
 どうして本当は福山さんのことが好きなのに、俺の隣で居続けようとするんだよっ」
 成の最後の言葉に、お互いがはっとした表情で見つめあった。先に視線を逸らしたのは萌子だ。
「…そんなことない、朔哉さんは関係ない―」
 視線を逸らされたことが萌子の本当の答えのような気がして、成は更に不安になって言い返す。
「だったらあの手紙は何なんだよっ。
 どうして自分が幸せだって書かないんだ。いつもいつも、俺と福山さんを重ねたり、比べたり、そうやって福山さんのこと忘れられないのは萌子だろっ。
 萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ」
 言った瞬間、成は後悔をした。大きく目を見開いた萌子が、じっと成を見つめていた。その頬に一筋の涙がこぼれ落ちる。視線があったが、今度逸らしたのは成の方だった。
 そうして黙り込む成の前で、萌子は踵を返すとそのまま部室を駆け出して行った。
 残された成は、畜生と呟き、ロッカーを殴りつけた。



「あ、萌子さん…」
 部室から飛び出してきた萌子に、そう樹生が声をかけたが、振り返りもせずに萌子は校舎の影へと消えていった。慌てて樹生が追いかけようとしたが、それを湊が止めた。
「ひとりにさせてやろう」
 湊の言葉に顔をしかめつつも、大人しく立っていた樹生だったが、突然部室のドアを開け、中に入って行った。
 立ち尽くしていた成が、樹生に気づいて顔を上げる。
「俺っ、成さんのこと、見損ないましたっ」
 何も反論しない成に苛立ちを覚え、樹生は胸倉を掴むと、そのまま成をロッカーへと押しつけた。
「そんな人だとは思わなかったっ」
「やめろ、樹生」
 抵抗すらしない成と息の荒い樹生の間に入ったのは、湊だ。湊は樹生を成から離すと、そのままずるずると床に座り込んだ成に聞く。
「何が、あったんだ」
 成を疑うことなく、説明を求める湊の優しさが、今の成にはひどく痛い。
「…会ったのは事実だけど。ただ、相談にのっていただけ」
 その言葉に、湊がほっと一息をつく。荒立っていた樹生は、先走り過ぎた自分を腹立たしく思い、舌打ちをした。
 どうして俺、あんなに成さんのこと信じてあげれなかったんだろう。
 成さんのこと、誰よりわかってるはずだったのに。
 おまけに、萌子さんにまで俺のせいで誤解させて。
 自分を責める樹生に、成のぽつりと呟くような声が聞こえる。
「自分を責めなくてもいい、樹生。
 浮気は勘違いだけど、俺はお前が思ってるような尊敬できる人間じゃないのは、当たってる」
 言いながら、成は萌子の涙を思い出していた。
 あんなこと、言うつもりじゃなかったのに。また、傷つけた。
 …だけど、萌子も。否定しなかった。
 結局傷ついたのは、お互いだった。

 教室に戻れば、いやでも祥子と顔を会わせなければならない。
 海辺で涙を奥底に押し込んでから、萌子の足は教室ではなく、保健室へと向かっていた。
 紗依は、萌子が気分が悪いというと、疑うことなくベッドをひとつ提供してくれた。特に用事もなく寛ぎに来ていた生徒たちにも、体調の悪い生徒がいるから出て行くようにと告げ、気付けば保健室は静まり返っていた。五分もすれば、午後の授業の開始のチャイムが鳴る。悩んでいると、カーテン越しに紗依の声が響いた。
「珍しいわね、沢木さんが怪我以外のことで来るなんて」
「そう…ですか」
 言葉を詰まらせながら答えると、紗依は明るくそうよと、答えた。
「でも、心を休めることも時には大切。午後いっぱい、ここで休んでいく?」
 どうやら仮病は見抜かれているらしい。だが、紗依はそれを黙認してくれている。
「…はい」
 罪悪感を感じながらも、萌子はそう答えた。
 とりあえず、教室に戻らなくていいとほっと一息つくと、紗依がさらに問いかけてきた。
「部活は?どうする?」
 そう言われて萌子は戸惑った。
 グラウンドに行けば祥子はいないが、成はいる。
 顔を合わせたくない。でも、練習を休むわけにはいかない。仮病がばれれば、石橋の逆鱗に触れるのは明らかだ。黙り込む萌子に、気を使ってか紗依が答える。
「まあ、すぐに決めることもないわ。練習が始まる前までに決めればいいから。石橋先生には、私から伝えるし」
 会話が終わり、静寂が訪れる。
 萌子は天井を見上げてから、腕を顔の前でクロスして、目を閉じた。
 どうして、あんなこと言ってしまったんだろう。
 成を責めるつもりはなかったはずなのに。
 成と、ゆっくり、一緒に歩いていこうと決めたはずだったのに。
 自然と溢れた涙が、頬を伝い、枕をぬらす。
『疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ』
 わかっていたはずだった。
 成は朔哉とは違って、言って欲しいことを言ってくれるわけではないし、先回りして萌子の気持ちを考えることもしない。
 だけど、それでも、成と一緒に歩いていこうと思った。
 それなのに…。
『萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ』
 一歩前進したと思ったのは、萌子だけだったのだろうか。
 成は、もとから萌子と一緒に歩くつもりはなかったのだろうか。
 だから、祥子と夜中に会っていたのだろうか。
 …だけど、祥子には朔哉さんがいる。
 成だって、それを知っているはずだ。
 それとも、二人はうまくいっていないとか?
 その時、ドアが乱暴に開く音がして、中に入ってくる足音が静かだった保健室に響いた。
「ごめんなさい、今急病の生徒が…藤原君」
 静かにするようにという前に、紗依は目の前に立つ右京の名前を呼んでいた。
 体育教官室から駆けてきた右京は、肩を大きく揺らしながら、睨むように紗依を見据えている。その気迫に圧されるように、紗依が視線を右京から外し、棚に手を伸ばすふりをして背を向けたところで、右京が一歩近づいて、尋ねた。
「今日も、また弁当持って行くのか?」
「え」
 右京が何のことを指しているのか、紗依にはすぐにわかった。
 子供を連れて妻に家を出られた石橋の為に、紗依はたびたび石橋の家に差し入れの弁当を持っていっていた。
 ただ、直接渡すわけにもいかずに、いつも玄関に置いて、チャイムを押し、物陰に隠れる。そうして、石橋がちゃんと受け取るのを見てから、帰るのだ。
 この前などは、玄関に前回差し入れた時の容器が綺麗に洗われて置いてあった。
 それは、まるで秘密の手紙のやり取りのようで、紗依の最近の楽しみであったのだ。
 それをどうして彼が知っているのか、思わず振り返ると、右京は低い声で、小さく言った。
「もうやめろ。監督は先生のこと、何とも思ってない」
 すると紗依は噛みつくように右京に言い返した。性欲剤
「あなたには関係のないことだわ―」
「見てられない。傷つくのを、見たくない」
 自分の好きな人には、傷ついてほしくないから。
 だがその言葉を右京が胸に強く押し込めたところで、紗依が怒りに震えた声ではっきりと言った。
「あなたには、関係のないことでしょう」
 そして立ち尽くす右京を後にして、紗依は激しく音をたて、ドアを閉めて保健室を出て行った。
 数日前のことだ。
 ランニングをしていた右京の前を、紗依が自転車で通り抜けていた。いつもと同じ時間で、いつもと同じコースなのに、紗依を見かけたは初めてだった。
 どこに行くのだろうと、気付いたら後ろを追いかけていた。紗依はのんびりと自転車を漕いでいて、スピード的にも右京のランニングにもちょうどよかった。
 住宅街に入り、ある家の前で、紗依は自転車を降りると、かごから包みを取り出した。そして、それを門に引っかけるようにして吊るすと、代わりに置かれていた包みを拾う。そして、チャイムを鳴らすと、突然物陰に隠れた。
 届ものならば、どうして正面切って渡さないのかと思っていた右京の前に現れたのが石橋で、思わず右京も身を潜める。石橋は包みを手に取ると、数回左右を見回したところで、ほほ笑んで家に入って行った。そして紗依は、石橋が家に戻ったのを確認すると、再び自転車に乗り、鼻歌を歌いながら元来た道を戻って行った。
 それがどういうことなのか、わかったのは今日の昼休みのことだった。
 進路のことで石橋から体育教官室に来るようにと言われていた右京だが、行ってみると石橋は不在で、弁当だけが机の前に置かれていた。近くにいた教員が、すぐに戻ってくるというので、右京はそのまま石橋の席の前で立っていると、他の教員たちが石橋の話を始めた。
「結局、仲直りしたみたいですよ、石橋先生」
「手作りのお弁当でしょう?見た見た」
「おかずをひっそりと家の前に届けてるってね。チャイムだけ鳴らして、顔は出さない。弁当だけじゃなくさっさと奥さんも家に戻ってくればいいのにね」
「一度出て行った手前、戻りづらいんじゃないですか?石橋先生も頑固者だし、似た者夫婦ってやつでしょう」
 石橋の妻が家を出ているということにも驚いたが、何より右京が驚いたのは、紗依が届ける弁当を石橋が妻からの差し入れだと思っているところだった。だが、確かに厳格な石橋であれば、紗依の差し入れを断るに違いない。だが、そうとは知らずに、紗依は受け取ってくれていることを喜んでいる。
 気づけば右京は、石橋を待たずに体育教官室を飛び出した。行く先は保健室、つまりは紗依のところだった。
 気づいてないんだ。そもそも、対象としても見られてない。
 それに気づいてほしい。
 これ以上、傷つかないでほしい。
 だが、そう伝えたかった気持ちとは裏腹に、そっけない自分の言葉が紗依を傷つけてしまった。
「…畜生」
 右京は小さくそう呟くと、壁に背をつけ、天井を仰いだ。

 

 午後の練習は、雨のために室内でのトレーニングになった。
「萌子が病欠?珍しいな」
 腹筋をしながら、そう興仁が呟く。興仁の足を押さえていたケンがそれに答えた。
「そういや午後の授業もいなかったし。何かあったのか?成」
 隣で湊の足を押さえていた成は、突然話を振られて、思わず手が緩んだ。
「あ…」
 途端に、腹筋をしていた湊の体がぐらりと揺れて、成は慌てて足を押さえる。
「ごめん、湊」
「大丈夫。それより、回数合ってる?これで、三十五回目だけど」
 頭の中で飛んでしまっていた数字を言われて、成は何度も頷いた。
 部室を飛び出してから、成は萌子を見かけていない。授業が始まるからと教室に戻ったが、萌子は気分が悪いと保健室で休んでいた。休み時間に様子を見に行こうかとも思ったが、萌子が教室に来ないのは自分が原因だと思うと、そうすることができなかった。だが、何も知らずに様子を見に行った知朗が、教室に戻ってくるなり萌子の鞄を持って出て行こうとしたのには、流石に声をかけた。曰く、調子が悪いから学校も早退するのだそうだ。何も知らない祥子がその話を聞いて自分が鞄を届けると言い始めた時は、成も焦ったが、知朗がもう次の授業が始まるし、自分が行った方が早いと説得して、事なきを得た。
 だが成にも、このままじゃいけないということくらい、わかっている。
 しかし、自分が萌子にはいた言葉を思い返すと、顔を合わせても、どう話したらいいのかがわからない。
『疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ』
 実際、疲れる部分もあった。朔哉と比べてるような感じもしたし、周囲からの視線も気になった。
 萌子のことを好きだったけれど、こういうことを望んでいたわけじゃないと思った。
『萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ』
 言われた時の萌子の表情を、流れた涙を思い出す。
 萌子のことも泣かしたかったわけじゃない。
 なのに、どうして自分は、好きな子を傷つけることしかできないのだろう。
 俯きため息をついた成の耳に、由太の低音が響く。
「おい、私語は慎め。トレーニングだからって気を抜くな。怪我するぞ」
「はーい」
 ケンと興仁が目を合わせて、可愛らしくそう答える。
 その様子を見ながら、由太は小さくため息をつくと、その隣にいる成を見つめた。
 思った通りだな。
 ここ最近の成と萌子は、まるで合わせ鏡のように、喜怒哀楽が一致する。成が笑っていれば萌子も笑い、萌子が悲しんでいれば成も悲しんでいる。
 由太が保健室に入ったのは、偶然知朗と廊下で鉢合わせたからだった。
 走ってくる知朗に、ぶつかりかけて、謝られて、注意をすると、
「萌子が気分悪くて、保健室にいるんだっ」
といい残された。流石に気になって、保健室に行ってみると、中には萌子一人で、知朗はいなかった。
 一目で、落ち込んでいる萌子に何があったのか聞くことを悩んでいると、萌子の方から切り出した。
「ごめん、体調悪くて…今日の練習、休んでもいいかな」
 昼過ぎから降り出した雨は、この頃には本格化していた。おそらくグラウンドでの練習はできない。
「わかった。監督には俺から言っておく」
 ありがとうという声にも、元気がない。単に体調が悪いからだけじゃないと感じた。
 何があった?
 あいつと、成と何があった?
 そう尋ねようとしたところで、知朗が萌子の鞄を持って駆け込んできた。
「持ってきたぞ、鞄。今日は帰ってゆっくり休め」
 鞄を受け取り立ち上がった萌子の足取りはどこか頼りなくて、結局知朗が下駄箱まで連れて行っていた。
 廊下で二人の後姿を見つめていると、反対方向から、女子生徒が保健室に飛び込んできた。そして、荒い息の中でも必死で言った。
「あのっ、三年の沢木萌子っ、いますか?」
 中にいた紗依の声で、萌子がもう出て行ったことを説明しているのが聞こえる。
 今からならば、下駄箱にいる萌子にギリギリ間に合うと伝えようと思った由太は、保健室に顔を出したところで、その言葉を飲み込んだ。
「ありがとうございました…」
 そう言いながら保健室から出て行こうとしているのは、菅原祥子だった。
 この凪高で、少なくともサッカー部で祥子のことを知らない生徒はいない。
 卒業式に、朔哉と共に学校を出て行った生徒であり、言わば萌子から朔哉を奪った生徒であり、しかしながら今は萌子と同じクラスで仲がいいという生徒でもある。由太は一年の時に祥子と同じクラスだったので、互いに面識もあった。
 祥子は由太に気づくと、軽く会釈をして、保健室を出て行った。
 萌子を心配して、保健室に来たというのであれば、友情は確かに芽生えているのかもしれない。だが、それは祥子側の話であって、萌子側となると別だ。しかも、あの駆けつけ方からすれば、祥子としては、自分の過去への気遣いは全くないようだった。
 菅原のことも、無関係じゃないのかもしれない。
 だが、それより何より、成がこの場にいないことが、全てを物語っている気がした。
 しっかり萌子のこと、捕まえていろよ、成。
 でなければ…。
 その先に思ったことを、由太は慌てて心の奥に仕舞いこんだ。



 眠ってしまえば、何も考えなくて済むはずなのに、萌子の頭は一向に眠る気配すらない。眠るという行為は、リラックスしていなければいけないという話を思い出しながらも、リラックスなどできるはずもなかった。
 目を閉じれば、勝手に萌子の頭の中で、寄り添う成と祥子の姿が過る。慌てて眼を開けても、暗闇の中で思い出すのは、成に言われた言葉だった。
 その先を思い出すのが辛くなり、すぐに目をぎゅっと閉ざす。
 ここ数時間この繰り返しで、当然萌子が眠れるはずもなかった。
 布団を被り、ため息をついたところで、ドアがノックされ、母親が顔を出した。
「萌子、電話だけど出れる?」
「誰?」
 布団の中から、萌子が尋ねる。
 成だったら、という淡い期待は、だが何を話せばいいのかわからないという不安へと変わる。そして、母親が言った。
「同じクラスの菅原さんって女の子」
 その名前を飲み込みながら、萌子は更に布団にもぐりこんで答えた。
「ごめん、気分が悪いから、出られない」
 萌子の返事に、母親は優しく答えた。
「わかったわ。あなたはゆっくり休んでなさい」
 萌子の仮病を見抜いているのか、早退した萌子に薬を飲ませようとした母に、薬はいらないというと、そのままわかったと言って薬の箱をしまった。
 そして萌子を二階の部屋に寝かせると、それ以上は萌子を干渉しなかった。
 だがその距離が、今の萌子には心地よかった。
 それでも常に近くにいてくれる。萌子が手を伸ばせば、届く距離に母はいる。
 そしてそのきっかけをつくってくれたのが、成であることを思い出し、萌子は唇を噛みしめた。



 今日だけは、遅刻できない。
 そう思った成は、約束の時間より少し早くに萌子の家の前に立っていた。
 昨日は何度も電話をかけようと思ったが、知朗にまたしても先を越されてしまった。だがその知朗も、萌子とは話ができなかったらしく、
「具合が悪くて出られないから、誰も電話をかけるなって」
と、皆を先制するように言った為、成としても何もできなくなってしまった。
 何を話せるわけではないが、まずは昨日の言葉を謝り、それから祥子のことを説明する。
 昨日湊に何があったのかと聞かれた時も、話し終わった成に湊はそう言った。
『言ってしまった言葉は取り返せないから、とにかく謝った方がいい。
 それから祥子のことは、全部素直に話した方がいい。そうすれば、萌子もきっとわかってくれるよ』
 少しでも早く謝りたい。
 そう心に決めて早く来たものの、いつもの時間を五分過ぎても、萌子は現れる気配はない。
 まだ、調子悪いのか。
 今日も休むんだろうか。
 成が萌子の家の塀に身をもたれて悩んでいると、女性用媚薬
「あの…」
と声が聞こえてきた。体を起こし、声のした門の方を見ると、萌子と似た顔の女性が成のことを見つめている。
「もしかして、早坂君?」
 萌子の母さんだ。
 慌てて成は、背筋を伸ばして頭を下げた。
「あっ、お、おはようございます」
 すると萌子の母親はそんな成を見て、くすりと笑った。
「おはよう。
 ごめんなさい、萌子はもう学校に行ってるわ。昨日休んだ分、何だか、やらなきゃいけないことがあるとかで、今日はいつもより早く出て行ったの」
「そう…ですか」
 成の表情が曇る。
 確かに萌子の言うことも一理あるが、それでもやはり自分と顔を合わせたくなかったのではないかと成は思ってしまう。
 力なく失礼しますと答え、学校へと歩き出したところで、萌子の母親が成を引き留めた。
「あの、早坂君」
「あ、はいっ」
 慌てて振り返ると、楽しそうな笑顔が返ってきた。
「今度、晩御飯うちに食べに来てちょうだい」
「は、はいっ」
 再び背筋を伸ばしてそう答えると、萌子の母親は更に楽しそうに微笑んだ。



 朝練は、さり気なくやり過ごした。成となるべく離れているようにしていたけれど、萌子の体調がまだ優れないと思っているのか誰もそれを不審がる様子はなく、教室へ向かう時にも知朗がまるで護衛のように貼りついてくれていて、成の入る隙はなかった。成の方も、自分を置いて先に学校に向かったことを気にしているのか、積極的に萌子の方にはやってこなかった。
 けれど、祥子は違っていた。
「大丈夫、萌子。やっぱり顔色悪いみたいだけど」
「うん、平気」
 そうは言いながらも、やはり祥子の顔を見ると、昨日の話を思い出して、自然と視線を逸らしてしまう。何も知らない祥子には、そんな萌子が無理をしているように見えるらしい。向かい合って弁当を食べる心境でもなく、気付いたら半分ほど残して、蓋を閉めていた。
 そうだ、用事があるからって図書室でも行けばいい。
 そうすれば、少しの間でも一人で静かにしていられる。
 だが、そんな萌子の思いは祥子には伝わらない。
「どこ行くの?ついて行こうか?無理しないでね。保健室で、休んでてもいいんだからね。ノートは私が取っておくし―」
「萌子」
 萌子が返事に戸惑っていると珍しく湊が祥子の言葉を遮って、萌子を呼び止めた。
「ちょっと、いいかな」



 湊の話はわかっているから断りたかったのだが、そうすると祥子と一緒にいることになる。結果、萌子は湊の後を追って、部室へと向かう。誰もいないのを確認してから、湊はミーティングルームに入り、萌子に座るよう言った。
「話があるんだ」
「成のことだったら、聞きたくない」
 はっきりとそう言った萌子に、湊は苦笑する。昨日は落ち込む成を励まして今朝寮から送り出したつもりだったのに、学校に行ってみれば、二人の関係は悪化していた。萌子が成との約束を破り、一人で先に学校に向かったらしい。萌子からすればしょうがないとも思いつつも、湊はこの件はできるだけ早く穏便に済ませようと思っていた。二人のぎこちない関係がこのまま続けば、部員たちにもばれる。ばれてこじれれば、元に戻るには更に時間がかかる。樹生の勘違いとはいえ、聞かせてしまったのは自分の責任だと、湊は萌子の正面の椅子を引き、ゆっくりと座る。
「いろいろ腑に落ちなくて、昨日成からちゃんと聞いた。誤解されたまま仲互いをされたら、聞かせた俺と二人の後輩の心臓にも悪い」
「…誤解?」
 そっぽを向いていた萌子の顔が、一瞬だけ湊を見つめる。ああ、と答えて、湊は全てを説明した。
「一つずつ言うと。
 まず駅で会ってたって話。確かに成は、樹生に聞かれてコンビニに行ってたって嘘をついた。
 でもそれは、探し物があったからで、それを見つけて帰る時に、泣いている祥子に出会った。肩を組んでたって言うのは樹生の勘違い。成も覚えてないくらいで、多分泣いてる祥子の肩を掴んで歩いてたのが、樹生にはそう見えたんじゃないかって」
 祥子が泣いていたということに驚きながらも、萌子は心を緩めないようにときつく湊に言い返す。
「だったら、どうしてコンビニって嘘をついたの?」
 だが湊は柔らかな態度を変えずに、頷きながら答えた。
「探しものって言うのは、御守。萌子が渡したんだろう?遠征前に成に」
 言われて、あっと小さな声を萌子はあげる。
「プレゼントされたものを落としたことが情けなくて、コンビニだと答えた。まさかそんな問題になるとも思ってなかったって」
 萌子の表情からいくらか硬さがとれて、湊は話を続けた。
「それから、一昨日の話。
 相談したいことがあるからって、成は祥子に呼び出された。アルジャーノンの前で待ち合わせして、それから海へ向かった。バイト終わりの一馬が二人の後姿を見てた。
 帰りが遅くなったのは、祥子に付き合っていたから。深夜の海辺に女の子一人置いて先に帰れるほど、成は無責任じゃないよ」
 湊の穏やかな声で、きつく結ばれていたはずの糸が、ゆっくりと解けて行くように、萌子の頑なな心も少しずつ溶かしていく。
 だけど…と萌子は口を開いた。
「だけど、まりちゃんが言ったことは?お互いを想い合っているって」
 すると湊はくすりと笑った。
「大野が早とちりなことは、萌子の方がよく知ってるだろう?
 あれは全くの誤解、二人の近くを通った時に、海風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる二人の会話を、勝手に解釈しただけ。
 祥子が萌子になりたい、成が福山さんになりたい。そう聞こえたんだ。
 それを大野が、萌子は成の恋人で、福山さんは祥子の恋人だから、互いの恋人になりたいってことは、お互いのことが好きだと思ったらしいんだよ。まあそれも、樹生の話を聞いて、ひらめいちゃったって感じだろうけど」
 くすりと笑う湊を目の前に、成と祥子の会話の意味がわからずに黙り込んでいると、それから、と湊が話を続けた。
「昨日渡したって紙は、祥子の悩み事に関係しているらしい。だけど、その悩み事が何かってのは俺には話してくれなかった。祥子の話だから当然だと思う。気になるんだったら萌子が祥子に聞けば、教えてくれるかもしれない」
 湊はそのままニコニコと微笑み続け、まるで萌子の気持ちを見過ごしたように言った。
「成が嘘をついたのは、萌子の為だよ。
 余計な心配掛けたくなくて、大したことじゃないと思ってついた小さな嘘が、いつの間にか大きくなって、取り返しがつかなくなっていたってだけで。大きくなってから、正直に話をしたら、余計に誤解するだろう?嘘が苦手な成が、よく本当のことを言わないで我慢してたって俺は思ったけど」
 そう言われても、誤解だとわかっても、それでも、嘘をつかれたことを素直には許せない。中絶薬

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