「お前は――お前は!」
パズルのピースが埋まるように、思い出してきました。
フィロリアル様達を亡き者にし、お義父さんに重傷を負わせた元凶が目の前にいて、お義父さんやみんなを傷つけようとしている。D9 催情剤
この元康、動かずには……居られないのですぞ。
槍を奴の攻撃の射線上に合わせて弾き、奴の豚に当てますぞ。
「ブヒ――!?」
ブシュッと豚の一匹に当たって血が飛び散りましたな。
同時に、飛行船のデッキに穴が空きましたぞ。
「え……ヴァーンズィンクローが……弾かれた……それに武器が奪え……俺は今……」
放心するように、ビクンビクンと痙攣する豚をタクトは見つめておりますな。
「何のつもりか知らないけれど、俺達に何の恨みがあって――」
お義父さんがタクトに向けてなにやら呟いておられます。
ですがこの最低のクズ相手にはそんな言葉、意味がありませんぞ。
「てめぇええええええええ――」
ぶちぎれたタクトが『ツメ』を振りかざしてこちらに近寄ろうとしています。
ですが――。
「元康くん! 何をするつもり!?」
「コイツは……コイツだけは生かしておいてはいけないのですぞ!」
最大限出力を上げたブリューナクを俺はタクトに向けますぞ。
全ての力を全開まで引き出し、当てて見せますぞ。
「ブヒィイイイ!」
メイド服を着た豚が俺とタクトの間に立ちますぞ。
「ブリューナクⅩ!」
槍から放たれた高出力の分厚い閃光がメイド服を着た豚を貫き。
「うわ――」
タクトを消し炭にしましたぞ。
豚一人が庇った程度で俺のブリューナクは止まりませんぞ。
シューっと音を立てて部屋に風穴が生成されましたな。
……思わず殺してしまいましたが、ループしませんぞ?
ふふふ……どうやらループの起点となっているのはお義父さんや錬と樹だけの様ですな。
ならば、こやつ等を殺しても問題ないですぞ。
「「「ブヒィイイイイイイイイイイイイイイ!?」」」
豚共の喧騒が騒がしいですな。
安心すると良いですぞ。
等しく皆殺しにしてタクトのいるあの世に送ってやりましょう。
「よくもタクトを!」
「タクト……タクトは何処に行ったの!?」
と、ドラゴンとグリフィンが豚から正体を露わして騒ぎ始めましたぞ。
「タクトは元より、父上まで殺した槍の勇者! 絶対に殺してやる!」
狭い室内で、グリフィンが俺に向かって突撃してきましたぞ。麻黄
「父上? 知りませんな……ああ、そういえば山で遭遇した大きなグリフィンがいましたな。ドロップが優秀でしたぞ?」
「ぶっ殺す!」
突然現れてブツブツとよくわからない事を呟いていた根暗なグリフィンですか。
その子供らしいですな。
タクトと共に居たという事は同罪、その命を持って償ってもらいましょう!
「エアストジャベリンⅩ!」
ブリューナクはクールタイム中ですからな。
狭い室内でエイミングランサーなど放とうものなら、ユキちゃん達に当たりかねません。
それならば俺が直接狙った方が良い結果になります。
なにより、この程度の攻撃であの時の鬱憤は晴れませんぞ。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアア――」
ブチャっと音を立てて、グリフィンの頭を消し飛ばしましたぞ。
「ハハハッ! 親と同じ殺し方をしてやりましたぞ!」
近かった所為で返り血が俺に振りかかってしまいましたな。
穢らわしい。
「ええい! この乗り物が邪魔じゃ! タクトの仇、ここで晴らしてくれる!」
バキバキとドラゴンが巨大化して、飛行船を崩壊させていきますぞ。
こんな化け物も隠しているとは……腕がなりますな。
ドラゴンというだけで生きる価値が無いのに、その上タクトの仲間と来たら殺しても殺し足りませんぞ。
「みんな、今すぐここから逃げるんだ!」
「は、はい!」
シルトヴェルトの重鎮達は頷いて、俺が開けた穴から逃げましたぞ。
「ブヒ――」
「死ね! ですぞ」
俺も合わせて逃げますが、その合間にタクトの豚共をついでに突いて仕留めますぞ。
やがて火を放ちながら飛行船は落下し、辺りは火の海になりました。
城目掛けて巨大なドラゴンが飛来し、シルトヴェルトの者達は右往左往し始めましたぞ。
「元康くん!」
俺は逃げる豚にエイミングランサーのターゲットを何度かしたのですが、タクトの豚の数は多く、しかも威力の低いエイミングランサーでは殺しきれ無い状態でしたぞ。
お義父さんに声を掛けられて振りかえります。老虎油
「一体どうしたの! それに、鞭の勇者を殺すなんて大問題……いや、状況的にそうしないとダメだったか……」
「思い出したのですぞ! 奴は……鞭の勇者だけではなく七星の武器を集めている、未来の世界でお義父さんが倒した敵だったのですぞ!」
「だからって……今の状態がわかる?」
お義父さんに言われて辺りを見渡しますぞ。
辺りは今まさに火の海になっていて、城の近くにあった森に火が燃え移っております。
シルトヴェルトの者達が必死に消火活動をしておりますが、空を飛来してくる巨大なドラゴンを相手に戦場は混乱を極め始めました。
辛うじてフィロリアル様達によって城は守られておりますが、いつ被害が増大するかわかったものじゃありません。
俺は火の海の中で……そっと槍を下に向けましたぞ。
「奴の所為で……未来のお義父さんは泣いていたのですぞ……フィロリアル様も死んでしまって……」
「うん……その気持ちはわかったから、それにどうやったかわからないけど行方不明だったツメの勇者を殺したのもどうやらタクトだったみたいだしね」
お義父さんが炎の中で俺を抱きしめてくださいました。
遠くでユキちゃん達がドラゴン相手に指揮をしてくださっています。
「今は少しでも被害を抑えるべく、暴れている敵を倒そう。波までの残り時間も少ないから……」
「はい! ですぞ!」
お義父さんに言われ、俺はドラゴン……怒り狂った竜帝に向けて駆けだしますぞ。
狙うはドラゴンの頭部……。
そこに全力でスキルを放ちますぞ。
「ブリューナクⅩ!」
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
一直線に距離のある状況ではブリューナクは紙一重で避けられてしまいましたぞ。
チッ!
ならば、被害が出る前にやる事は一つですぞ。威哥十鞭王
エイミングランサーの上位スキル……威力、命中精度を誇る神々の有名な槍の名を冠するスキルを放ちますぞ。
槍が黒く輝き、俺の視界に飛んで行く軌道が現れますぞ。
「グングニルⅩ!」
黒い一筋の、曲がる槍が……巨大なドラゴンの頭部目掛けて飛んで行くのですぞ。
「ガアアアアアアアアアアア――グガ!?」
ドスッとグングニルが巨大なドラゴンの眉間に命中し、音を立てて内部に入り込んで通り過ぎると……ドラゴンの頭部は炸裂しましたな。
ヒューッと音を立てて、巨大なドラゴンが城の中庭に落下致しました。
「やった! やったよ元康くん!」
「当たり前ですぞ! さあ、後はタクトの豚共を駆逐するのですぞ!」
「待って! もう逃げられちゃってるし……波までの時間を見て!」
お義父さんに言われて視界の砂時計の数字を見ますぞ。
そこには後10分と言う数字が刻まれていました。
「10分もあれば、何匹か仕留められますな」
「落ちついて元康くん! 君は……タクトの連れていた女達の区別が付くの?」
「……なんと」
そうでした。
俺は……あの場に居た豚の区別など付きません。
今行けば、判別が付かず無関係な豚共も皆殺しにしてしましょうでしょう。
「今は少しでも波に備えて準備をしよう。じゃなきゃ世界が大変になるよ」
「わかりましたぞ」
「大変です!」
ドラゴンの死骸を前にしているとシュサク種の長が空から舞い降りて獣人から亜人に変わってお義父さんに頭を垂れました。
「どうしたの? 波の準備を急いでしなきゃいけないんだけど」
「……メルロマルクが軍を引き連れて、我が国に攻め込んでまいりました!」田七人参
2014年6月30日星期一
2014年6月27日星期五
何でも屋の休日
「おぇぇ……疲れ過ぎて吐きそう……」
起きたら毒料理を食わされ、食後に駆けっこ(という名の一時間フルマラソン)、小休止の後に、残りの時間は迷宮探索……。
もう、何が何だか分からない。あまりの疲労に足元さえ覚束ない。天天素
やっとの思いで向上心豊かなフランソワから逃れて家に辿り着いたものの、気がつけばもう夜だ……!
こうして、俺の休日は今日も潰れた。
神は……神は死んだ!! ファック! Holy shit!
おおお……(涙)
何でも屋の住み込み従業員の場合
「ゔあ~……今、帰ったぞ~……」
おや、ご主人さまが帰ってきたようだ。
お玉で鍋をかき混ぜていた手を止め、玄関へと出迎えに行く。
「……お遅いお戻りで。もしや、食事はもう済まされましたか?」
「食事? ははっ……んなもん食う暇なかったよ……」
どうやら、食事も忘れて休日を楽しんでいたようだ。良かった。せっかくご主人様のためにお昼から煮込んでおいたシチューが無駄にならずに済む。
「……すぐに食事になさいますか? それとも先にお風呂へ入られますか? どちらも準備はできております」
「先に風呂に入ろうかな……腹は減ってるけど、まだ疲れが抜けてないから胃が受け付けなさそう」
「……お疲れですか。お背中をお流ししましょうか?」
「お前って……お前って、ほんっとーに仕事が関わらなきゃ……ワーカーホリックじゃなければ良い奴なんだよな……」
「……?」
ワーカーホリック? よくわからない言葉だ。ご主人さまは時々難しい言葉を話すことがある。こんなとき、私は自分の無学さに恥じ入ってしまう。
「まあ、風呂なら一人で入れるさ」
「……そうですか。では、お食事の用意をしてお待ちしております」
「ああ、よろしく。一時間ぐらいで出るわ」
「……かしこまりました」
では、料理の仕上げに取りかかろう。カオルさんから、「疲れには甘いものやすっぱいものが効く」と聞いたので、デザートに「柑橘とベリーのフルーツサラダ」を用意しておこう。ご主人さまが喜んでくださると良いのだが。
「あ~……やっぱ我が家は落ち着く……」
「……それはようございました」
お風呂上がりのご主人さまと二人で食卓を囲む。
四人がけの小さな食卓の上にパン、シチュー(奮発して塩漬けの「スノー・カウ」の肉を使った。休日だから良いだろう)、フルーツサラダを並べ、壁には映像水晶で「たそがれセーベー」を映し出している。
休日の夜に映画(映像水晶に入れられた劇のことらしい)を見ながらゆったりと食事をとるのは、ご主人さまが好む時間だ。セッティングに抜かりはない。三鞭粒
私も映画は嫌いではない。秘かにこの時間を楽しみにしているほどだ。
この時間に言葉はない。映像水晶から流れる音声のみが響いているのみ……だが、居心地は悪くはない。ただただ、穏やかに時間が流れていく……。
「腹もいい感じに膨れたし、疲れてるからもう寝るわ」
「……そうですか」
「じゃあな、お休み」
「……はい、お休みなさいませ」
満足げに自室へと戻っていくご主人さま。テーブルを見ると、キレイに完食されて何も残っていない皿がある(特にシチュー皿はパンでぬぐっていたので、皿の底の模様が見えるほどだ)。
どうやら満足なされたようだ。私もうれしい。手をかけた甲斐があるというものだ。食器を片づける手が、何だか軽やかになる。
こんなにも穏やかで充実した安息日が過ごせるとは、一年ほど前の私には考えることすらできなかった。
ご主人さまに買われる前は、私には安息日などなかった。
買われる……そう、私はご主人さまに買われた奴隷だ。
妖精種の繁殖用奴隷を掛け合わせて産まれた私も当然奴隷で、見目麗しいという理由から愛玩用奴隷として育てられた。
奴隷として過ごす日々……あの頃の私は安息日どころか、自由という言葉の意味すら知らなかった。
でも、あの日……雨がしとしとと降る肌寒い日。ご主人さまは私に教えてくれたのだ。
「自由」の意味を。神が祝福したもうた「安息日」の存在を。
今では、私は休日を謳歌している。
屋上の空中庭園でハーブを育てたり、商店街に買い物に出かけたり、ご主人さまからいただいた映像水晶を観たり……奴隷商人の元に居た頃は考えられなかったような生き方だ。
こんな生活を……「自由」を教えてくれたご主人さまには、今でも感謝している。
しているからこそ、ご主人さまには「労働」をさせるのだ。
それが私にできるせめてもの恩返しだから……。
ご主人さまが「自由」の素晴らしさを知っているのなら、私は「労働」の良さを熟知している。
労働は、人の気力を満たすものだ。屋上のハーブが、水や肥料が無いと枯れてしまうように、人も労働が無ければ腐ってしまう。
かつて私を縛り付けていた奴隷商は、商人でありながら自分の足では動かず、人を使って楽をしていた。そもそも、奴隷商という職業自体が、人を右から左へ流すだけの仕事だ。こんなもの、労働とは言えない。
その証拠に、奴隷商はいつも気だるそうに日々を過ごしていた。まるで根ぐされした植物のようだ。威哥王三鞭粒
金貨を手にした時はいやらしい声で笑うが、その目の光はねばついていて、腐泥を貯め込んでいるかのようだった。
私も、与えられた小さな部屋の中で何をすることなく過ごしていた。今にして思うと、あの時の私の心は枯れ果てていたのだろう。
そんな私たちに比べて、自ら動き、日々を懸命に生きている人たちの輝きはどうだ。
カオルさんたち一家は、忙しそうにしながらもいつも生き生きと笑顔でいる。その姿からは溢れんばかりの生命力を感じる。
ご近所のみんなだってそうだ。
鍛冶工房「ヘルバルト」のマークさんは、冒険者の要求に真摯に答え、いつも額に汗して真剣な表情で鉄を打っている。
道具屋「アップル・バスケット」のミーシャさんは、自分が苦労して仕入れた商品を誇らしげに説明してくれる。
パン工房「クラリス」のクラリス夫妻は、学園帰りにお腹をすかせてパンにかぶりつく子どもたちを、嬉しそうな顔をして見つめている。
これが、「生きる」ということなのだ。
働かなくても生命活動に何ら支障をきたさない生き方では、かつての私たちのように腐って枯れてしまう。
かくも労働は素晴らしい。
でも、そのことが理解できていないのか、ご主人さまはほうっておくといつまで経っても働こうとしない。私と出会った頃は特に酷かった。
このままでは、ご主人さまもあの奴隷商のように、腐った目をした脂肪の塊になってしまう。
当時、焦った私はご近所のヴィーヴィル夫人を訪ねた。町内会のまとめ役で、何かと物知りの老婦人。料理やガーデニングはこの人から習った。
今回も、きっといい知恵を貸してくれるだろうと考え、ヴィーヴィル家のドアをノックしたのだ。
焦燥した私から話を聞いた彼女は、さも何でもないことのようにこう答えてくれた。
「なんだい、タカヒロが働かなくなったのかい。まあ、近頃の若いもんは(略)で、要するにだ。いいかい、こうしな。思いっきり引っ叩いてやるんだ。家の旦那も若い頃は酒に博打にのめり込んでいてね、ろくに働かなかったんだ。私が内職をして、やっと食べていけれたんだよ。その金も博打につぎ込もうとしてね……私ゃ頭にきてね。思いっきり引っ叩いてやったんだ。泣きながら何回も、何回もね。そしたら旦那も目が覚めたのか、渋々だけど働くようになったのさ」
「……ご主人さまに、暴力をふるえというのですか? そんな……」
「いいんだよぉ、貴族さまでもあるまいし。あんなぐーたらは、手を出さなきゃいつまで経っても働かないもんさ。口で言って聞いてくれたことがあったかい?」威哥王
「……確かに……ありませんでした。いつも、「明日になったら働くさ」とはぐらかされます」
「でしょぉ? まあ、ビシッと一発お見舞いしてやんな」
「……なるほど、ビシッと」
思いっきり引っ叩く。それもビシッと……鞭ですね。
思い返してみると、奴隷商のところの労働用奴隷も、怠慢な者は鞭で叩かれていた。まさか、市井でも鞭によって労働へと駆り立てるとは知らなかった。
そういえば、ご主人さまから「こん中のもんだったら自由に使っていいよ」と渡されたアイテム・ボックスの中には鞭があった。
恐らくは、こういった時のために用意されたものだ。
なにせ、その鞭、「九尾の猫鞭」は、【ダメージは少ないが、痛覚を刺激し、行動を中断させる】効果を持っているぐらいだから……ダメージは少ない。なるほど、これならお仕置きに使っても、重傷を負うこともないだろう。
そう自分に言い聞かせ、私は意を決してご主人さまの元へ向かう……居た。いつも通り、自室のベッドで布団に包まっている。
「働いてくれますように」。そう願って、私はもう昼過ぎだというのに眠りこけるご主人さまを力いっぱい打ちつける。
「働いてください、働いてください」と、願いを口にも出しながら何度も鞭を入れる。そのたびにご主人さまの体はビクンビクンと震える。胸が痛い……だが、これもご主人さまのためだ。
しばらくして、「わ、わかった! 俺が悪かった!! 働く! 働いてきます!!」と、ご主人さまは家を飛び出していった。
効果は覿面だった。さすがヴィーヴィル夫人。
その日、ご主人さまはいくつかの依頼をこなしてきて、「こ、これでいいのか……?」と恐る恐る聞いてきた。もちろん、「はい」と頷くと、ほっと息を吐いて寝室へと戻っていった。
しかし、その次の日、ご主人さまは働こうとしなかった。「昨日の今日で疲れているのだろう」と考え、そっとしておいた。だけど、次の日も、その次の日も、ご主人さまは働こうとはしなかった。
私は、こういう人を知っている。労働奴隷でも、誰かに何かを言われないと働かない、鞭を入れないと働かないという人たちがいた。もしや、ご主人さまもその類なのだろうかと考え、鞭を入れるとまた働くようになった。MaxMan
起きたら毒料理を食わされ、食後に駆けっこ(という名の一時間フルマラソン)、小休止の後に、残りの時間は迷宮探索……。
もう、何が何だか分からない。あまりの疲労に足元さえ覚束ない。天天素
やっとの思いで向上心豊かなフランソワから逃れて家に辿り着いたものの、気がつけばもう夜だ……!
こうして、俺の休日は今日も潰れた。
神は……神は死んだ!! ファック! Holy shit!
おおお……(涙)
何でも屋の住み込み従業員の場合
「ゔあ~……今、帰ったぞ~……」
おや、ご主人さまが帰ってきたようだ。
お玉で鍋をかき混ぜていた手を止め、玄関へと出迎えに行く。
「……お遅いお戻りで。もしや、食事はもう済まされましたか?」
「食事? ははっ……んなもん食う暇なかったよ……」
どうやら、食事も忘れて休日を楽しんでいたようだ。良かった。せっかくご主人様のためにお昼から煮込んでおいたシチューが無駄にならずに済む。
「……すぐに食事になさいますか? それとも先にお風呂へ入られますか? どちらも準備はできております」
「先に風呂に入ろうかな……腹は減ってるけど、まだ疲れが抜けてないから胃が受け付けなさそう」
「……お疲れですか。お背中をお流ししましょうか?」
「お前って……お前って、ほんっとーに仕事が関わらなきゃ……ワーカーホリックじゃなければ良い奴なんだよな……」
「……?」
ワーカーホリック? よくわからない言葉だ。ご主人さまは時々難しい言葉を話すことがある。こんなとき、私は自分の無学さに恥じ入ってしまう。
「まあ、風呂なら一人で入れるさ」
「……そうですか。では、お食事の用意をしてお待ちしております」
「ああ、よろしく。一時間ぐらいで出るわ」
「……かしこまりました」
では、料理の仕上げに取りかかろう。カオルさんから、「疲れには甘いものやすっぱいものが効く」と聞いたので、デザートに「柑橘とベリーのフルーツサラダ」を用意しておこう。ご主人さまが喜んでくださると良いのだが。
「あ~……やっぱ我が家は落ち着く……」
「……それはようございました」
お風呂上がりのご主人さまと二人で食卓を囲む。
四人がけの小さな食卓の上にパン、シチュー(奮発して塩漬けの「スノー・カウ」の肉を使った。休日だから良いだろう)、フルーツサラダを並べ、壁には映像水晶で「たそがれセーベー」を映し出している。
休日の夜に映画(映像水晶に入れられた劇のことらしい)を見ながらゆったりと食事をとるのは、ご主人さまが好む時間だ。セッティングに抜かりはない。三鞭粒
私も映画は嫌いではない。秘かにこの時間を楽しみにしているほどだ。
この時間に言葉はない。映像水晶から流れる音声のみが響いているのみ……だが、居心地は悪くはない。ただただ、穏やかに時間が流れていく……。
「腹もいい感じに膨れたし、疲れてるからもう寝るわ」
「……そうですか」
「じゃあな、お休み」
「……はい、お休みなさいませ」
満足げに自室へと戻っていくご主人さま。テーブルを見ると、キレイに完食されて何も残っていない皿がある(特にシチュー皿はパンでぬぐっていたので、皿の底の模様が見えるほどだ)。
どうやら満足なされたようだ。私もうれしい。手をかけた甲斐があるというものだ。食器を片づける手が、何だか軽やかになる。
こんなにも穏やかで充実した安息日が過ごせるとは、一年ほど前の私には考えることすらできなかった。
ご主人さまに買われる前は、私には安息日などなかった。
買われる……そう、私はご主人さまに買われた奴隷だ。
妖精種の繁殖用奴隷を掛け合わせて産まれた私も当然奴隷で、見目麗しいという理由から愛玩用奴隷として育てられた。
奴隷として過ごす日々……あの頃の私は安息日どころか、自由という言葉の意味すら知らなかった。
でも、あの日……雨がしとしとと降る肌寒い日。ご主人さまは私に教えてくれたのだ。
「自由」の意味を。神が祝福したもうた「安息日」の存在を。
今では、私は休日を謳歌している。
屋上の空中庭園でハーブを育てたり、商店街に買い物に出かけたり、ご主人さまからいただいた映像水晶を観たり……奴隷商人の元に居た頃は考えられなかったような生き方だ。
こんな生活を……「自由」を教えてくれたご主人さまには、今でも感謝している。
しているからこそ、ご主人さまには「労働」をさせるのだ。
それが私にできるせめてもの恩返しだから……。
ご主人さまが「自由」の素晴らしさを知っているのなら、私は「労働」の良さを熟知している。
労働は、人の気力を満たすものだ。屋上のハーブが、水や肥料が無いと枯れてしまうように、人も労働が無ければ腐ってしまう。
かつて私を縛り付けていた奴隷商は、商人でありながら自分の足では動かず、人を使って楽をしていた。そもそも、奴隷商という職業自体が、人を右から左へ流すだけの仕事だ。こんなもの、労働とは言えない。
その証拠に、奴隷商はいつも気だるそうに日々を過ごしていた。まるで根ぐされした植物のようだ。威哥王三鞭粒
金貨を手にした時はいやらしい声で笑うが、その目の光はねばついていて、腐泥を貯め込んでいるかのようだった。
私も、与えられた小さな部屋の中で何をすることなく過ごしていた。今にして思うと、あの時の私の心は枯れ果てていたのだろう。
そんな私たちに比べて、自ら動き、日々を懸命に生きている人たちの輝きはどうだ。
カオルさんたち一家は、忙しそうにしながらもいつも生き生きと笑顔でいる。その姿からは溢れんばかりの生命力を感じる。
ご近所のみんなだってそうだ。
鍛冶工房「ヘルバルト」のマークさんは、冒険者の要求に真摯に答え、いつも額に汗して真剣な表情で鉄を打っている。
道具屋「アップル・バスケット」のミーシャさんは、自分が苦労して仕入れた商品を誇らしげに説明してくれる。
パン工房「クラリス」のクラリス夫妻は、学園帰りにお腹をすかせてパンにかぶりつく子どもたちを、嬉しそうな顔をして見つめている。
これが、「生きる」ということなのだ。
働かなくても生命活動に何ら支障をきたさない生き方では、かつての私たちのように腐って枯れてしまう。
かくも労働は素晴らしい。
でも、そのことが理解できていないのか、ご主人さまはほうっておくといつまで経っても働こうとしない。私と出会った頃は特に酷かった。
このままでは、ご主人さまもあの奴隷商のように、腐った目をした脂肪の塊になってしまう。
当時、焦った私はご近所のヴィーヴィル夫人を訪ねた。町内会のまとめ役で、何かと物知りの老婦人。料理やガーデニングはこの人から習った。
今回も、きっといい知恵を貸してくれるだろうと考え、ヴィーヴィル家のドアをノックしたのだ。
焦燥した私から話を聞いた彼女は、さも何でもないことのようにこう答えてくれた。
「なんだい、タカヒロが働かなくなったのかい。まあ、近頃の若いもんは(略)で、要するにだ。いいかい、こうしな。思いっきり引っ叩いてやるんだ。家の旦那も若い頃は酒に博打にのめり込んでいてね、ろくに働かなかったんだ。私が内職をして、やっと食べていけれたんだよ。その金も博打につぎ込もうとしてね……私ゃ頭にきてね。思いっきり引っ叩いてやったんだ。泣きながら何回も、何回もね。そしたら旦那も目が覚めたのか、渋々だけど働くようになったのさ」
「……ご主人さまに、暴力をふるえというのですか? そんな……」
「いいんだよぉ、貴族さまでもあるまいし。あんなぐーたらは、手を出さなきゃいつまで経っても働かないもんさ。口で言って聞いてくれたことがあったかい?」威哥王
「……確かに……ありませんでした。いつも、「明日になったら働くさ」とはぐらかされます」
「でしょぉ? まあ、ビシッと一発お見舞いしてやんな」
「……なるほど、ビシッと」
思いっきり引っ叩く。それもビシッと……鞭ですね。
思い返してみると、奴隷商のところの労働用奴隷も、怠慢な者は鞭で叩かれていた。まさか、市井でも鞭によって労働へと駆り立てるとは知らなかった。
そういえば、ご主人さまから「こん中のもんだったら自由に使っていいよ」と渡されたアイテム・ボックスの中には鞭があった。
恐らくは、こういった時のために用意されたものだ。
なにせ、その鞭、「九尾の猫鞭」は、【ダメージは少ないが、痛覚を刺激し、行動を中断させる】効果を持っているぐらいだから……ダメージは少ない。なるほど、これならお仕置きに使っても、重傷を負うこともないだろう。
そう自分に言い聞かせ、私は意を決してご主人さまの元へ向かう……居た。いつも通り、自室のベッドで布団に包まっている。
「働いてくれますように」。そう願って、私はもう昼過ぎだというのに眠りこけるご主人さまを力いっぱい打ちつける。
「働いてください、働いてください」と、願いを口にも出しながら何度も鞭を入れる。そのたびにご主人さまの体はビクンビクンと震える。胸が痛い……だが、これもご主人さまのためだ。
しばらくして、「わ、わかった! 俺が悪かった!! 働く! 働いてきます!!」と、ご主人さまは家を飛び出していった。
効果は覿面だった。さすがヴィーヴィル夫人。
その日、ご主人さまはいくつかの依頼をこなしてきて、「こ、これでいいのか……?」と恐る恐る聞いてきた。もちろん、「はい」と頷くと、ほっと息を吐いて寝室へと戻っていった。
しかし、その次の日、ご主人さまは働こうとしなかった。「昨日の今日で疲れているのだろう」と考え、そっとしておいた。だけど、次の日も、その次の日も、ご主人さまは働こうとはしなかった。
私は、こういう人を知っている。労働奴隷でも、誰かに何かを言われないと働かない、鞭を入れないと働かないという人たちがいた。もしや、ご主人さまもその類なのだろうかと考え、鞭を入れるとまた働くようになった。MaxMan
2014年6月26日星期四
勝利はその手に
それは三月の第三週のこと。俺は寒さも緩んできた空の下、【エア・クッション】にもたれかかり日曜の午睡を楽しんでいた。
厚手のジャケットを着込み、【エア・クッション】に身を埋めれば、多少の寒さなど気にならない。それどころか、露出した顔を涼しげな風がくすぐり、とても気持ちがいい。絶好の昼寝日和と言えた。男宝
それに、今日の中級区の自然公園は珍しいことに、うるさいガキどもも、おしゃべりに夢中になるおばさん連中もいない。これならわざわざ防音効果を持つ【エア・ウォール】を張る必要もない。むしろ、微かに聞こえてくる木々のざわめきや、ボールを蹴って遊ぶ学生たちの歓声が、まどろむ俺の耳を心地よく打つ。
このまま、うとうとと夢心地に浸るのも悪くはない。そう考えていた時だ。さくさくと、芝生を踏む音が聞こえてきたのは。ゆっくりと、だが確実にこちらに向かってきている。俺に用がある奴だろうか?
「んん? ……なんだ、お前か」
目を開いてみると、高そうなドレスに、白い手袋と帽子を身につけた金髪ロールのお嬢様、フランソワ・ド・フェルディナンがそこにいた。
「お前がこんなとこまで来るのは珍しいな。どうした、何か用か?」
フランソワだけじゃなく、貴族の子息が中級区以下に来るのは珍しいことだ。それが、供も付けずとなると、ますます珍しい。と、なると、俺の姿を見かけたから挨拶を、というわけじゃあないだろう。何らかの頼みごとでもあるはずだ。
……まぁ、この時期のこいつからの頼みごとなんて、一つしかないわけだが。
「先生、未熟な私にご教授をお願いします」
そう言って、儚げに微笑むフランソワ。この様子だと、まだ「オルター・エゴ」は倒せてないみたいだな。いつもの自信に満ちた顔はどうした。
う~む、勢いに任せて「先生、「オルター・エゴ」の倒し方を教えてくださいませ!」って泣きついてきたら、そのノリに合わせて「え~い、帰れ帰れ! 俺は忙しいんだ!」って追い払おうと思ってたんだが、こう来たらどう扱っていいものか判断しかねる。
「う、むむ……ま、まあ、座れ」
「はい」
結局、座布団サイズの【エア・クッション】を展開し、そこに座らせてやる。だって、仕方ないだろう?この調子のフランソワに「帰れ」って言ったら素直に帰りそうだけど、何か後味悪そうだし……あぁ、もう、今日の午後からだらだら計画は終了! 今日はこいつに付き合うとしよう。
そう決めた俺は頭の後ろをガリガリと掻いて、穏やかな笑みの裏に疲れと虚脱を隠すフランソワへと向き直った。
「先生、私はこう思っていたのです。「オルター・エゴ」など、所詮猿真似しか能のない魔物だと。私たちが鍛え身につけた力や技術は、他者が容易に扱えるものではないと。それが、どうでしょう。王立学園の学生一同、誰も自らの鏡像を打倒し得ていません。唯一、ヴァレリーが引き分けにまで持ち込みましたが、勝利には未だ至れず……」
そう言って力なく笑うフランソワの目元には隈が目立つ。化粧でいくらか誤魔化してはいるが、ここまで近づけば嫌でも気付くというものだ。
もうすぐ年度末の終業式だからな……それまでに学園迷宮を制覇してみせると宣言した手前、今の状況に焦りを感じずにはいられないのだろう。恐らく、寝る間も惜しんで「オルター・エゴ」との対戦を続けているはずだ。
いくら死にそうになったら傷が癒えて入口に戻される学園迷宮とはいえ、回復魔法だけでは失われた体力までは戻すことはできない。だというのに、疲れた体に鞭打って戦いを続ければ、底なしに疲弊していくのは分かっているだろうに。
「先日など、騎士団の若手が鍛錬と称して「オルター・エゴ」と戦った結果……何と、四分の一もの人員が、これを打ち破りました。今や、栄えある王立学園の威信は地に落ちつつあります」
そこまで言って、視線を落とすフランソワ。笑う余裕もなくなってきたのか、顔が強張ってしまっている。いつも「貴族たるもの、ゆとりも必要ですわ」と言っては茶を啜っているこいつらしくもない。
「よ、弱気なお前なんて初めて見たぞ? はは……」
こう言っておどけてみれば……あぁ、ダメだ。俺に合わせて無理に笑おうとしてる。き、気まずい……!
そのままぎこちなく笑う俺とフランソワ。二人とも何も話さず、時ばかりが過ぎていく。三體牛鞭
どれぐらい経ったのか……やがて、フランソワが意を決したように口を開いた。
「先生。先生の、なるべく助言はしないという方針の意味は理解しております。ですが、今回はそこを曲げていただくよう、恥を忍んでお願い申し上げます。「オルター・エゴ」を倒すために、ご指導を……!」
そこまで言って、右腕を胸に付けて深々と頭を下げるフランソワ。これは国王に対しての最敬礼を除けば、過分とも言える敬礼だ。当然、貴族が庶民なんかにするもんじゃない。何だかんだでプライドが高いこいつがここまでするということは、本当に困っているということなんだろう。
……しかし、実に気まずい。一々呼び出されるのが面倒で、「人に教えてもらってばかりでは、本当の意味で身につかない」と、助言をなるべく控えるような方針を立てたんだけど……まさか、巡り巡ってこのような事態を引き起こすとは。
楽しようとして、適当なことは言うもんじゃねえな……し、仕方ない! ここは一つ、こいつが勝てるように助言をば!
「あ~、顔を上げろって。指導……指導するからさ。な?」
「あぁ……ありがとうございます……!」
そう言って、またも地に額を付けそうなほど、深く頭を下げるフランソワ。後ろめたさと、お礼を言われ慣れていないことが混ざり合って、何とも言えない焦燥感に駆られる。
うぅ……は、早く「オルター・エゴ」の倒し方のコツを教えてしまおう! 変な罪悪感で息が詰まりそうだ……。
「まず、初めに……お前と、お前をコピーした「オルター・エゴ」の差は何だ?」
「差は……ありません。対峙する者の全てを模写する魔物。それが「オルター・エゴ」です」
場所を移して、ここは喫茶ノワゼット。ピークは越えたのか、俺たちの他には若いカップルしかいない。気兼ねなく二人でテーブル席を使えるというものだ。とりあえず、マスターに紅茶を注文しておいて、臨時の講義は続く。
「違うな。「オルター・エゴ」は、お前であってお前じゃない。実はな、「オルター・エゴ」はあくまでお前を真似ているだけで、独自の人格は存在するんだ」
「そうなのですか!?」
「そうだよ。多分、エルゥが「オルター・エゴ」についてまとめようとしている研究ってのも、その辺りを言及したもんだろう。でだ、このことから何が分かる?」
「…………あっ!」
フランソワの思案げな顔が、またも驚きに変わる。頭がいいこいつのことだ。言われなくても気付いたな。
「つまり、「オルター・エゴ」は、対戦者の着ぐるみを着た魔物ということですか……?」
「正解。その通りだ」
≪Another World Online≫では、AIが「オルター・エゴ」の中身を担っていた。対戦ゲームで例えるならば、同じキャラを使ってのCPU戦……それも、難易度最高のものだ。慣れない内は、なかなか厄介なもんだろう。
「同じ能力、同じ人格でこうも差がつくのは、「オルター・エゴ」に隠された人格のせいだ。そいつは、お前の記憶と人格を分析し、如何にもお前らしく振る舞うんだ」
「つまりは、私は私に負けていたのではなく、「オルター・エゴ」そのものに敗北していた、と……?」
「そうだ。例えばだな、「オルター・エゴ」にとっては、他人の写し身は武器に過ぎないんだよ。同じレベル、同じステータス、同じ武器を持った奴がいると考えてみてくれ。で、そいつらの勝敗を分けるのは……」
「武器を如何に使いこなすか、ということですか」
「そうだ。「オルター・エゴ」の場合は、武器はコピーされた体に当たる。つまり、自分の体をよりうまく使える方が勝つんだ」
そう、だから≪Another World Online≫でも「オルター・エゴ」は、仮想現実で体を動かすことに慣れたかどうかの試金石として重宝されていた。
「ですが、そういうことならば、私の体は私が一番うまく使えるのが道理というものでしょう? なのに、何故負けてばかりなのか……見当がつきません」
まぁ、納得いかんわな。俺だって、俺を模した「オルター・エゴ」と初めて戦って負けた時は、「チートだよ、チート! 絶対ステータスとか弄ってるって!」と喚き散らしたもんだ。
だけど、何でもそつなくこなす奴ってのはいるもんだ。俺の世界では、AIがそうだった。どんな体でも、ある一定のレベルまでは使いこなすことができるだけの技量がAIには備わっていた。
だが、AIと言えども限界はあるのか、熟練者には敵わなくなる。こうなれば、「オルター・エゴ」も雑魚と同じだ。何年も≪Another World Online≫をやってた俺にとっては、片腕を使わないハンデがあっても勝てる相手だった。
でも、まぁ、そこに至るまでが中々難しいのは、俺も身を持って知っていることで……そこでだ。いくつか、コツみたいなもんを教えてやるとしよう。
「ぶっちゃけて言えば、「オルター・エゴ」はどんな武器も使いこなせる奴だからな。技量が足りなきゃ、そりゃ勝てんさ……だが、今の段階でも、お前らなら勝てる。そのためには……」
特に秘密というわけではないが、何となくフランソワの耳元にごにょごにょと吹き込む。こういうことをしてしまうのは、その場の気分と言う他ない。狼1号
やがて、「オルター・エゴ」を倒すための秘策を携えたフランソワは、意気揚々と学園迷宮へと出かけていった。
う~ん、教えておいて何だけど、貴族には厳しいやり方なのではなかろうか……まぁ、いいや。あいつのことだ。いざという時には躊躇などしないだろうさ。
『では、始めましょうか』
剣を鞘から抜き、左から右へと払った後に構える……やはり。
『どうかしまして? 来ないのでしたら、こちらから行きますわよ?』
仕掛ける際には、軽く腕を曲げる癖がある……これもそうだ。
突撃してくる「オルター・エゴ」をいなし、大きく距離を取る。今は観察に集中する時だ。攻撃するのは、その後で……。
『あら、臆病ですのね? 私らしくありませんわよ。そんな私には、骨まで溶けるような魔法がお似合いかしら』
両手で持ち直した剣を正面に立てて構え、目を細める……やはり、予想通りに【フレイム・スフィア】の詠唱に入る私の写し身。
間違いない。タカヒロ先生の言う通りだ。この者は、私ではない。いくら記憶や人格を写し取ろうが、注意深く観察すれば何者かの意思が透けて見えてくる。私を演じようとする、「オルター・エゴ」本来の意志が。
タカヒロ先生は、こうおっしゃった。「「オルター・エゴ」には「オルター・エゴ」の人格が存在するけれど、それはコピーした人間の人格に引っ張られるんだ。だから、あくまでコピーした対象らしく、相手を倒そうとする」、と。
なるほど、その通りだ。私の鏡像は、あからさまに私らしく攻撃をしかけてくる。その動作には驚くほどに無駄がないけれど、私らしさは失ってはいない。
ほら、今も【フレイム・スフィア】の大火球に隠れて、自身も突撃を仕掛けている。姿は隠れて見えないけれど、調子のよい時の私ならきっとそうするはずだ。
だから、それを逆手にとった。左右に避けて敵にわざわざ姿を晒すのではなく、バックステップで距離を取り、壁を蹴って身の丈ほどの【フレイム・スフィア】を飛び越えた。
眼下に見えるは、予想外の位置から現れた私に気付き、驚愕の表情を浮かべる「オルター・エゴ」。
まずは一太刀。もらった!
「はあっ!」
『な、何ですって!? くぅぅ……!』
やはり、急な思いつきではうまくいかない。余裕を持って高く飛びすぎたため、斬撃がやや浅かったようだ。しかし、一度も試したことがない動作でここまでできたのならば上出来だ。次は、もっと上手くやれると思う。
「あら、仮面が剥がれかけていましてよ」
『くっ……タカヒロ先生に言われて気付いた私が、何を偉そうに!』
「そういえば、記憶も模写できたのですね。ならば、もう私を私と呼ぶのは止めてくださいますこと? 他人が私を騙るのは、やはり不愉快です」
そうだ。この魔物は私であって、私ではない。あくまで猿真似……しかも、模倣することを意識するあまり、弱点すら写し取ってしまった間抜けな鏡像だ。
私が突くべきところは、そこだ。
私を演じる「オルター・エゴ」は、私の弱点を無かったことにはできない。正面切って戦えば、自身の能力を最大限に引き出すことができずにいる未熟な私では「オルター・エゴ」には敵わないが、弱点を突いてしまえば勝敗は覆るとタカヒロ先生は言ってくれた。
問題は、私の弱点を、弱点として認められるかどうか。そして、どのような手段でも……タカヒロ先生が言う、「ダーティーな手段」さえも、躊躇せずに用いることができるかだ。巨根
「敵よりも早く、躊躇わず、弱点を突け。それこそ、今のお前が勝利できる唯一のやり方だ。貴族は、優雅な勝利が大好きで、卑怯な手段を好まないからな……いいか、それじゃ駄目だ。どんな手段でもいい。敵を罠にかけろ。自分が最もされたくないことをやれ。とにかく、先に弱点を突け。そうすりゃあお前の勝ちだ」
タカヒロ先生の教えが甦る。彼はそれを伝える際に若干の迷いを見せた。きっと、私を慮ってのことだろう。
(ですが、心配はいりません。私もフェルディナン家の娘。花よ蝶よと育てられてきたわけではありませんので。清濁併せ呑むことだって出来ますわ。自分の弱さも認めてみせます)
『いつまで考え事に耽っていますの? 隙だらけですわよ!』
気付けば、剣を構えた「オルター・エゴ」が、右から突っ込んでくる。だけど、それは予想していたことだ。仕掛けていた罠を発動させる。
「【バインド・トラップ】」
『なっ……!?』
好機と見ると、敵の右側から攻めようとする。私の癖であり、エルゥ先生に「自己分析をしろ」と言われた際に気付いたことの一つだ。
悪いことではない。これは私の力が一番乗りやすい形でもある。左から右へと振り抜く必殺の刃は、幾度も魔物を屠ってきた実績を持つ。
しかし、敵に見抜かれてしまえば長所は短所へと早変わりする。ほら、今だって、仕掛けておいた【バインド・トラップ】に捕まり、写し身は身動き一つ取れなくなってしまった。ワンパターンはそれだけ読まれやすいということだ。以後、気をつけなければ……だけど、まずは!
「【シールド・バッシュ】!」
『ぅああああ!?』
敵のバインド状態が解けてしまう前に、力の限り左手に持ったバックラーを叩きつける。すると、バインドでその場に縛られた「オルター・エゴ」は吹き飛ぶことすらできず、【シールド・バッシュ】の全衝撃をその身に受けてしまった。
えげつない攻撃手段だとは思う。騎士団の演習を見学した際に学んだ技術だが、一生使うことはないと考えていた。私には、剣さえあれば怖れるものなど何もないと。だけど、今はこれが最善手。最も効率的な手段だ。
バキバキと、枯れ枝をまとめてへし折るような乾いた音が、手を通じて伝わってくる。肋骨が折れたのだろう。
それでも、まだ「オルター・エゴ」は生きている。しかし……。
「そのダメージでは、満足に剣を振ることもできないでしょう? そんな貴女に、これは防げない……」
肋骨を数本も折るようなダメージを受けてしまえば、四肢が痺れて満足に動かせなくなるものだ。最早、バインドなど必要ない。「オルター・エゴ」は、もう動けない。
『て、抵抗できぬ相手に追撃をかけるなど、それでも誇り高い貴族ですの!?』
何やら姦しい「オルター・エゴ」。あぁ、やはりこれは私ではない。真に私を模しているのならば、このような台詞など出てこない。
今、はっきりと確信した。これは混ざりものだと。それが私を名乗るなど、あってはならないことだと。
力が刃に漲ってゆく。迸る青きオーラが刀身を包んでゆく。
そして、渾身の速さで四度、「オルター・エゴ」を切りつけた。
『ああぁあぁぁぁ……』
【フォースエッジ】の刃をその身に受けた魔物は形を保つこともできず、魔素の粒子へと散っていった。烟る魔素の煌めきの中、この部屋に残るは私一人。そして、最早聞こえるはずがないであろう相手に、それでも私は断言する。
「ええ、これも貴族です」
終業式を三日後に控えたある日のこと。私は、全学生の中で唯一、学園迷宮を制覇した者となった。勃動力三體牛鞭
厚手のジャケットを着込み、【エア・クッション】に身を埋めれば、多少の寒さなど気にならない。それどころか、露出した顔を涼しげな風がくすぐり、とても気持ちがいい。絶好の昼寝日和と言えた。男宝
それに、今日の中級区の自然公園は珍しいことに、うるさいガキどもも、おしゃべりに夢中になるおばさん連中もいない。これならわざわざ防音効果を持つ【エア・ウォール】を張る必要もない。むしろ、微かに聞こえてくる木々のざわめきや、ボールを蹴って遊ぶ学生たちの歓声が、まどろむ俺の耳を心地よく打つ。
このまま、うとうとと夢心地に浸るのも悪くはない。そう考えていた時だ。さくさくと、芝生を踏む音が聞こえてきたのは。ゆっくりと、だが確実にこちらに向かってきている。俺に用がある奴だろうか?
「んん? ……なんだ、お前か」
目を開いてみると、高そうなドレスに、白い手袋と帽子を身につけた金髪ロールのお嬢様、フランソワ・ド・フェルディナンがそこにいた。
「お前がこんなとこまで来るのは珍しいな。どうした、何か用か?」
フランソワだけじゃなく、貴族の子息が中級区以下に来るのは珍しいことだ。それが、供も付けずとなると、ますます珍しい。と、なると、俺の姿を見かけたから挨拶を、というわけじゃあないだろう。何らかの頼みごとでもあるはずだ。
……まぁ、この時期のこいつからの頼みごとなんて、一つしかないわけだが。
「先生、未熟な私にご教授をお願いします」
そう言って、儚げに微笑むフランソワ。この様子だと、まだ「オルター・エゴ」は倒せてないみたいだな。いつもの自信に満ちた顔はどうした。
う~む、勢いに任せて「先生、「オルター・エゴ」の倒し方を教えてくださいませ!」って泣きついてきたら、そのノリに合わせて「え~い、帰れ帰れ! 俺は忙しいんだ!」って追い払おうと思ってたんだが、こう来たらどう扱っていいものか判断しかねる。
「う、むむ……ま、まあ、座れ」
「はい」
結局、座布団サイズの【エア・クッション】を展開し、そこに座らせてやる。だって、仕方ないだろう?この調子のフランソワに「帰れ」って言ったら素直に帰りそうだけど、何か後味悪そうだし……あぁ、もう、今日の午後からだらだら計画は終了! 今日はこいつに付き合うとしよう。
そう決めた俺は頭の後ろをガリガリと掻いて、穏やかな笑みの裏に疲れと虚脱を隠すフランソワへと向き直った。
「先生、私はこう思っていたのです。「オルター・エゴ」など、所詮猿真似しか能のない魔物だと。私たちが鍛え身につけた力や技術は、他者が容易に扱えるものではないと。それが、どうでしょう。王立学園の学生一同、誰も自らの鏡像を打倒し得ていません。唯一、ヴァレリーが引き分けにまで持ち込みましたが、勝利には未だ至れず……」
そう言って力なく笑うフランソワの目元には隈が目立つ。化粧でいくらか誤魔化してはいるが、ここまで近づけば嫌でも気付くというものだ。
もうすぐ年度末の終業式だからな……それまでに学園迷宮を制覇してみせると宣言した手前、今の状況に焦りを感じずにはいられないのだろう。恐らく、寝る間も惜しんで「オルター・エゴ」との対戦を続けているはずだ。
いくら死にそうになったら傷が癒えて入口に戻される学園迷宮とはいえ、回復魔法だけでは失われた体力までは戻すことはできない。だというのに、疲れた体に鞭打って戦いを続ければ、底なしに疲弊していくのは分かっているだろうに。
「先日など、騎士団の若手が鍛錬と称して「オルター・エゴ」と戦った結果……何と、四分の一もの人員が、これを打ち破りました。今や、栄えある王立学園の威信は地に落ちつつあります」
そこまで言って、視線を落とすフランソワ。笑う余裕もなくなってきたのか、顔が強張ってしまっている。いつも「貴族たるもの、ゆとりも必要ですわ」と言っては茶を啜っているこいつらしくもない。
「よ、弱気なお前なんて初めて見たぞ? はは……」
こう言っておどけてみれば……あぁ、ダメだ。俺に合わせて無理に笑おうとしてる。き、気まずい……!
そのままぎこちなく笑う俺とフランソワ。二人とも何も話さず、時ばかりが過ぎていく。三體牛鞭
どれぐらい経ったのか……やがて、フランソワが意を決したように口を開いた。
「先生。先生の、なるべく助言はしないという方針の意味は理解しております。ですが、今回はそこを曲げていただくよう、恥を忍んでお願い申し上げます。「オルター・エゴ」を倒すために、ご指導を……!」
そこまで言って、右腕を胸に付けて深々と頭を下げるフランソワ。これは国王に対しての最敬礼を除けば、過分とも言える敬礼だ。当然、貴族が庶民なんかにするもんじゃない。何だかんだでプライドが高いこいつがここまでするということは、本当に困っているということなんだろう。
……しかし、実に気まずい。一々呼び出されるのが面倒で、「人に教えてもらってばかりでは、本当の意味で身につかない」と、助言をなるべく控えるような方針を立てたんだけど……まさか、巡り巡ってこのような事態を引き起こすとは。
楽しようとして、適当なことは言うもんじゃねえな……し、仕方ない! ここは一つ、こいつが勝てるように助言をば!
「あ~、顔を上げろって。指導……指導するからさ。な?」
「あぁ……ありがとうございます……!」
そう言って、またも地に額を付けそうなほど、深く頭を下げるフランソワ。後ろめたさと、お礼を言われ慣れていないことが混ざり合って、何とも言えない焦燥感に駆られる。
うぅ……は、早く「オルター・エゴ」の倒し方のコツを教えてしまおう! 変な罪悪感で息が詰まりそうだ……。
「まず、初めに……お前と、お前をコピーした「オルター・エゴ」の差は何だ?」
「差は……ありません。対峙する者の全てを模写する魔物。それが「オルター・エゴ」です」
場所を移して、ここは喫茶ノワゼット。ピークは越えたのか、俺たちの他には若いカップルしかいない。気兼ねなく二人でテーブル席を使えるというものだ。とりあえず、マスターに紅茶を注文しておいて、臨時の講義は続く。
「違うな。「オルター・エゴ」は、お前であってお前じゃない。実はな、「オルター・エゴ」はあくまでお前を真似ているだけで、独自の人格は存在するんだ」
「そうなのですか!?」
「そうだよ。多分、エルゥが「オルター・エゴ」についてまとめようとしている研究ってのも、その辺りを言及したもんだろう。でだ、このことから何が分かる?」
「…………あっ!」
フランソワの思案げな顔が、またも驚きに変わる。頭がいいこいつのことだ。言われなくても気付いたな。
「つまり、「オルター・エゴ」は、対戦者の着ぐるみを着た魔物ということですか……?」
「正解。その通りだ」
≪Another World Online≫では、AIが「オルター・エゴ」の中身を担っていた。対戦ゲームで例えるならば、同じキャラを使ってのCPU戦……それも、難易度最高のものだ。慣れない内は、なかなか厄介なもんだろう。
「同じ能力、同じ人格でこうも差がつくのは、「オルター・エゴ」に隠された人格のせいだ。そいつは、お前の記憶と人格を分析し、如何にもお前らしく振る舞うんだ」
「つまりは、私は私に負けていたのではなく、「オルター・エゴ」そのものに敗北していた、と……?」
「そうだ。例えばだな、「オルター・エゴ」にとっては、他人の写し身は武器に過ぎないんだよ。同じレベル、同じステータス、同じ武器を持った奴がいると考えてみてくれ。で、そいつらの勝敗を分けるのは……」
「武器を如何に使いこなすか、ということですか」
「そうだ。「オルター・エゴ」の場合は、武器はコピーされた体に当たる。つまり、自分の体をよりうまく使える方が勝つんだ」
そう、だから≪Another World Online≫でも「オルター・エゴ」は、仮想現実で体を動かすことに慣れたかどうかの試金石として重宝されていた。
「ですが、そういうことならば、私の体は私が一番うまく使えるのが道理というものでしょう? なのに、何故負けてばかりなのか……見当がつきません」
まぁ、納得いかんわな。俺だって、俺を模した「オルター・エゴ」と初めて戦って負けた時は、「チートだよ、チート! 絶対ステータスとか弄ってるって!」と喚き散らしたもんだ。
だけど、何でもそつなくこなす奴ってのはいるもんだ。俺の世界では、AIがそうだった。どんな体でも、ある一定のレベルまでは使いこなすことができるだけの技量がAIには備わっていた。
だが、AIと言えども限界はあるのか、熟練者には敵わなくなる。こうなれば、「オルター・エゴ」も雑魚と同じだ。何年も≪Another World Online≫をやってた俺にとっては、片腕を使わないハンデがあっても勝てる相手だった。
でも、まぁ、そこに至るまでが中々難しいのは、俺も身を持って知っていることで……そこでだ。いくつか、コツみたいなもんを教えてやるとしよう。
「ぶっちゃけて言えば、「オルター・エゴ」はどんな武器も使いこなせる奴だからな。技量が足りなきゃ、そりゃ勝てんさ……だが、今の段階でも、お前らなら勝てる。そのためには……」
特に秘密というわけではないが、何となくフランソワの耳元にごにょごにょと吹き込む。こういうことをしてしまうのは、その場の気分と言う他ない。狼1号
やがて、「オルター・エゴ」を倒すための秘策を携えたフランソワは、意気揚々と学園迷宮へと出かけていった。
う~ん、教えておいて何だけど、貴族には厳しいやり方なのではなかろうか……まぁ、いいや。あいつのことだ。いざという時には躊躇などしないだろうさ。
『では、始めましょうか』
剣を鞘から抜き、左から右へと払った後に構える……やはり。
『どうかしまして? 来ないのでしたら、こちらから行きますわよ?』
仕掛ける際には、軽く腕を曲げる癖がある……これもそうだ。
突撃してくる「オルター・エゴ」をいなし、大きく距離を取る。今は観察に集中する時だ。攻撃するのは、その後で……。
『あら、臆病ですのね? 私らしくありませんわよ。そんな私には、骨まで溶けるような魔法がお似合いかしら』
両手で持ち直した剣を正面に立てて構え、目を細める……やはり、予想通りに【フレイム・スフィア】の詠唱に入る私の写し身。
間違いない。タカヒロ先生の言う通りだ。この者は、私ではない。いくら記憶や人格を写し取ろうが、注意深く観察すれば何者かの意思が透けて見えてくる。私を演じようとする、「オルター・エゴ」本来の意志が。
タカヒロ先生は、こうおっしゃった。「「オルター・エゴ」には「オルター・エゴ」の人格が存在するけれど、それはコピーした人間の人格に引っ張られるんだ。だから、あくまでコピーした対象らしく、相手を倒そうとする」、と。
なるほど、その通りだ。私の鏡像は、あからさまに私らしく攻撃をしかけてくる。その動作には驚くほどに無駄がないけれど、私らしさは失ってはいない。
ほら、今も【フレイム・スフィア】の大火球に隠れて、自身も突撃を仕掛けている。姿は隠れて見えないけれど、調子のよい時の私ならきっとそうするはずだ。
だから、それを逆手にとった。左右に避けて敵にわざわざ姿を晒すのではなく、バックステップで距離を取り、壁を蹴って身の丈ほどの【フレイム・スフィア】を飛び越えた。
眼下に見えるは、予想外の位置から現れた私に気付き、驚愕の表情を浮かべる「オルター・エゴ」。
まずは一太刀。もらった!
「はあっ!」
『な、何ですって!? くぅぅ……!』
やはり、急な思いつきではうまくいかない。余裕を持って高く飛びすぎたため、斬撃がやや浅かったようだ。しかし、一度も試したことがない動作でここまでできたのならば上出来だ。次は、もっと上手くやれると思う。
「あら、仮面が剥がれかけていましてよ」
『くっ……タカヒロ先生に言われて気付いた私が、何を偉そうに!』
「そういえば、記憶も模写できたのですね。ならば、もう私を私と呼ぶのは止めてくださいますこと? 他人が私を騙るのは、やはり不愉快です」
そうだ。この魔物は私であって、私ではない。あくまで猿真似……しかも、模倣することを意識するあまり、弱点すら写し取ってしまった間抜けな鏡像だ。
私が突くべきところは、そこだ。
私を演じる「オルター・エゴ」は、私の弱点を無かったことにはできない。正面切って戦えば、自身の能力を最大限に引き出すことができずにいる未熟な私では「オルター・エゴ」には敵わないが、弱点を突いてしまえば勝敗は覆るとタカヒロ先生は言ってくれた。
問題は、私の弱点を、弱点として認められるかどうか。そして、どのような手段でも……タカヒロ先生が言う、「ダーティーな手段」さえも、躊躇せずに用いることができるかだ。巨根
「敵よりも早く、躊躇わず、弱点を突け。それこそ、今のお前が勝利できる唯一のやり方だ。貴族は、優雅な勝利が大好きで、卑怯な手段を好まないからな……いいか、それじゃ駄目だ。どんな手段でもいい。敵を罠にかけろ。自分が最もされたくないことをやれ。とにかく、先に弱点を突け。そうすりゃあお前の勝ちだ」
タカヒロ先生の教えが甦る。彼はそれを伝える際に若干の迷いを見せた。きっと、私を慮ってのことだろう。
(ですが、心配はいりません。私もフェルディナン家の娘。花よ蝶よと育てられてきたわけではありませんので。清濁併せ呑むことだって出来ますわ。自分の弱さも認めてみせます)
『いつまで考え事に耽っていますの? 隙だらけですわよ!』
気付けば、剣を構えた「オルター・エゴ」が、右から突っ込んでくる。だけど、それは予想していたことだ。仕掛けていた罠を発動させる。
「【バインド・トラップ】」
『なっ……!?』
好機と見ると、敵の右側から攻めようとする。私の癖であり、エルゥ先生に「自己分析をしろ」と言われた際に気付いたことの一つだ。
悪いことではない。これは私の力が一番乗りやすい形でもある。左から右へと振り抜く必殺の刃は、幾度も魔物を屠ってきた実績を持つ。
しかし、敵に見抜かれてしまえば長所は短所へと早変わりする。ほら、今だって、仕掛けておいた【バインド・トラップ】に捕まり、写し身は身動き一つ取れなくなってしまった。ワンパターンはそれだけ読まれやすいということだ。以後、気をつけなければ……だけど、まずは!
「【シールド・バッシュ】!」
『ぅああああ!?』
敵のバインド状態が解けてしまう前に、力の限り左手に持ったバックラーを叩きつける。すると、バインドでその場に縛られた「オルター・エゴ」は吹き飛ぶことすらできず、【シールド・バッシュ】の全衝撃をその身に受けてしまった。
えげつない攻撃手段だとは思う。騎士団の演習を見学した際に学んだ技術だが、一生使うことはないと考えていた。私には、剣さえあれば怖れるものなど何もないと。だけど、今はこれが最善手。最も効率的な手段だ。
バキバキと、枯れ枝をまとめてへし折るような乾いた音が、手を通じて伝わってくる。肋骨が折れたのだろう。
それでも、まだ「オルター・エゴ」は生きている。しかし……。
「そのダメージでは、満足に剣を振ることもできないでしょう? そんな貴女に、これは防げない……」
肋骨を数本も折るようなダメージを受けてしまえば、四肢が痺れて満足に動かせなくなるものだ。最早、バインドなど必要ない。「オルター・エゴ」は、もう動けない。
『て、抵抗できぬ相手に追撃をかけるなど、それでも誇り高い貴族ですの!?』
何やら姦しい「オルター・エゴ」。あぁ、やはりこれは私ではない。真に私を模しているのならば、このような台詞など出てこない。
今、はっきりと確信した。これは混ざりものだと。それが私を名乗るなど、あってはならないことだと。
力が刃に漲ってゆく。迸る青きオーラが刀身を包んでゆく。
そして、渾身の速さで四度、「オルター・エゴ」を切りつけた。
『ああぁあぁぁぁ……』
【フォースエッジ】の刃をその身に受けた魔物は形を保つこともできず、魔素の粒子へと散っていった。烟る魔素の煌めきの中、この部屋に残るは私一人。そして、最早聞こえるはずがないであろう相手に、それでも私は断言する。
「ええ、これも貴族です」
終業式を三日後に控えたある日のこと。私は、全学生の中で唯一、学園迷宮を制覇した者となった。勃動力三體牛鞭
2014年6月23日星期一
四千年の歴史
この世界、〈アース〉には五つの大陸がある。西大陸、東大陸、南洋大陸に暗黒大陸。それから、南の果ての氷と雪に閉ざされた大陸。
それに、海に浮かぶ島。これは数えられんほどあるから、説明は割愛しよう。田七人参
――なに? 大陸と島の違いがわからない? ほっほ、確かに、確かに。空高く飛び上がり、星空から眼下を見下ろせば、この星の全容さえも視界に収まるからのう。
それでも、大陸は広大じゃよ。特に、世界最大の東大陸は広大無辺。大地に立てば、どこまでも、どこまでも続いて見えるじゃろう。
内包する文明も実に多種多様。西欧では煌びやかな貴婦人が踊り、極東では質実剛健な武士もののふたちが刀を振るう。南蛮では海の民が熟れた果物でのどを潤し、魔の中部地方では数多の怪異たちが覇権を競って殺し合っておる。
わしが生まれた忠の国は東大陸の東端にあるんじゃが、国一つとってみても、文化や街並み、道行く人たちは驚くような違いを見せていた。
龍として生まれてから三千年は、そういった違いが面白く、世界中を旅して回った。少し目を離した隙に成長していく他種族の文化に、心を躍らせていた。
よちよち歩きの赤ん坊を見守り、時にはそっと手助けをする。そのうち、彼らはわしと肩を並べるほどに成長し、夜になれば盃を交わして星を見上げた。
幾万の命を奪う流行り病に涙した。人々に仇成す悪神をうち滅ぼし、勇者とともに喝采を上げた。揺れる小麦畑の中で穏やかにほほ笑んだ。
戻らざる青春の日々。若き赤龍の冒険譚。振り返れば、思わず赤面してしまうような失態もあるが、どれも大切なわしの思い出じゃ。
それら若き日の記憶を抱え、三千歳を越えてからは故郷で隠遁生活を送り始めた。世界は循環し、目まぐるしく変化していくもの。最盛期を越えた中年が、いつまでも大きな顔をしていては、次世代を担う若者が育たない。
そう考えたわしは、忠の国――かつては、交の国と呼ばれていた故郷へと去っていった。
それから千年。激動の若き時代に比べると、どこまでもゆったりと流れていく時間。日がな一日本を読んだ。日が暮れるまで湖に釣り糸を垂らした。自分の手で深山に庵を建てたりした。
少し早めの老後を有意義に過ごすため、様々なことに挑戦した。太極拳という人間の武術も学んだし、手遊び程度に料理も試してみた。その中でも特に性にあったのは、意外にも薬品の調合じゃった。
山野で採取した薬草や鉱石を混ぜ合わせ、怪我や病を癒す薬を作る。簡単に言えばそれだけのことじゃが、これが実に奥が深い。
ザオインという、三角形の実をつける植物がある。そこから種を取り出して、そのまま飲めば便秘によく効くんじゃが、乾かしてからすり潰し、鍾乳洞の鉱水と混ぜれば、なんと魔力を補充するための飲み薬が出来上がる。
マーツの実も面白い。生の果汁は切り傷の特効薬となるこの果実は、干して煎じて、スライムジェルと混ぜ合わせると打ち身用の湿布となる。
生で、干して、茹でて、炒って、潰して、磨って。更に混ぜ合わせることで無限の広がりを見せる薬の精製に、わしはすっかり魅了され、千年間、日課のように薬品調合に勤しんだ。
その結果、『幽山の医龍』とまで呼ばれるようになったんじゃが……龍族には時間だけはたっぷりあるからのう。他の者が同じことをすれば、似たような名前がつくじゃろうて。
それでも、医龍という響きには頼もしさを感じるんじゃろうな。名前だけが独り歩きをして、人間の間では、不治の病すら治す龍が霊山に住んでいる、という伝承すらある。
不治の病を治す? とんでもない。わしにも治せん病は山ほどあるよ。神や妖精王などの管理者でもあるまいに、この世の道理を操る術などわしにはない。
風邪の特効薬など作れんし、不老不死の妙薬なぞ夢のまた夢。恋の病も治せんし、中二病に効く薬も作れんのう。
それに、何より――。
「できたー!」
「なぜ、林檎と蜂蜜、ポーションを混ぜただけで、泡立つ水銀が出来上がるんじゃ……!?」
効能はともかく、調味に関して壊滅的な腕を持つ少女を導くこともできんのだ。
これでは、医龍とはとても呼べんじゃろう?
ミーシャという名の少女と出会ったのは、ほんの二か月前。夏の気配を滲ませる、温かな春の日のことじゃった。威哥十鞭王
その日も常のごとく、わしは深山の庵で薬を作っておった。乳鉢に薬種を放り込み、ごりごりと磨っては細かく砕いていく。
いつも通りの生活。いつも通りの穏やかな日常。その中に、騒がしくも懐かしい闖入者が飛び込んできた。
「老龍! 老龍はおるか!?」
焦燥感を隠そうともせずに庵に飛び込んできたのは、西の魔の山に住む混沌龍のお嬢ちゃん。いつもの自信に満ちた顔をどこへやったのやら、お嬢ちゃんはわしを見つけると、泣きそうな顔をして駆け寄ってきた。
「頼む! 貴様の力が必要なのだ! 我の伴侶を救ってくれ!」
そう言って、わしを引っ張っていこうとするルートゥー。しかし、その時のわしは、いまいち事情が呑み込めずにきょとんとするばかり。
「伴侶? 根源のお嬢ちゃんは、結婚しておったのか?」
とんと記憶にない情報に、わしは思わず首を傾げた。いよいよわしもボケてきたのかとさえ思った。それでも、ゴシックロリータ衣装に身を包んだお嬢ちゃんは、説明する時間も惜しいとばかりに龍の姿へと変わり、わしを連れて天高く舞い上がっていった。
そして、道中聞かされる、旦那様――いや、婚約者じゃったか――の話。レベルを極め、混沌龍の心臓をも突き破ったという青年が、ある日突然、倒れてしまったのだという。
毒か、病か――もしも後者ならば諦めなさいと、わしはルートゥーへと伝えた。レベル250は生物としての限界点。そこへ辿り着いた生命体は鋼のように強靭で、生半可な病など自力で跳ね除けてしまう。
もしも、そのような人間が病に罹るとすれば――それは、不治の病であることが多い。
だからこそ、覚悟はしておくようにと、お嬢ちゃんに言って聞かせた。最悪の事態はままあるのだと、若き龍へと言い聞かせた。
そして、東大陸を横断し、辿り着いた一軒家のベッドに横たわっていた男は――何てことはない、ただのポーション中毒じゃった。
複数の効能を持つポーションをがぶ飲みした際に起こる、心身の不調。症状は重かったが、治す手段はいくらでもあった。
安心して膝をついた混沌龍のお嬢ちゃん。相変わらず、早とちりが過ぎると苦笑させられたが、これも愛ゆえかと温かい気持ちにもなった。
おてんばで、自信家で、弱い男など眼中にもない龍族の少女。それが、愛を知ったことによって、ここまで献身的になるとは。龍族の女は情が厚い者が多いが、そういった意味ではお嬢ちゃんは誰よりも龍族らしかった。
はるばる大陸の東端からついてきた甲斐があったというもの。恋するルートゥーを見れただけでも、わしは十分過ぎるほどに満足感を覚えていた。
じゃから、患者が回復し、後顧の憂いを断った後は、余韻に浸りながらゆっくりと帰ろう――そう思っていたのじゃが。
「お師匠様ー。アップル・ポーションの改良、うまくいきませんね」
「材料や工程は間違っておらんはずなのじゃが……」
わしはまだ、グランフェリアにいた。
貴大という青年はとっくの昔に復調している。それなのに、なぜ、まだこの街にいるのかと言うと――。
「すみません、もう二ヶ月も手伝ってもらっちゃって」
「いや、いいんじゃよ。好きでやっておることじゃからな」
目の前には、ごぽりごぽりと泡立つポーション……らしきもの。
どろりと濁った水銀色。ねばねばとビーカーに付着した飛沫。ツンと鼻を突く刺激臭は、吐き気すら催させる。老虎油
この薬品の名は、アップル・ポーション。苦いポーションを、飲みやすくするために開発されたもの――らしい。
これが、わしがこの街に留まる理由。悪神の影響を取り除いたというのに、未だこのような劇薬を作り出す娘を正すべく、わしは説明のつかない使命感に駆られていた。
この子は、野放しにしていてはいけない。せめて『人が飲める』ポーションを作れるようにしなければ、放っておくことなどできはしない。
医龍の名は関係ない。この世に生きる者として、本能が警鐘を鳴らしている。その者を正しく導けと、心が命じてくる。
――いや、これはもしかすると、プライドの問題なのかもしれない。
千年間、薬品とともに生きてきたわしが、一人の人間も矯正できないなどあってはならない。若き日に置いてきたはずの無用な自尊心が、甦ったのかもしれない。
いずれにせよ、わしはミーシャの舌と腕を正すためだけに、グランフェリアに逗留することに決めた。こうなった以上、改善の兆しが見えるまでは、絶対にこの街を離れん。
……二か月前は、そう決意して、年甲斐もなく息巻いておったのじゃが。
「お師匠様ー! ポーションが動き始めましたー!?」
「ぱみいいいいいいいい!」
「なぜ、なぜ、そうなるんじゃーっ!?」
早くも、絶望に捕らわれようとしている自分を感じる。
この世に生を受けて四千年。まだまだ〈アース〉には不思議が満ちている。まさか、林檎味のポーションに命が宿るとは……。
「しかも地味に強いっ!? 【物理無効】とは、小癪なスライムめっ!」
「ぷうええぇぇぇ……!」
工房から表通りに飛び出して死闘を演じるわしとポーション(だったもの)。
体にまとわりついて、口の中に侵入してこようとする林檎色のスライムに、ブレスをお見舞いして蒸発させる。
……だ、大丈夫じゃろうか? 今度は気体の状態で襲いかかっては来ないじゃろうか?
あのミーシャという娘が作ったポーションは、何が起きても不自然ではないからのう……ああ、本当に、どのようにすれば改善できるんじゃろ。
「誰かと思えば、老龍ではないか」
「あ、先生、こんちはっす」
通りの魔素燈の柱に手をついて項垂れていると、後ろから声をかけられた。
振り返れば、そこには混沌龍のお嬢ちゃんに腕を組まれた青年がいた。
「またミーシャさんっすか? 何と言うか、その……頑張ってください」
貴大君か。彼も、ミーシャと関わり、改善のために尽力していたと聞く。しかし、そんな彼の目に浮かぶのは、諦観の念だけで――。
いかん、わし、最近あんな目をしておる!
「なあに、まだこれからじゃよ。二人は、これからお出かけかね?」
強がりを口にして、露骨に話題を変える。このまま、貴大君とミーシャのことについて話していたら、絶望の沼に沈んでしまいそうじゃ。
「そうなのだ。タカヒロが、我を喫茶店に連れていってくれるのだ。デートだぞ、デート!」麻黄
黒色のサマードレスでおめかしをしたお嬢ちゃんが、頬を上気させて仲のよさをアピールする。
「違うわ。お前が連れて行けって騒いだんだろ」
反面、貴大君は乗り気ではないようで――しかし、繋いだ手を放そうとはしない。言うほどに嫌がってはいないんじゃろ、あれは。
ツンデレってやつかのう。人前でなければ、もっといちゃついているのじゃろうか。いずれにせよ、貴大君には頑張ってもらいたい。
何せ、孫娘のような少女の婚約者じゃ。ぜひ、発奮して、四人か五人ぐらいは子どもを作って欲しい。曾孫の顔も見たいんじゃよ、わし。
「よかったのう。二人とも、楽しんでおいで」
「うむ! 言われるまでもないわ」
「先生は……その、頑張ってください」
笑顔でうなずいて去っていく少女と、彼女に引きずられていく青年。
うんうん、仲良きことは美しきかな。そのまま、順調に仲を深めていって、幸せな家庭を築いてもらいたい。
「前途多難ではあるがの」
そう、あの佐山貴大という青年は、これから先、激動の人生を送るじゃろう。
彼は、この世界における特異点じゃ。全てが異質で、大きな力も秘めておる。そんな彼の可能性を狙って、何やら悪神が暗躍しておるようじゃが――それは、彼が自分で解決すべきこと。
彼が自ら動き、自ら戦い、そして、自ら選択する。
そうすることで初めて、彼は大きく成長できる。だから、何が起きようとも、わしは手を貸すべきではない。そうせずとも、彼は自分で何とかできる人間じゃ。
だからわしは、傍観者に徹する。この千年間、そうしてきたように。ただただ、世の中の人々を見守るだけに――。
「お師匠様ー! また、また、ポーションが動き出しましたー!?」
「シェリッシャアアアアアアア!!!!」
「感慨に浸らせておくれっ!?」
それでも、放っておけないこともある。
それが、ミーシャという少女であり、彼女が作り出すポーションじゃ。
今度は何を加えたのか、蛇のようにするすると床を這う林檎色の薬品は、やはりわしの口を目指して進んでくる。
ポーションとして生まれたからには、人に飲まれようという本能が備わっているのじゃろうか? しかし、わけのわからぬ薬品を飲むつもりは毛頭ないっ!
だからこそ、わしは果敢に立ち向かう。己自身に降りかかる災厄を祓うため。ミーシャという少女を救うため。
持てる力と知識の全てを使い、わしは運命へと立ち向かう――!
願わくば、貴大君も頑張ってもらいたい。そう考えながら、わしはポーションとの死闘を演じた。D9 催情剤
それに、海に浮かぶ島。これは数えられんほどあるから、説明は割愛しよう。田七人参
――なに? 大陸と島の違いがわからない? ほっほ、確かに、確かに。空高く飛び上がり、星空から眼下を見下ろせば、この星の全容さえも視界に収まるからのう。
それでも、大陸は広大じゃよ。特に、世界最大の東大陸は広大無辺。大地に立てば、どこまでも、どこまでも続いて見えるじゃろう。
内包する文明も実に多種多様。西欧では煌びやかな貴婦人が踊り、極東では質実剛健な武士もののふたちが刀を振るう。南蛮では海の民が熟れた果物でのどを潤し、魔の中部地方では数多の怪異たちが覇権を競って殺し合っておる。
わしが生まれた忠の国は東大陸の東端にあるんじゃが、国一つとってみても、文化や街並み、道行く人たちは驚くような違いを見せていた。
龍として生まれてから三千年は、そういった違いが面白く、世界中を旅して回った。少し目を離した隙に成長していく他種族の文化に、心を躍らせていた。
よちよち歩きの赤ん坊を見守り、時にはそっと手助けをする。そのうち、彼らはわしと肩を並べるほどに成長し、夜になれば盃を交わして星を見上げた。
幾万の命を奪う流行り病に涙した。人々に仇成す悪神をうち滅ぼし、勇者とともに喝采を上げた。揺れる小麦畑の中で穏やかにほほ笑んだ。
戻らざる青春の日々。若き赤龍の冒険譚。振り返れば、思わず赤面してしまうような失態もあるが、どれも大切なわしの思い出じゃ。
それら若き日の記憶を抱え、三千歳を越えてからは故郷で隠遁生活を送り始めた。世界は循環し、目まぐるしく変化していくもの。最盛期を越えた中年が、いつまでも大きな顔をしていては、次世代を担う若者が育たない。
そう考えたわしは、忠の国――かつては、交の国と呼ばれていた故郷へと去っていった。
それから千年。激動の若き時代に比べると、どこまでもゆったりと流れていく時間。日がな一日本を読んだ。日が暮れるまで湖に釣り糸を垂らした。自分の手で深山に庵を建てたりした。
少し早めの老後を有意義に過ごすため、様々なことに挑戦した。太極拳という人間の武術も学んだし、手遊び程度に料理も試してみた。その中でも特に性にあったのは、意外にも薬品の調合じゃった。
山野で採取した薬草や鉱石を混ぜ合わせ、怪我や病を癒す薬を作る。簡単に言えばそれだけのことじゃが、これが実に奥が深い。
ザオインという、三角形の実をつける植物がある。そこから種を取り出して、そのまま飲めば便秘によく効くんじゃが、乾かしてからすり潰し、鍾乳洞の鉱水と混ぜれば、なんと魔力を補充するための飲み薬が出来上がる。
マーツの実も面白い。生の果汁は切り傷の特効薬となるこの果実は、干して煎じて、スライムジェルと混ぜ合わせると打ち身用の湿布となる。
生で、干して、茹でて、炒って、潰して、磨って。更に混ぜ合わせることで無限の広がりを見せる薬の精製に、わしはすっかり魅了され、千年間、日課のように薬品調合に勤しんだ。
その結果、『幽山の医龍』とまで呼ばれるようになったんじゃが……龍族には時間だけはたっぷりあるからのう。他の者が同じことをすれば、似たような名前がつくじゃろうて。
それでも、医龍という響きには頼もしさを感じるんじゃろうな。名前だけが独り歩きをして、人間の間では、不治の病すら治す龍が霊山に住んでいる、という伝承すらある。
不治の病を治す? とんでもない。わしにも治せん病は山ほどあるよ。神や妖精王などの管理者でもあるまいに、この世の道理を操る術などわしにはない。
風邪の特効薬など作れんし、不老不死の妙薬なぞ夢のまた夢。恋の病も治せんし、中二病に効く薬も作れんのう。
それに、何より――。
「できたー!」
「なぜ、林檎と蜂蜜、ポーションを混ぜただけで、泡立つ水銀が出来上がるんじゃ……!?」
効能はともかく、調味に関して壊滅的な腕を持つ少女を導くこともできんのだ。
これでは、医龍とはとても呼べんじゃろう?
ミーシャという名の少女と出会ったのは、ほんの二か月前。夏の気配を滲ませる、温かな春の日のことじゃった。威哥十鞭王
その日も常のごとく、わしは深山の庵で薬を作っておった。乳鉢に薬種を放り込み、ごりごりと磨っては細かく砕いていく。
いつも通りの生活。いつも通りの穏やかな日常。その中に、騒がしくも懐かしい闖入者が飛び込んできた。
「老龍! 老龍はおるか!?」
焦燥感を隠そうともせずに庵に飛び込んできたのは、西の魔の山に住む混沌龍のお嬢ちゃん。いつもの自信に満ちた顔をどこへやったのやら、お嬢ちゃんはわしを見つけると、泣きそうな顔をして駆け寄ってきた。
「頼む! 貴様の力が必要なのだ! 我の伴侶を救ってくれ!」
そう言って、わしを引っ張っていこうとするルートゥー。しかし、その時のわしは、いまいち事情が呑み込めずにきょとんとするばかり。
「伴侶? 根源のお嬢ちゃんは、結婚しておったのか?」
とんと記憶にない情報に、わしは思わず首を傾げた。いよいよわしもボケてきたのかとさえ思った。それでも、ゴシックロリータ衣装に身を包んだお嬢ちゃんは、説明する時間も惜しいとばかりに龍の姿へと変わり、わしを連れて天高く舞い上がっていった。
そして、道中聞かされる、旦那様――いや、婚約者じゃったか――の話。レベルを極め、混沌龍の心臓をも突き破ったという青年が、ある日突然、倒れてしまったのだという。
毒か、病か――もしも後者ならば諦めなさいと、わしはルートゥーへと伝えた。レベル250は生物としての限界点。そこへ辿り着いた生命体は鋼のように強靭で、生半可な病など自力で跳ね除けてしまう。
もしも、そのような人間が病に罹るとすれば――それは、不治の病であることが多い。
だからこそ、覚悟はしておくようにと、お嬢ちゃんに言って聞かせた。最悪の事態はままあるのだと、若き龍へと言い聞かせた。
そして、東大陸を横断し、辿り着いた一軒家のベッドに横たわっていた男は――何てことはない、ただのポーション中毒じゃった。
複数の効能を持つポーションをがぶ飲みした際に起こる、心身の不調。症状は重かったが、治す手段はいくらでもあった。
安心して膝をついた混沌龍のお嬢ちゃん。相変わらず、早とちりが過ぎると苦笑させられたが、これも愛ゆえかと温かい気持ちにもなった。
おてんばで、自信家で、弱い男など眼中にもない龍族の少女。それが、愛を知ったことによって、ここまで献身的になるとは。龍族の女は情が厚い者が多いが、そういった意味ではお嬢ちゃんは誰よりも龍族らしかった。
はるばる大陸の東端からついてきた甲斐があったというもの。恋するルートゥーを見れただけでも、わしは十分過ぎるほどに満足感を覚えていた。
じゃから、患者が回復し、後顧の憂いを断った後は、余韻に浸りながらゆっくりと帰ろう――そう思っていたのじゃが。
「お師匠様ー。アップル・ポーションの改良、うまくいきませんね」
「材料や工程は間違っておらんはずなのじゃが……」
わしはまだ、グランフェリアにいた。
貴大という青年はとっくの昔に復調している。それなのに、なぜ、まだこの街にいるのかと言うと――。
「すみません、もう二ヶ月も手伝ってもらっちゃって」
「いや、いいんじゃよ。好きでやっておることじゃからな」
目の前には、ごぽりごぽりと泡立つポーション……らしきもの。
どろりと濁った水銀色。ねばねばとビーカーに付着した飛沫。ツンと鼻を突く刺激臭は、吐き気すら催させる。老虎油
この薬品の名は、アップル・ポーション。苦いポーションを、飲みやすくするために開発されたもの――らしい。
これが、わしがこの街に留まる理由。悪神の影響を取り除いたというのに、未だこのような劇薬を作り出す娘を正すべく、わしは説明のつかない使命感に駆られていた。
この子は、野放しにしていてはいけない。せめて『人が飲める』ポーションを作れるようにしなければ、放っておくことなどできはしない。
医龍の名は関係ない。この世に生きる者として、本能が警鐘を鳴らしている。その者を正しく導けと、心が命じてくる。
――いや、これはもしかすると、プライドの問題なのかもしれない。
千年間、薬品とともに生きてきたわしが、一人の人間も矯正できないなどあってはならない。若き日に置いてきたはずの無用な自尊心が、甦ったのかもしれない。
いずれにせよ、わしはミーシャの舌と腕を正すためだけに、グランフェリアに逗留することに決めた。こうなった以上、改善の兆しが見えるまでは、絶対にこの街を離れん。
……二か月前は、そう決意して、年甲斐もなく息巻いておったのじゃが。
「お師匠様ー! ポーションが動き始めましたー!?」
「ぱみいいいいいいいい!」
「なぜ、なぜ、そうなるんじゃーっ!?」
早くも、絶望に捕らわれようとしている自分を感じる。
この世に生を受けて四千年。まだまだ〈アース〉には不思議が満ちている。まさか、林檎味のポーションに命が宿るとは……。
「しかも地味に強いっ!? 【物理無効】とは、小癪なスライムめっ!」
「ぷうええぇぇぇ……!」
工房から表通りに飛び出して死闘を演じるわしとポーション(だったもの)。
体にまとわりついて、口の中に侵入してこようとする林檎色のスライムに、ブレスをお見舞いして蒸発させる。
……だ、大丈夫じゃろうか? 今度は気体の状態で襲いかかっては来ないじゃろうか?
あのミーシャという娘が作ったポーションは、何が起きても不自然ではないからのう……ああ、本当に、どのようにすれば改善できるんじゃろ。
「誰かと思えば、老龍ではないか」
「あ、先生、こんちはっす」
通りの魔素燈の柱に手をついて項垂れていると、後ろから声をかけられた。
振り返れば、そこには混沌龍のお嬢ちゃんに腕を組まれた青年がいた。
「またミーシャさんっすか? 何と言うか、その……頑張ってください」
貴大君か。彼も、ミーシャと関わり、改善のために尽力していたと聞く。しかし、そんな彼の目に浮かぶのは、諦観の念だけで――。
いかん、わし、最近あんな目をしておる!
「なあに、まだこれからじゃよ。二人は、これからお出かけかね?」
強がりを口にして、露骨に話題を変える。このまま、貴大君とミーシャのことについて話していたら、絶望の沼に沈んでしまいそうじゃ。
「そうなのだ。タカヒロが、我を喫茶店に連れていってくれるのだ。デートだぞ、デート!」麻黄
黒色のサマードレスでおめかしをしたお嬢ちゃんが、頬を上気させて仲のよさをアピールする。
「違うわ。お前が連れて行けって騒いだんだろ」
反面、貴大君は乗り気ではないようで――しかし、繋いだ手を放そうとはしない。言うほどに嫌がってはいないんじゃろ、あれは。
ツンデレってやつかのう。人前でなければ、もっといちゃついているのじゃろうか。いずれにせよ、貴大君には頑張ってもらいたい。
何せ、孫娘のような少女の婚約者じゃ。ぜひ、発奮して、四人か五人ぐらいは子どもを作って欲しい。曾孫の顔も見たいんじゃよ、わし。
「よかったのう。二人とも、楽しんでおいで」
「うむ! 言われるまでもないわ」
「先生は……その、頑張ってください」
笑顔でうなずいて去っていく少女と、彼女に引きずられていく青年。
うんうん、仲良きことは美しきかな。そのまま、順調に仲を深めていって、幸せな家庭を築いてもらいたい。
「前途多難ではあるがの」
そう、あの佐山貴大という青年は、これから先、激動の人生を送るじゃろう。
彼は、この世界における特異点じゃ。全てが異質で、大きな力も秘めておる。そんな彼の可能性を狙って、何やら悪神が暗躍しておるようじゃが――それは、彼が自分で解決すべきこと。
彼が自ら動き、自ら戦い、そして、自ら選択する。
そうすることで初めて、彼は大きく成長できる。だから、何が起きようとも、わしは手を貸すべきではない。そうせずとも、彼は自分で何とかできる人間じゃ。
だからわしは、傍観者に徹する。この千年間、そうしてきたように。ただただ、世の中の人々を見守るだけに――。
「お師匠様ー! また、また、ポーションが動き出しましたー!?」
「シェリッシャアアアアアアア!!!!」
「感慨に浸らせておくれっ!?」
それでも、放っておけないこともある。
それが、ミーシャという少女であり、彼女が作り出すポーションじゃ。
今度は何を加えたのか、蛇のようにするすると床を這う林檎色の薬品は、やはりわしの口を目指して進んでくる。
ポーションとして生まれたからには、人に飲まれようという本能が備わっているのじゃろうか? しかし、わけのわからぬ薬品を飲むつもりは毛頭ないっ!
だからこそ、わしは果敢に立ち向かう。己自身に降りかかる災厄を祓うため。ミーシャという少女を救うため。
持てる力と知識の全てを使い、わしは運命へと立ち向かう――!
願わくば、貴大君も頑張ってもらいたい。そう考えながら、わしはポーションとの死闘を演じた。D9 催情剤
2014年6月21日星期六
港町
コツンコツン
遠くから足音が響いてくる。
紅く輝く双眸を持った、小さな白い影がやってくる――
「……うおっ!?」
やべぇ、今一瞬気を失ってなかったか!?
素早く立ち上がり周囲を見渡す。精力剤
誰の気配も感じない。
この耳に聞こえてくるのは、白い少女が奏でる足音では無く、すぐ横を流れる河の音だ。
「ど、どうなったんだっけ……」
俺は螺旋階段の下った底にあった井戸へ迷わず飛び込んだ。
井戸の底から、水が流れる音が聞こえてきたから、地下を流れる水脈があるのだと思い、どこか外へ通じていると思ったからだ。
そしてその目論見は見事成功、俺はこうして地面へ立っている。
ただし、あの地下水脈が俺を閉じ込める深い地の底へ続いていたのかもしれないし、実際飛び込めば真っ暗だし、水はめっちゃ冷たいしで、流されながら恐怖と不安で挫けそうにもなった。
運よく、暗い地下(洞窟というべきか)そこから日の当たる外へ水脈は続いていたようで、どうにか川岸に上がったところでちょっと気絶してしまったみたいだ。
「ああ、外だ」
天を仰げば真上に照る太陽、横には俺が流れてきた河があり、周囲は木々が生い茂り、そのさらに向こうには聳え立つ山々が見える。
そんな、完璧大自然な緑の中に、俺はいる。
「やった、俺はついに自由――」
ガサリ、と近くの茂みが音を立てた。
一瞬で俺の心臓の鼓動が高鳴り、嫌な汗が全身から噴出す。
脳裏に浮かび上がるのは、無表情な白いサリエルの顔。
「……」
現れたのは、鹿によく似た動物だった。
河へ水を飲みに来たのだろうか、よく見れば、奥のほうにも何体かいるようだ。
ところで‘鹿によく似た’とわざわざ言うのは、鹿ではない確信が俺にはあるからだ。
その鹿モドキは立派な角が三本も生えている上に緑色。あんなファンタジックな角を生やした鹿は、俺の世界にはいない。
いや、この世界で進化したらああいう鹿も生まれるのかもしれない、なんてったって火を噴くドラゴンが実在する魔法の世界だからなここは。
そもそもダーウィンの進化論はこの世界で通用するんだろうか?
「いやいや、そんなことより、今はもっと遠くへ逃げた方が良さそうだ」
多少の疲労感はあるが、サリエルに受けた傷は治りつつあり、行動するのに問題は無い。
今はこの改造されてやたら頑丈になった体がありがたい。
しかし、そんな体を持つ俺でも手も足もでない、モンスター以上の化物が存在するのだ。
もしかすれば、この世界にはあんなヤツラがごろごろいるのかもしれない、だとすれば、自分の力を過信するのは危険。
あんなのが束で脱走した俺の捜索に来られれば、完全にお終いだ。
どこが安全で、どこまで逃げればいいのか分からないが、兎に角あの施設からはひたすら遠くへ行くべきだ。
「行くか」
取り立てて道しるべの無い俺は、とりあえずこの河を下流へ向かっていくことに決めた。
今もサリエルに追われているかもしれない、という恐怖心が、体力の続く限り俺の足を進ませる。
俺は三日三晩一睡もせずにひたすら山やら森やらを歩き続けた。
足を止めるのは、便所と河の水を飲む時だけだ。
腹を壊すかもしれない、と思ったが、河は底が透けて見えるほど綺麗なものであり、なにより、これまで糞不味いゲロスープしか口にしなかった俺にとって、自然の清流はあまりに美味すぎた。
結局、腹は壊さなかったが、飲みすぎて胃袋がタプタプになるという弊害はあった。
そして、時たま遭遇する犬だか狼だかみたいなモンスターは散弾とライフルで追い返し、深追いはしなかった。
そして四日目の晩ついに、
「……灯りだ」
前方に、人が住んでいると思しき灯りを見た。
その灯をみながら、喜び勇んで真っ直ぐ走っていく。
が、その途中で俺は思った。
「待て、あのマスク共に通じるヤツラがいるかもしれないな」
若しくは研究者が、最悪サリエル本人がいる可能性も否定できない。
俺はこの世界については、モンスターがいることと魔法があることくらいしか知らない。
世間の常識を知らない上に、このボロボロの貫頭衣姿は確実に怪しまれる。
怪しまれるってことは目立つってことだ、逃亡する身としてはそれだけは絶対に避けたい。
そしてさらに悪い想像だが、俺が指名手配されている可能性もありうる。
実験体としての俺の存在は、マスク共の中でどういう位置づけにあるのかは分からないが、国を挙げての大規模プロジェクトとかそういうのだった場合、広範囲に渡って俺を捜索してくるだろう。媚薬
つまりこの世界の人間に、不用意に接触するのは危険だということだ。
そこまで思い至った時、街は目前に迫っていたが、人恋しさを我慢しつつ、俺は息を潜めて街へ潜入することにした。
ここは、灰色の石壁に囲まれた、潮風漂う港町だ。
門に立って街へ出入りする人々を監視する兵士に見つからないよう、注意深くぐるっと一周見て回って分かったことだ。
それと、どうやらこの世界の文明は中世レベルだというのも判明した。
石壁だけなら文化財として残しているだけなのかもしれない、しかし、ここの石壁は現役で使用されている。
他にも、アスファルトで舗装されていない道、槍を携えた鎧姿の兵士、夜の明かりは篝火とランプ、などなど、俺の知る現代的な物は何一つ見つからない。
あの実験施設にいたころから、電気設備も無く、銃ではなく剣や弓で武装したモンスターを見て、現代では無さそうとは思っていたが、こうして一般的(と思われる)街を見れば、その時の予想が正しかったのだと思い知らされる。
「本当に異世界だな、ここは……」
軽く絶望してしまいそうだが、心に大きな不安を抱いて思い悩めるほど今の俺は暇では無い。
元の世界に帰る方法を模索するのは、もっと遠くへ逃げて落ち着いてからにしよう。
再び考えを目の前の街へと戻す。
ここが港町というのは、俺にとっては好都合かもしれない。
陸路を行くより、船で海路を行った方が、遥かに速く、より遠くへ行くことが出来るのだ。
少なくとも、飛行機は無いだろうと予想されるこの世界において、船が最長最速の移動手段だろう。
もっとも、ワープやテレポートの魔法装置が無ければの話だ。
兎に角ここから遠くへ行きたいという目的しか無い俺にとって、船というのは魅力的な存在だ。
ここは是が非でも、できるだけ遠くへ行く船に乗りたいものだ。
勿論、人と会うわけにも行かない上に、無一文な俺は正規の手段で乗船する気はさらさら無い。
要するに、密航だ。
「よし、目的は決まった、そんじゃ街へ行くとするか」
周囲に人の目がない事を確認して、俺は石壁へと手をかける。
垂直に、かつ精密に組み上げられた石壁に、手をかけ、足をかけるほどの凹凸は無い。
なので、ここは頼りになる黒魔法の出番だ。
手足の先に、黒色魔力を鋭く物質化させる。
頑張れば竜の鱗だって貫く硬さを再現できるのだ、石壁にさっくり切り込める刃を作ることも十分可能だ。
そうして初めての壁登りにチャレンジ。
指先と一体化した鋭い爪は、ダンボールにカッターを突き刺すくらいの感覚で、石壁に食い込む。
垂直の壁を直接指を刺すことで、手をかけるところを作っていくのだ。
足先も同じ要領で、壁に突き刺し、しっかりと固定する。
壁の高さはおよそ5メートルといったところか、命綱の無いウォールクライミングだが、俺の体なら天辺から落下してもなんとも無いだろう、下は柔らかい土の地面だしな。
そして、段々と壁登りの要領を掴んでいった俺は順調に壁を登っていく。
「おお、今の俺って忍者みたいじゃね?」
そして、すっかり夜の闇に溶け込む忍の者気分になった俺は、あっという間に壁を登りきる。
壁の上で仁王立ちしたら、流石に誰かに見られそうな気がしたので、這い蹲ったまま街の内部を眺める。
「おお、予想はしてたが、やっぱすげぇな……」
そこでは、映画やアニメでしか見たことが無い、ヨーロッパ風の町並みが再現されていた。
視力と共に、夜目も効くようになっているので、この闇夜においても街の様子がはっきり見て取れる。
白塗りの民家が立ち並び、街の一番大きい通りは石畳で、灯りをつけた夜店が見える。
昼にはきっと荷を満載にした馬車が行き交っていることだろう。
そして、中央部に街で一番の高さを誇る尖塔を備えた教会が建つ。
そこからさらに大通りを進むと、沢山の船が停泊している港へ至る。
流石に夜だけあって、人の姿が多く見えるのは大通りだけで、住宅地などは灯りを消して静まり返っている。
「港には、壁沿いを進んだ方が良さそうだな」
おおよその街の全景を頭に入れ、ここから港までの大雑把なルートを決定すると、俺は石壁から飛び降りた。
井戸に続く螺旋階段くらいの高さならヤバいが、(目測)5メートルくらいは問題ない。
ドッと鈍い音を響かせて土の上に着地し、すぐさまその場を離れる。
最大限注意を払いながら、暗い住宅街の路地を駆け抜けていった。性欲剤
自由
地獄のような魔法世界へやってきてから、これほどまで深く眠ったのは初めての経験だった。
機動実験で同じ実験体の少年を殺して以来、ずっと自意識が戻らず淡々と身に起こる実験の日々を眺めるだけの生活が続いた。
だから、また同じように実験体の少年少女をこの手にかけても、特に何とも思わなかった。
けれど、このボンヤリした俯瞰意識も、このまま深い眠りの中で、ついには消え去り、俺が黒乃真央という個人だったという記憶も完全に無くなってしまうのだろうと思った。
それでも、もう痛いのも苦しいのも、同じ人間を殺すのも我慢の限界で、このままゆるやかに自分が消えてしまうのは寧ろ望む所であった。
もういい、俺は元いた場所には帰れない、いよいよ両親の顔すら満足に思い出せず、脳裏に蘇るのは、あの十字を背負った爺と白いマスク、それと、俺が殺したモンスターと実験体達の姿だけだ。
だから、もういいんだ、ここで俺が消えてしまえば楽になる、これ以上生にしがみつく必要性は全く無い――
そうして、薄れ行く意識の中で全てを諦めかけた直後だった。
ズズン――
そんな轟音と共に、天地が引っくり返ったような衝撃で、俺の意識は急速に覚醒していった。
「――はっ!?」
飛び起きると、何時もの如く固い床の上。
けれど、これまでにないほど俺の頭ははっきりとしていて、今まで脳内と意識を覆っていたモヤモヤみたいなのは綺麗サッパリ消え去っていた。
気分爽快、とは今みたいな状況を言うんだろうな。
自意識は久方ぶりに戻り、俺の頭は冴え、体中を血液と魔力が滞りなく循環し、力が全身に漲っている。
「ここは……実験室か」
中央の台座から俺は床へと転がり落ちたのだろう。
どういう経緯でそうなったのかは分からないが、他に二名のマスクが、さっきまでの俺と同じように地面へ転がっている。
何かの実験中に事故ったんだろうか?
俺としてはこの白マスクを助け起こす義理なんぞ無いし、その気もさらさらない。
どうしたものか、と考えつつ部屋を見渡すと、とある物が目に入った。
一度だけしか見たことの無いモノだったが、それが何なのかすぐに理解できた。
「白い、リング……」
七つの針で俺に絶対服従を強いる恐怖のアイテム。
装着されて以来、絶対に外れることのないソレが、俺の目の前にある。
自分の手でゆっくりと頭部を探る。
どれほど注意深く触っても、指先に感じるのは髪の毛と頭皮以外に無い。
「無い……リングが、無いぞ」
当然だった、目の前に置いてあるリングこそ、これまで俺の頭部に装着されたリングなのだから。
「は、はははは――」
頭からリングが外れた。
俺を束縛するモノは、最早存在しない。
気がつけば、リングは俺の手の中で粉々に砕け散っていた。
「あははははは! 俺は自由だっ!!」
そうさ、自由の身になれば、もう大人しく死んでやる必要性など無い!
俺の絶叫が気付け変わりにでもなったのか、床に倒れていたマスクが二人、壁に手を突きながら起き上がってきた。
俺は、近い方にいるマスクへと接近する。
「なに、49番――」
今がどういう状況にあるのか判っているのかいないのか、俺を見て驚きの声を上げる。
「その名前で俺を呼ぶんじゃねぇ」
左手でマスクの胸倉を掴みあげる。女性用媚薬
「ぐはっ、や、やめるんだ……49番……」
「俺の名は――」
右腕をゆっくりと振りかぶる。
体調は万全、漲るほどの黒色魔力が瞬間的に右腕へ凝集する。
「黒乃真央だっ!!」
忌々しい白マスクへ、渾身のパイルバンカーが炸裂した。
断末魔の声すら上げる間も無く、頭部を粉々に粉砕、首無し死体が出来上がる。
「なにをしている49番っ!」
もう一人のマスクが、背後から俺へ飛び掛ってくる。
例えその叫び声が無くとも、その気配は察知していたので、その対処には何の苦労も無い。
マスクが俺へ突き刺そうとしたガラス製の注射器を、左腕一本で受け止める。
「危ねぇな」
そのまま注射器を奪い取り、右手で逆手に持って構える。
「やめ――」
首元まで覆う白いマントの上から、首筋目掛けて注射器を打ち込む。
上手く血管に刺さったのかどうかは知らないが、注射器を満たす毒々しい色の薬液をそのまま注入する。
「ぐっっ、おぉおおお……」
首を押さえて、苦しみ始めたマントは、再び床へと倒れ伏す。
「ライフル」
指の先ですでに形成を完了した黒い弾丸を、額へ向けて撃つ。血と脳漿を派手に床へぶちまけて、マスクは絶命する。
あの薬液がどんな効果があるのか知らんので、一応念のためだ、俺みたく変に強くなって復活されたら困るしな。
「さて――どういうワケか分からんが、チャンスだ」
すでにリングの絶対的な拘束は存在しない。
その上、コイツラが好き勝手に散々肉体改造を施したお陰で、ドラゴンだって殺せるほどの力を持っている。
さらに、人殺しの禁忌も、知らずとは言え既に犯してしまった俺だ、憎悪する理由に事欠かないこの白いマスク共を殺すのに一切の躊躇も無い。
ここで二人のマスクをあっさり殺害できたのだ、研究者程度が束でかかってきても俺を抑えることは不可能だろう。
自業自得、俺をそこまでの化物に仕立て上げたのは、他でもないコイツラ自身だ。
自由の身となった俺に、この場を脱するのを妨げるモノは、最早存在しない。
「行くぞっ!」
自分を奮い立たせるいつもの台詞を叫んで、俺は扉をぶち破った――
「――あれほど最終洗礼処置は注意して行えと言っただろうがっ!」
会議室に怒号が響く。
「し、しかし、拘束処置は規定の通り行い、完全に無力化できていたはずです」
「薬物耐性か回復力が予想以上のものであったというのか……」
「地震の影響で、洗礼処置の途中で強制的に中断されたことにより、意識を取り戻してしまったのでしょう」
「ならば警備兵の全てを動員してさっさと取り押さえんかっ!!」
そう叫んだ司祭だったが、膨大な黒色魔力を扱う49番を、それほど数の多くない警備兵だけで捕獲することは不可能だろうと薄々感づいていた。
「申し訳ございません猊下、事態は一刻を争います、速やかに避難を――」
「落ち着きたまえ司祭殿、枢機卿である私が何ゆえ護衛の一人も連れずに来たのか、分からないのかね?」
アルス自身、49番と呼ばれる実験体が制御不能となり、数々のモンスターを単独で屠るほど危険な力をもって暴れているのは理解できている。
しかしながら、‘その程度’の力では、全く動ずるに値はしない。
「し、しかし……」
大司祭はアルスの隣に佇むサリエルへ視線を向ける。
アルスがどういう意図を持っての発言か、すでに理解は出来ている。
「これは全て我々の不手際、サリエル卿のお手を煩わせるわけには――」
「いらぬ気を回すな、サリエル卿、この場を任せてよいかな?」
コクンと小さくサリエルは頷く。
「どうやら危険な相手らしい、生け捕りにする必要は無いだろう」
もう一度小さく頷いて、軽い足取りでサリエルは会議室を出て行く。中絶薬
「では行こうか、慌てる必要は無い、十分もすれば49番とやらの首を持ってサリエル卿は戻ってくるだろうからな」
遠くから足音が響いてくる。
紅く輝く双眸を持った、小さな白い影がやってくる――
「……うおっ!?」
やべぇ、今一瞬気を失ってなかったか!?
素早く立ち上がり周囲を見渡す。精力剤
誰の気配も感じない。
この耳に聞こえてくるのは、白い少女が奏でる足音では無く、すぐ横を流れる河の音だ。
「ど、どうなったんだっけ……」
俺は螺旋階段の下った底にあった井戸へ迷わず飛び込んだ。
井戸の底から、水が流れる音が聞こえてきたから、地下を流れる水脈があるのだと思い、どこか外へ通じていると思ったからだ。
そしてその目論見は見事成功、俺はこうして地面へ立っている。
ただし、あの地下水脈が俺を閉じ込める深い地の底へ続いていたのかもしれないし、実際飛び込めば真っ暗だし、水はめっちゃ冷たいしで、流されながら恐怖と不安で挫けそうにもなった。
運よく、暗い地下(洞窟というべきか)そこから日の当たる外へ水脈は続いていたようで、どうにか川岸に上がったところでちょっと気絶してしまったみたいだ。
「ああ、外だ」
天を仰げば真上に照る太陽、横には俺が流れてきた河があり、周囲は木々が生い茂り、そのさらに向こうには聳え立つ山々が見える。
そんな、完璧大自然な緑の中に、俺はいる。
「やった、俺はついに自由――」
ガサリ、と近くの茂みが音を立てた。
一瞬で俺の心臓の鼓動が高鳴り、嫌な汗が全身から噴出す。
脳裏に浮かび上がるのは、無表情な白いサリエルの顔。
「……」
現れたのは、鹿によく似た動物だった。
河へ水を飲みに来たのだろうか、よく見れば、奥のほうにも何体かいるようだ。
ところで‘鹿によく似た’とわざわざ言うのは、鹿ではない確信が俺にはあるからだ。
その鹿モドキは立派な角が三本も生えている上に緑色。あんなファンタジックな角を生やした鹿は、俺の世界にはいない。
いや、この世界で進化したらああいう鹿も生まれるのかもしれない、なんてったって火を噴くドラゴンが実在する魔法の世界だからなここは。
そもそもダーウィンの進化論はこの世界で通用するんだろうか?
「いやいや、そんなことより、今はもっと遠くへ逃げた方が良さそうだ」
多少の疲労感はあるが、サリエルに受けた傷は治りつつあり、行動するのに問題は無い。
今はこの改造されてやたら頑丈になった体がありがたい。
しかし、そんな体を持つ俺でも手も足もでない、モンスター以上の化物が存在するのだ。
もしかすれば、この世界にはあんなヤツラがごろごろいるのかもしれない、だとすれば、自分の力を過信するのは危険。
あんなのが束で脱走した俺の捜索に来られれば、完全にお終いだ。
どこが安全で、どこまで逃げればいいのか分からないが、兎に角あの施設からはひたすら遠くへ行くべきだ。
「行くか」
取り立てて道しるべの無い俺は、とりあえずこの河を下流へ向かっていくことに決めた。
今もサリエルに追われているかもしれない、という恐怖心が、体力の続く限り俺の足を進ませる。
俺は三日三晩一睡もせずにひたすら山やら森やらを歩き続けた。
足を止めるのは、便所と河の水を飲む時だけだ。
腹を壊すかもしれない、と思ったが、河は底が透けて見えるほど綺麗なものであり、なにより、これまで糞不味いゲロスープしか口にしなかった俺にとって、自然の清流はあまりに美味すぎた。
結局、腹は壊さなかったが、飲みすぎて胃袋がタプタプになるという弊害はあった。
そして、時たま遭遇する犬だか狼だかみたいなモンスターは散弾とライフルで追い返し、深追いはしなかった。
そして四日目の晩ついに、
「……灯りだ」
前方に、人が住んでいると思しき灯りを見た。
その灯をみながら、喜び勇んで真っ直ぐ走っていく。
が、その途中で俺は思った。
「待て、あのマスク共に通じるヤツラがいるかもしれないな」
若しくは研究者が、最悪サリエル本人がいる可能性も否定できない。
俺はこの世界については、モンスターがいることと魔法があることくらいしか知らない。
世間の常識を知らない上に、このボロボロの貫頭衣姿は確実に怪しまれる。
怪しまれるってことは目立つってことだ、逃亡する身としてはそれだけは絶対に避けたい。
そしてさらに悪い想像だが、俺が指名手配されている可能性もありうる。
実験体としての俺の存在は、マスク共の中でどういう位置づけにあるのかは分からないが、国を挙げての大規模プロジェクトとかそういうのだった場合、広範囲に渡って俺を捜索してくるだろう。媚薬
つまりこの世界の人間に、不用意に接触するのは危険だということだ。
そこまで思い至った時、街は目前に迫っていたが、人恋しさを我慢しつつ、俺は息を潜めて街へ潜入することにした。
ここは、灰色の石壁に囲まれた、潮風漂う港町だ。
門に立って街へ出入りする人々を監視する兵士に見つからないよう、注意深くぐるっと一周見て回って分かったことだ。
それと、どうやらこの世界の文明は中世レベルだというのも判明した。
石壁だけなら文化財として残しているだけなのかもしれない、しかし、ここの石壁は現役で使用されている。
他にも、アスファルトで舗装されていない道、槍を携えた鎧姿の兵士、夜の明かりは篝火とランプ、などなど、俺の知る現代的な物は何一つ見つからない。
あの実験施設にいたころから、電気設備も無く、銃ではなく剣や弓で武装したモンスターを見て、現代では無さそうとは思っていたが、こうして一般的(と思われる)街を見れば、その時の予想が正しかったのだと思い知らされる。
「本当に異世界だな、ここは……」
軽く絶望してしまいそうだが、心に大きな不安を抱いて思い悩めるほど今の俺は暇では無い。
元の世界に帰る方法を模索するのは、もっと遠くへ逃げて落ち着いてからにしよう。
再び考えを目の前の街へと戻す。
ここが港町というのは、俺にとっては好都合かもしれない。
陸路を行くより、船で海路を行った方が、遥かに速く、より遠くへ行くことが出来るのだ。
少なくとも、飛行機は無いだろうと予想されるこの世界において、船が最長最速の移動手段だろう。
もっとも、ワープやテレポートの魔法装置が無ければの話だ。
兎に角ここから遠くへ行きたいという目的しか無い俺にとって、船というのは魅力的な存在だ。
ここは是が非でも、できるだけ遠くへ行く船に乗りたいものだ。
勿論、人と会うわけにも行かない上に、無一文な俺は正規の手段で乗船する気はさらさら無い。
要するに、密航だ。
「よし、目的は決まった、そんじゃ街へ行くとするか」
周囲に人の目がない事を確認して、俺は石壁へと手をかける。
垂直に、かつ精密に組み上げられた石壁に、手をかけ、足をかけるほどの凹凸は無い。
なので、ここは頼りになる黒魔法の出番だ。
手足の先に、黒色魔力を鋭く物質化させる。
頑張れば竜の鱗だって貫く硬さを再現できるのだ、石壁にさっくり切り込める刃を作ることも十分可能だ。
そうして初めての壁登りにチャレンジ。
指先と一体化した鋭い爪は、ダンボールにカッターを突き刺すくらいの感覚で、石壁に食い込む。
垂直の壁を直接指を刺すことで、手をかけるところを作っていくのだ。
足先も同じ要領で、壁に突き刺し、しっかりと固定する。
壁の高さはおよそ5メートルといったところか、命綱の無いウォールクライミングだが、俺の体なら天辺から落下してもなんとも無いだろう、下は柔らかい土の地面だしな。
そして、段々と壁登りの要領を掴んでいった俺は順調に壁を登っていく。
「おお、今の俺って忍者みたいじゃね?」
そして、すっかり夜の闇に溶け込む忍の者気分になった俺は、あっという間に壁を登りきる。
壁の上で仁王立ちしたら、流石に誰かに見られそうな気がしたので、這い蹲ったまま街の内部を眺める。
「おお、予想はしてたが、やっぱすげぇな……」
そこでは、映画やアニメでしか見たことが無い、ヨーロッパ風の町並みが再現されていた。
視力と共に、夜目も効くようになっているので、この闇夜においても街の様子がはっきり見て取れる。
白塗りの民家が立ち並び、街の一番大きい通りは石畳で、灯りをつけた夜店が見える。
昼にはきっと荷を満載にした馬車が行き交っていることだろう。
そして、中央部に街で一番の高さを誇る尖塔を備えた教会が建つ。
そこからさらに大通りを進むと、沢山の船が停泊している港へ至る。
流石に夜だけあって、人の姿が多く見えるのは大通りだけで、住宅地などは灯りを消して静まり返っている。
「港には、壁沿いを進んだ方が良さそうだな」
おおよその街の全景を頭に入れ、ここから港までの大雑把なルートを決定すると、俺は石壁から飛び降りた。
井戸に続く螺旋階段くらいの高さならヤバいが、(目測)5メートルくらいは問題ない。
ドッと鈍い音を響かせて土の上に着地し、すぐさまその場を離れる。
最大限注意を払いながら、暗い住宅街の路地を駆け抜けていった。性欲剤
自由
地獄のような魔法世界へやってきてから、これほどまで深く眠ったのは初めての経験だった。
機動実験で同じ実験体の少年を殺して以来、ずっと自意識が戻らず淡々と身に起こる実験の日々を眺めるだけの生活が続いた。
だから、また同じように実験体の少年少女をこの手にかけても、特に何とも思わなかった。
けれど、このボンヤリした俯瞰意識も、このまま深い眠りの中で、ついには消え去り、俺が黒乃真央という個人だったという記憶も完全に無くなってしまうのだろうと思った。
それでも、もう痛いのも苦しいのも、同じ人間を殺すのも我慢の限界で、このままゆるやかに自分が消えてしまうのは寧ろ望む所であった。
もういい、俺は元いた場所には帰れない、いよいよ両親の顔すら満足に思い出せず、脳裏に蘇るのは、あの十字を背負った爺と白いマスク、それと、俺が殺したモンスターと実験体達の姿だけだ。
だから、もういいんだ、ここで俺が消えてしまえば楽になる、これ以上生にしがみつく必要性は全く無い――
そうして、薄れ行く意識の中で全てを諦めかけた直後だった。
ズズン――
そんな轟音と共に、天地が引っくり返ったような衝撃で、俺の意識は急速に覚醒していった。
「――はっ!?」
飛び起きると、何時もの如く固い床の上。
けれど、これまでにないほど俺の頭ははっきりとしていて、今まで脳内と意識を覆っていたモヤモヤみたいなのは綺麗サッパリ消え去っていた。
気分爽快、とは今みたいな状況を言うんだろうな。
自意識は久方ぶりに戻り、俺の頭は冴え、体中を血液と魔力が滞りなく循環し、力が全身に漲っている。
「ここは……実験室か」
中央の台座から俺は床へと転がり落ちたのだろう。
どういう経緯でそうなったのかは分からないが、他に二名のマスクが、さっきまでの俺と同じように地面へ転がっている。
何かの実験中に事故ったんだろうか?
俺としてはこの白マスクを助け起こす義理なんぞ無いし、その気もさらさらない。
どうしたものか、と考えつつ部屋を見渡すと、とある物が目に入った。
一度だけしか見たことの無いモノだったが、それが何なのかすぐに理解できた。
「白い、リング……」
七つの針で俺に絶対服従を強いる恐怖のアイテム。
装着されて以来、絶対に外れることのないソレが、俺の目の前にある。
自分の手でゆっくりと頭部を探る。
どれほど注意深く触っても、指先に感じるのは髪の毛と頭皮以外に無い。
「無い……リングが、無いぞ」
当然だった、目の前に置いてあるリングこそ、これまで俺の頭部に装着されたリングなのだから。
「は、はははは――」
頭からリングが外れた。
俺を束縛するモノは、最早存在しない。
気がつけば、リングは俺の手の中で粉々に砕け散っていた。
「あははははは! 俺は自由だっ!!」
そうさ、自由の身になれば、もう大人しく死んでやる必要性など無い!
俺の絶叫が気付け変わりにでもなったのか、床に倒れていたマスクが二人、壁に手を突きながら起き上がってきた。
俺は、近い方にいるマスクへと接近する。
「なに、49番――」
今がどういう状況にあるのか判っているのかいないのか、俺を見て驚きの声を上げる。
「その名前で俺を呼ぶんじゃねぇ」
左手でマスクの胸倉を掴みあげる。女性用媚薬
「ぐはっ、や、やめるんだ……49番……」
「俺の名は――」
右腕をゆっくりと振りかぶる。
体調は万全、漲るほどの黒色魔力が瞬間的に右腕へ凝集する。
「黒乃真央だっ!!」
忌々しい白マスクへ、渾身のパイルバンカーが炸裂した。
断末魔の声すら上げる間も無く、頭部を粉々に粉砕、首無し死体が出来上がる。
「なにをしている49番っ!」
もう一人のマスクが、背後から俺へ飛び掛ってくる。
例えその叫び声が無くとも、その気配は察知していたので、その対処には何の苦労も無い。
マスクが俺へ突き刺そうとしたガラス製の注射器を、左腕一本で受け止める。
「危ねぇな」
そのまま注射器を奪い取り、右手で逆手に持って構える。
「やめ――」
首元まで覆う白いマントの上から、首筋目掛けて注射器を打ち込む。
上手く血管に刺さったのかどうかは知らないが、注射器を満たす毒々しい色の薬液をそのまま注入する。
「ぐっっ、おぉおおお……」
首を押さえて、苦しみ始めたマントは、再び床へと倒れ伏す。
「ライフル」
指の先ですでに形成を完了した黒い弾丸を、額へ向けて撃つ。血と脳漿を派手に床へぶちまけて、マスクは絶命する。
あの薬液がどんな効果があるのか知らんので、一応念のためだ、俺みたく変に強くなって復活されたら困るしな。
「さて――どういうワケか分からんが、チャンスだ」
すでにリングの絶対的な拘束は存在しない。
その上、コイツラが好き勝手に散々肉体改造を施したお陰で、ドラゴンだって殺せるほどの力を持っている。
さらに、人殺しの禁忌も、知らずとは言え既に犯してしまった俺だ、憎悪する理由に事欠かないこの白いマスク共を殺すのに一切の躊躇も無い。
ここで二人のマスクをあっさり殺害できたのだ、研究者程度が束でかかってきても俺を抑えることは不可能だろう。
自業自得、俺をそこまでの化物に仕立て上げたのは、他でもないコイツラ自身だ。
自由の身となった俺に、この場を脱するのを妨げるモノは、最早存在しない。
「行くぞっ!」
自分を奮い立たせるいつもの台詞を叫んで、俺は扉をぶち破った――
「――あれほど最終洗礼処置は注意して行えと言っただろうがっ!」
会議室に怒号が響く。
「し、しかし、拘束処置は規定の通り行い、完全に無力化できていたはずです」
「薬物耐性か回復力が予想以上のものであったというのか……」
「地震の影響で、洗礼処置の途中で強制的に中断されたことにより、意識を取り戻してしまったのでしょう」
「ならば警備兵の全てを動員してさっさと取り押さえんかっ!!」
そう叫んだ司祭だったが、膨大な黒色魔力を扱う49番を、それほど数の多くない警備兵だけで捕獲することは不可能だろうと薄々感づいていた。
「申し訳ございません猊下、事態は一刻を争います、速やかに避難を――」
「落ち着きたまえ司祭殿、枢機卿である私が何ゆえ護衛の一人も連れずに来たのか、分からないのかね?」
アルス自身、49番と呼ばれる実験体が制御不能となり、数々のモンスターを単独で屠るほど危険な力をもって暴れているのは理解できている。
しかしながら、‘その程度’の力では、全く動ずるに値はしない。
「し、しかし……」
大司祭はアルスの隣に佇むサリエルへ視線を向ける。
アルスがどういう意図を持っての発言か、すでに理解は出来ている。
「これは全て我々の不手際、サリエル卿のお手を煩わせるわけには――」
「いらぬ気を回すな、サリエル卿、この場を任せてよいかな?」
コクンと小さくサリエルは頷く。
「どうやら危険な相手らしい、生け捕りにする必要は無いだろう」
もう一度小さく頷いて、軽い足取りでサリエルは会議室を出て行く。中絶薬
「では行こうか、慌てる必要は無い、十分もすれば49番とやらの首を持ってサリエル卿は戻ってくるだろうからな」
2014年6月18日星期三
平穏の影
初火の月の13日、あの忌々しい使徒との遭遇から一週間が経過している。
私達は無事にスパーダへの入国を許され、現在は冒険者御用達の宿を借りて平穏な休日を送っている。
と言っても、ガラハド山脈を越えてスパーダ入りするまでには3日ほどかかっているし、到着したらしたで、ダイダロスの状況やアルザス防衛戦のことに関して報告したりなどで、それなりに慌しかった、何もせずにゆっくり休めるのは今日からだ。精力剤
報告の際には冒険者ギルドを通して行われ、特に問題なくスムーズに行われた。
軍に拘束され尋問という最悪の状況も予想していたものの、それは杞憂で済んでよかった、スパーダについて早々、加護全開で大暴れするのは出来るだけ避けたい。
ギルドといえば、そもそも私達の戦いは緊急クエストの受注という形で行われたものだ。
冒険者の生き残りは僅か四名、守るべき避難民にも全滅と呼べるほどの死者を出し、実質的にはクエスト失敗、大失敗である。
だが、向こうもそれなりに情状酌量してくれたのか、僅かばかりの褒賞金が支払われた。
別にお金のために戦ったわけではないけれど、クロノの苦労を思えばあまりに少なすぎる金額に、思わず妖精女王のお世話になるところだった。
兎にも角にも、こうして戦いの後始末は終わった。
得られるものは無かったが、私の望み通りクロノと無事にスパーダへ逃げることが出来たので、一安心。
しかしながら、あの錬金術師だけがちゃっかり生き残ってしまったのは予想外だった。
その他大勢に紛れて死んでいればいいものを、よりによってアイツが助かってしまうとは……全く、女の情念とは恐ろしいものだ、ランク4の腕前ともなれば、使徒を前にしても守り通すだけのパワーがあるのだから。
スース、彼女の思いは他でもない、私が一番良く分かっている為に、余計な事をしたと非難するつもりは無い、できない。
私も半分は妖精、純情可憐な恋心はとても好ましく思える、敬意を払っても良い。
だが、シモンが生き残って不愉快と思ってしまうのとは、話が別である。
あの軟弱を絵に書いたような男は、この私に初めて嫉妬を覚えさせたのだ、嫌いこそすれども好ましく思うはずが無い。
いや、この際私の瑣末な愚痴は置いておこう、さし当たって問題となっているのはそんな事ではないのだから。
最も重要な懸案事項、それはクロノの心情だ。
私にとって避難民がどれだけ犠牲になろうが、知ったことではない、その数なんて他人がプレイするボードゲームのスコアほどにも興味が無い。
共に戦った冒険者については、その活躍は評価するし、多少は好ましく思っていたが、それでも泣いて悲しむほどの事ではない、精々が優秀な駒を失って残念に思う程度のこと。
だが、心優しいクロノはそういうワケにはいかない、駒を失っただけと割り切ることなど出来ない。
イルズ村の一件で分かっていたが、クロノはとにかく誰かの犠牲を嫌う、それが例え自分の責任でなかったとしても、どうしようもなく嘆き、悲しみ、思い悩んでしまうのだ。
二度目の敗北、それもイルズ村の時とは比べ物にならないほどの被害を出した今回の戦いに、クロノは酷くショックを受けてしまっている。
このままでは拙い、今回ばかりはクロノの心も折れかかってしまっている、なんとか元気付けなければならない。
幸いにも、時間はある。
これからゆっくりと、クロノの傷ついた心を優しく慰めてあげればよいのだ、そう、他でもない、この私がね。
「……ふふふ」
「おやリリィさん、何か悪巧みですか?」
円形のテーブルを囲むように席へ付いているフィオナから声をかけられ、思考の海を泳いでいた意識を現実へと引き上げる。
「人聞きの悪い事、言わないでちょうだい」
「すみません、どう見ても悪い笑いだったので、つい」
歯に衣に着せるという事を知らない女だとつくづく思ってしまう。
だが、こんな事で一々苛立っていたらこの天然魔女と付き合ってはいけない、間の抜けた失礼な発言も、もう聞きなれたものだ。
「クロノさん、中々来ないですね」
素直にもう待ちきれませんと言えばいいのに、妙なところで律儀である。
すでに朝食が準備されたテーブルを前にお預けをくらうなんて、この食い意地の張った魔女にとっては拷問に等しいはず。
それでも文句を言わずに我慢するとは、不器用なりに努力しているということか。
「クロノは疲れているの、大人しく待っていなさい。
けれど、貴女はクロノと比べて随分と平気な顔をしているわね、血の通った人間なら、もう少し落ち込むものかと思ったのだけれど」
少しばかり意地の悪い質問。
フィオナは私と同じように、どうにもこの大きすぎる犠牲に対してショックを受けていないようである。
その事が、少しばかり気にかかる。
この女は、一体何をその胸のうちに秘めているのかしら?
「私の心など、リリィさんならテレパシーですぐ分かるのでは無いですか」
「それほど防御プロテクトをかけておいてよくもそんなことが言えるわね」
フィオナの本心、深層意識には、私の精神感応テレパシー能力では破れないほど堅い精神防壁マインド・プロテクトで守られている。媚薬
読み取れるのは表層意識のみ、隠すつもりの無い本心は表れるが、本気で悟られたくないと思っている秘密にまでは届かない。
「心に壁をつくるのは、魔女にとっては当たり前のことですから」
「だからこそこうして聞いているの、それで、どうなのよ?」
「どう、と言われましても……」
一見して変わらぬ無表情に見えるが、僅かばかり戸惑いの感情が心の表面に波立つのを感じた。
「……私も、ショックを受けていますよ、ただ、自分以上に落ち込んでいる人を目の前にすると、かえって冷静になってしまいます」
「なるほど、それは確かにそうかもね」
一般的な人の心理状態としては、納得のゆく回答である。
自分が怒ろうとした時、代わりに友人が激怒してくれたら、自分の怒りの矛先が収まってしまうのと似たような状況だ。
けれど、本当にそんな理由で納得できていたら、
「だから、今はクロノさんの方が、心配です」
そんな思い詰めた表情にはならないでしょう、フィオナ?
「そうね、私も心配しているの、早く元気付けてあげなくちゃね」
本心が読めない以上、これは予測の域を出ないが、フィオナは本当に今回の犠牲にショックを受けていないのだろう。
私と同じかといえば、そうではない、彼女は‘ショックを受けなかった’という事に対してショックを受けているのだ。
真っ当な人であるならば、クロノのように嘆き悲しむのが当然の反応、けれど、自分はそうならなかった、守るべき民が死んでも、共に戦った仲間が死んでも、それほど心は揺れなかった。
全く、中途半端にモラルを持っていると面倒なものね、どうして人は一番大切なモノを守る為に、その他全てを犠牲にすることを躊躇するのだろう。
彼らの感情、普通の感情というのは、理解は出来るが、私には永遠に納得できそうもないわね。
「あ、クロノさん来ましたよ」
少しだけ嬉しそうなフィオナの声、そんなに朝食が食べられるのが嬉しいのだろうか、いや、嬉しいのだろうなこの食いしん坊は。
「おはようございます、クロノさん」
「ああ、おはよう、悪いな、待っててくれたのか――」
フィオナと挨拶を交わして現れたクロノは、一見すると普段と変わらない様子。
ただ、あの戦いで失ったモノは、クロノの外見に大きな変化をもたらしてしまっている。
黒魔法使いとしてのトレードマークでもあった黒ローブ『悪魔の抱擁バフォメット・エンブレス』はその身に纏うことは無く、今は清潔な白いシャツと、ボロくなってしまった黒革のパンツ姿と、一般人とそう変わらぬラフな装い。
クロノの引き締まった鋼のような筋肉がついた逞しい肉体と、首から下げるアイアンプレートのギルドカードが無ければ、冒険者だとは分からないだろう。
だが一番目を惹くのは、クロノの左目を覆う眼帯。
第八使徒アイによる最後の攻撃で、クロノは左目を失ってしまった、今その眼窩にあるのは己の黒色魔力を固めた『肉体補填』の代用品、自前の義眼、勿論それに視力などは無い。
失った部位を復元する高度な治癒魔法は存在こそするものの、クロノは目を失ったことをそれほど気にしていないようで、今すぐどうにかしたいと思っているようではなさそうだった。
私としては、痛々しい包帯こそとれてはいるが、医療用の白い眼帯を装着したクロノの姿には、やはり傷ついた彼として認識してしまい、胸が張り裂けそうなほど悲しくなってしまう。
ごめんなさいクロノ、私が癒してあげられなくて、妖精の霊薬なんかじゃ、眼球を復元することはできない……悔いているのは、己の力不足だ。
「どうしたリリィ、もしかして体調でも悪いのか?」
「ううん、大丈夫だよ」
クロノの優しい気遣いの言葉に、私は穏やかな微笑を浮かべて返答する。
うん、私は大丈夫なの、大丈夫じゃないのは、クロノの方なんだよ。性欲剤
どうして、そんなに平気な顔でいられるの? 私はクロノの深い苦悩を知っている。
けれど、こうして日常生活を送っている間は、普段と変わらず、私を気遣い、微笑み、優しくしてくれる。
無理しなくてもいいのに、一日中部屋に、ベッドに篭って泣いて、喚いて、私に当たってもいいんだよ。
私がお世話してあげるから、面倒を見てあげるから。
だから、私を心配させない為に、平気なフリをするなんて止めて――でも、そんな無理を押してでも私のことを思ってくれるクロノの気持ちは、たまらなく心地よい、抗いがたい快楽となって、私の心を甘く苦しめる。
ダメなのに、元気付けるのは、慰めるのは私の役目なのに、クロノがそんな風だと、何もせずにただただ甘えていたくなってしまうのだ。
クロノの優しさに溺れるのはいけない、私は彼の役に立たなくちゃならない、だって私は、相棒パートナーなんだから、今は、まだ。
クロノ、リリィ、フィオナの冒険者パーティ『エレメントマスター』は、宿泊している『猫の尻尾亭』で、少し遅めの朝食をとっていた。
このスタッフ全員が猫獣人ワーキャットで構成されるユニークな宿は、宿泊施設としては中の下と低ランク冒険者向けであることに加え、入れ替わりの激しい外から流れてくる冒険者の利用が多く、クロノ達の身の丈にあった相応しい宿である。
豪華ではないが、量だけはある料理を食べながら、三人は特に決まっていない本日の予定を話し合う。
「今日はどうする? ギルドに行ってクエストでも見て来るか?」
表向きは平静を装っているクロノは、冒険者としてあるべき行動を考え、そんな提案をする。
「無理しなくてもいいんだよクロノ、もう少し休んでいても……」
幼い姿ながら、今は大人の意識を戻しているリリィは、クロノを気遣う発言。
「いや、大丈夫だ、それにお金もそこまで余裕があるわけじゃないしな」
緊急クエストの報奨金は、一人当たり10ゴールド、より正確に言うならスパーダの貨幣単位である10万クランが支払われた。
ダイダロスではシルバーとゴールドがそのまま単位だったが、スパーダを含むパンドラ大陸中部の都市国家群では『クラン』という通貨単位で流通している。
1クラン=1シルバーと分かりやすい、ちょっと頭の足りない冒険者でもすぐに理解できる通貨価値だ。
「30万クランあれば、生活するだけならしばらくやっていけるのではないですか?」
この宿は一泊3000クラン、単純計算で100日は滞在できる。
それなりに飲み食いその他に出費しても、少なくても一ヶ月以上は生活していけるだろうことは、クロノでもすぐ理解できた。
「そうね、貴女の食費が抑えられれば‘かなり長く’生活していける金額ね」
「私に死ねというのですかリリィさん」
フィオナの前にはクロノとリリィが消費した倍以上の皿がすでに重ねられている。
久しぶりにフィオナの本領発揮を見た気がしたのだった。
「生活費に全部使うわけにはいかないでしょう、私達は冒険者なんだし、そうね、色々と消費しちゃったから、今日は装備を整えるために買い物に行かない?」
料理を追加注文し、現在進行形で食費を圧迫しているフィオナを放っておいて、リリィはそんな提案をする。
「買い物か、確かに色々と……」
考えてみれば、クロノが一連の戦いで失ったモノはあまりに多すぎた。
愛用の黒ローブ『悪魔の抱擁バフォメット・エンブレス』に始まり、黒色魔力のみの扱いに長けた珍しいタクト『ブラックバリスタ・レプリカ』、魔剣ソードアーツ用の剣、各種ポーション、等等。
結局、手元に残っているのは、矢が貫通し穴が空いただけですんだ『呪怨鉈「腹裂」』とキプロスから鹵獲した『聖銀剣ミスリルソード』の二つのみ。
およそ戦いに必要な全ての装備は、綺麗サッパリ使いきって、もしくは壊れてしまったのだった。
「色々と、必要なモノが多いな、下手したら30万なんてすぐ飛んでしまう」
装備の破損が無い二人に対して、クロノは少々申し訳なく感じてしまう。
「別にいいわよ、30万くらいすぐに稼げるわ」
どうせ‘はした金’だ、とまではリリィは言わなかった。
「そうだな、頑張って稼がないとな」
クロノは、このまま何もしないでいることに、どこか焦りを覚えていた。
スパーダの軍事力に、国境線を守るガラハド山脈に構える難攻不落の要塞、十字軍が攻め込んできたとしても防衛できるほどの戦力があるという事は、数日前にスパーダ冒険者ギルドで事情説明した折に聞いた。女性用媚薬
しかし、ダイダロス軍の前例がある為、いくら大丈夫だと言われても不安は拭い去ることは出来ない。
だからと言って、一介の冒険者でしない自分に一体何ができるのか、その立場からやれることの限界も自ずと理解できてしまう。
ランク1と最低ランクな上に余所者の冒険者、そんな自分がスパーダ軍に対して注意を促すことなど不可能、戯言以上の対応がされないだろうことは明らか。
今回の緊急クエストの報告と、ダイダロス陥落の情報を得たスパーダの上層部が、十字軍に対する警戒を強めてくれることを祈る以外に出来ることは無い。
それが分かっているからこそ、クロノは何も言え無いし、リリィも十字軍の対策などすでに自分達の手を離れた事柄であると思い、忘れてしまったかのように話している。
しかしながら、クロノは十字軍の事を忘れることなど出来るはずも無いし、気にしないことも出来ない。
現実的に自分が出来ることと言えば、十字軍がスパーダへ攻め込んできた際に、冒険者として再び戦に参加することだけである。
それを思えば、十字軍との戦いに備えること、いや、より正確に言うならば、もう自分の無力を嘆かないよう‘強く’なっておくことが、自分の責務のようにクロノは思っていた。
「それじゃあ、今日は買い物に行こうか、早くこの街にも慣れておきたいし」
それでも、クロノは今すぐ悲哀も後悔も振り切って、己が強くなる為にアクティブな行動が出来るかと言えば、NOと言わざるを得ない。
人はそこまで単純なものではないのだから。
今はやはり、リリィが考える通り、クロノには休息が必要なのであった。
「うふふ、楽しみだな、私こんな大都会に来たのって初めてだから」
リリィは見た目相応の実に愛らしい笑顔をクロノに向ける。
「ああ、確かにスパーダは広い――」
「失礼します、お客様」
と、その時クロノの後ろから声がかけられる。
そこまで煩く騒いでいたわけではないのだが、と思いつつ振り替えると、そこに立っていたのはエプロン姿の小柄な猫獣人、格好といい発言といい、間違いなくこの宿の店員である。
「お客様、クロノ様、で間違いありませんね?」
「はい」
「お手紙が届いております、どうぞ」
ありがとうと礼を言いつつ、一体誰が自分に手紙などを寄越すのか、と疑問を感じながら書面を見ると、すぐに得心がいった。
「シモンからか」
シモンとはスパーダに到着してから、すぐに別行動となっている。
救助に現れた部隊の隊長である姉に連れられて、その後は忙しいのか会うことが出来ないでいた。
どうやって自分の居場所を特定したのか少々疑問に思うが、あの姉のようにスパーダのお偉いさんと関わりがあるなら、冒険者一人の消息くらい調べることは出来るのだろうと予想した。
「それで、シモンがどうしたの?」
「ん、ああ、えーっと……」
リリィに急かされる様に促され、クロノは書面に目を走らせる。
そこに書かれている内容を読み取ったクロノは、真剣な表情になって伝えた。中絶薬
「避難民の生き残りが、何処に居るのか分かった」
そう、とリリィは短く返事をすると同時に、今日の買い物が中止になったことを悟るのだった。
私達は無事にスパーダへの入国を許され、現在は冒険者御用達の宿を借りて平穏な休日を送っている。
と言っても、ガラハド山脈を越えてスパーダ入りするまでには3日ほどかかっているし、到着したらしたで、ダイダロスの状況やアルザス防衛戦のことに関して報告したりなどで、それなりに慌しかった、何もせずにゆっくり休めるのは今日からだ。精力剤
報告の際には冒険者ギルドを通して行われ、特に問題なくスムーズに行われた。
軍に拘束され尋問という最悪の状況も予想していたものの、それは杞憂で済んでよかった、スパーダについて早々、加護全開で大暴れするのは出来るだけ避けたい。
ギルドといえば、そもそも私達の戦いは緊急クエストの受注という形で行われたものだ。
冒険者の生き残りは僅か四名、守るべき避難民にも全滅と呼べるほどの死者を出し、実質的にはクエスト失敗、大失敗である。
だが、向こうもそれなりに情状酌量してくれたのか、僅かばかりの褒賞金が支払われた。
別にお金のために戦ったわけではないけれど、クロノの苦労を思えばあまりに少なすぎる金額に、思わず妖精女王のお世話になるところだった。
兎にも角にも、こうして戦いの後始末は終わった。
得られるものは無かったが、私の望み通りクロノと無事にスパーダへ逃げることが出来たので、一安心。
しかしながら、あの錬金術師だけがちゃっかり生き残ってしまったのは予想外だった。
その他大勢に紛れて死んでいればいいものを、よりによってアイツが助かってしまうとは……全く、女の情念とは恐ろしいものだ、ランク4の腕前ともなれば、使徒を前にしても守り通すだけのパワーがあるのだから。
スース、彼女の思いは他でもない、私が一番良く分かっている為に、余計な事をしたと非難するつもりは無い、できない。
私も半分は妖精、純情可憐な恋心はとても好ましく思える、敬意を払っても良い。
だが、シモンが生き残って不愉快と思ってしまうのとは、話が別である。
あの軟弱を絵に書いたような男は、この私に初めて嫉妬を覚えさせたのだ、嫌いこそすれども好ましく思うはずが無い。
いや、この際私の瑣末な愚痴は置いておこう、さし当たって問題となっているのはそんな事ではないのだから。
最も重要な懸案事項、それはクロノの心情だ。
私にとって避難民がどれだけ犠牲になろうが、知ったことではない、その数なんて他人がプレイするボードゲームのスコアほどにも興味が無い。
共に戦った冒険者については、その活躍は評価するし、多少は好ましく思っていたが、それでも泣いて悲しむほどの事ではない、精々が優秀な駒を失って残念に思う程度のこと。
だが、心優しいクロノはそういうワケにはいかない、駒を失っただけと割り切ることなど出来ない。
イルズ村の一件で分かっていたが、クロノはとにかく誰かの犠牲を嫌う、それが例え自分の責任でなかったとしても、どうしようもなく嘆き、悲しみ、思い悩んでしまうのだ。
二度目の敗北、それもイルズ村の時とは比べ物にならないほどの被害を出した今回の戦いに、クロノは酷くショックを受けてしまっている。
このままでは拙い、今回ばかりはクロノの心も折れかかってしまっている、なんとか元気付けなければならない。
幸いにも、時間はある。
これからゆっくりと、クロノの傷ついた心を優しく慰めてあげればよいのだ、そう、他でもない、この私がね。
「……ふふふ」
「おやリリィさん、何か悪巧みですか?」
円形のテーブルを囲むように席へ付いているフィオナから声をかけられ、思考の海を泳いでいた意識を現実へと引き上げる。
「人聞きの悪い事、言わないでちょうだい」
「すみません、どう見ても悪い笑いだったので、つい」
歯に衣に着せるという事を知らない女だとつくづく思ってしまう。
だが、こんな事で一々苛立っていたらこの天然魔女と付き合ってはいけない、間の抜けた失礼な発言も、もう聞きなれたものだ。
「クロノさん、中々来ないですね」
素直にもう待ちきれませんと言えばいいのに、妙なところで律儀である。
すでに朝食が準備されたテーブルを前にお預けをくらうなんて、この食い意地の張った魔女にとっては拷問に等しいはず。
それでも文句を言わずに我慢するとは、不器用なりに努力しているということか。
「クロノは疲れているの、大人しく待っていなさい。
けれど、貴女はクロノと比べて随分と平気な顔をしているわね、血の通った人間なら、もう少し落ち込むものかと思ったのだけれど」
少しばかり意地の悪い質問。
フィオナは私と同じように、どうにもこの大きすぎる犠牲に対してショックを受けていないようである。
その事が、少しばかり気にかかる。
この女は、一体何をその胸のうちに秘めているのかしら?
「私の心など、リリィさんならテレパシーですぐ分かるのでは無いですか」
「それほど防御プロテクトをかけておいてよくもそんなことが言えるわね」
フィオナの本心、深層意識には、私の精神感応テレパシー能力では破れないほど堅い精神防壁マインド・プロテクトで守られている。媚薬
読み取れるのは表層意識のみ、隠すつもりの無い本心は表れるが、本気で悟られたくないと思っている秘密にまでは届かない。
「心に壁をつくるのは、魔女にとっては当たり前のことですから」
「だからこそこうして聞いているの、それで、どうなのよ?」
「どう、と言われましても……」
一見して変わらぬ無表情に見えるが、僅かばかり戸惑いの感情が心の表面に波立つのを感じた。
「……私も、ショックを受けていますよ、ただ、自分以上に落ち込んでいる人を目の前にすると、かえって冷静になってしまいます」
「なるほど、それは確かにそうかもね」
一般的な人の心理状態としては、納得のゆく回答である。
自分が怒ろうとした時、代わりに友人が激怒してくれたら、自分の怒りの矛先が収まってしまうのと似たような状況だ。
けれど、本当にそんな理由で納得できていたら、
「だから、今はクロノさんの方が、心配です」
そんな思い詰めた表情にはならないでしょう、フィオナ?
「そうね、私も心配しているの、早く元気付けてあげなくちゃね」
本心が読めない以上、これは予測の域を出ないが、フィオナは本当に今回の犠牲にショックを受けていないのだろう。
私と同じかといえば、そうではない、彼女は‘ショックを受けなかった’という事に対してショックを受けているのだ。
真っ当な人であるならば、クロノのように嘆き悲しむのが当然の反応、けれど、自分はそうならなかった、守るべき民が死んでも、共に戦った仲間が死んでも、それほど心は揺れなかった。
全く、中途半端にモラルを持っていると面倒なものね、どうして人は一番大切なモノを守る為に、その他全てを犠牲にすることを躊躇するのだろう。
彼らの感情、普通の感情というのは、理解は出来るが、私には永遠に納得できそうもないわね。
「あ、クロノさん来ましたよ」
少しだけ嬉しそうなフィオナの声、そんなに朝食が食べられるのが嬉しいのだろうか、いや、嬉しいのだろうなこの食いしん坊は。
「おはようございます、クロノさん」
「ああ、おはよう、悪いな、待っててくれたのか――」
フィオナと挨拶を交わして現れたクロノは、一見すると普段と変わらない様子。
ただ、あの戦いで失ったモノは、クロノの外見に大きな変化をもたらしてしまっている。
黒魔法使いとしてのトレードマークでもあった黒ローブ『悪魔の抱擁バフォメット・エンブレス』はその身に纏うことは無く、今は清潔な白いシャツと、ボロくなってしまった黒革のパンツ姿と、一般人とそう変わらぬラフな装い。
クロノの引き締まった鋼のような筋肉がついた逞しい肉体と、首から下げるアイアンプレートのギルドカードが無ければ、冒険者だとは分からないだろう。
だが一番目を惹くのは、クロノの左目を覆う眼帯。
第八使徒アイによる最後の攻撃で、クロノは左目を失ってしまった、今その眼窩にあるのは己の黒色魔力を固めた『肉体補填』の代用品、自前の義眼、勿論それに視力などは無い。
失った部位を復元する高度な治癒魔法は存在こそするものの、クロノは目を失ったことをそれほど気にしていないようで、今すぐどうにかしたいと思っているようではなさそうだった。
私としては、痛々しい包帯こそとれてはいるが、医療用の白い眼帯を装着したクロノの姿には、やはり傷ついた彼として認識してしまい、胸が張り裂けそうなほど悲しくなってしまう。
ごめんなさいクロノ、私が癒してあげられなくて、妖精の霊薬なんかじゃ、眼球を復元することはできない……悔いているのは、己の力不足だ。
「どうしたリリィ、もしかして体調でも悪いのか?」
「ううん、大丈夫だよ」
クロノの優しい気遣いの言葉に、私は穏やかな微笑を浮かべて返答する。
うん、私は大丈夫なの、大丈夫じゃないのは、クロノの方なんだよ。性欲剤
どうして、そんなに平気な顔でいられるの? 私はクロノの深い苦悩を知っている。
けれど、こうして日常生活を送っている間は、普段と変わらず、私を気遣い、微笑み、優しくしてくれる。
無理しなくてもいいのに、一日中部屋に、ベッドに篭って泣いて、喚いて、私に当たってもいいんだよ。
私がお世話してあげるから、面倒を見てあげるから。
だから、私を心配させない為に、平気なフリをするなんて止めて――でも、そんな無理を押してでも私のことを思ってくれるクロノの気持ちは、たまらなく心地よい、抗いがたい快楽となって、私の心を甘く苦しめる。
ダメなのに、元気付けるのは、慰めるのは私の役目なのに、クロノがそんな風だと、何もせずにただただ甘えていたくなってしまうのだ。
クロノの優しさに溺れるのはいけない、私は彼の役に立たなくちゃならない、だって私は、相棒パートナーなんだから、今は、まだ。
クロノ、リリィ、フィオナの冒険者パーティ『エレメントマスター』は、宿泊している『猫の尻尾亭』で、少し遅めの朝食をとっていた。
このスタッフ全員が猫獣人ワーキャットで構成されるユニークな宿は、宿泊施設としては中の下と低ランク冒険者向けであることに加え、入れ替わりの激しい外から流れてくる冒険者の利用が多く、クロノ達の身の丈にあった相応しい宿である。
豪華ではないが、量だけはある料理を食べながら、三人は特に決まっていない本日の予定を話し合う。
「今日はどうする? ギルドに行ってクエストでも見て来るか?」
表向きは平静を装っているクロノは、冒険者としてあるべき行動を考え、そんな提案をする。
「無理しなくてもいいんだよクロノ、もう少し休んでいても……」
幼い姿ながら、今は大人の意識を戻しているリリィは、クロノを気遣う発言。
「いや、大丈夫だ、それにお金もそこまで余裕があるわけじゃないしな」
緊急クエストの報奨金は、一人当たり10ゴールド、より正確に言うならスパーダの貨幣単位である10万クランが支払われた。
ダイダロスではシルバーとゴールドがそのまま単位だったが、スパーダを含むパンドラ大陸中部の都市国家群では『クラン』という通貨単位で流通している。
1クラン=1シルバーと分かりやすい、ちょっと頭の足りない冒険者でもすぐに理解できる通貨価値だ。
「30万クランあれば、生活するだけならしばらくやっていけるのではないですか?」
この宿は一泊3000クラン、単純計算で100日は滞在できる。
それなりに飲み食いその他に出費しても、少なくても一ヶ月以上は生活していけるだろうことは、クロノでもすぐ理解できた。
「そうね、貴女の食費が抑えられれば‘かなり長く’生活していける金額ね」
「私に死ねというのですかリリィさん」
フィオナの前にはクロノとリリィが消費した倍以上の皿がすでに重ねられている。
久しぶりにフィオナの本領発揮を見た気がしたのだった。
「生活費に全部使うわけにはいかないでしょう、私達は冒険者なんだし、そうね、色々と消費しちゃったから、今日は装備を整えるために買い物に行かない?」
料理を追加注文し、現在進行形で食費を圧迫しているフィオナを放っておいて、リリィはそんな提案をする。
「買い物か、確かに色々と……」
考えてみれば、クロノが一連の戦いで失ったモノはあまりに多すぎた。
愛用の黒ローブ『悪魔の抱擁バフォメット・エンブレス』に始まり、黒色魔力のみの扱いに長けた珍しいタクト『ブラックバリスタ・レプリカ』、魔剣ソードアーツ用の剣、各種ポーション、等等。
結局、手元に残っているのは、矢が貫通し穴が空いただけですんだ『呪怨鉈「腹裂」』とキプロスから鹵獲した『聖銀剣ミスリルソード』の二つのみ。
およそ戦いに必要な全ての装備は、綺麗サッパリ使いきって、もしくは壊れてしまったのだった。
「色々と、必要なモノが多いな、下手したら30万なんてすぐ飛んでしまう」
装備の破損が無い二人に対して、クロノは少々申し訳なく感じてしまう。
「別にいいわよ、30万くらいすぐに稼げるわ」
どうせ‘はした金’だ、とまではリリィは言わなかった。
「そうだな、頑張って稼がないとな」
クロノは、このまま何もしないでいることに、どこか焦りを覚えていた。
スパーダの軍事力に、国境線を守るガラハド山脈に構える難攻不落の要塞、十字軍が攻め込んできたとしても防衛できるほどの戦力があるという事は、数日前にスパーダ冒険者ギルドで事情説明した折に聞いた。女性用媚薬
しかし、ダイダロス軍の前例がある為、いくら大丈夫だと言われても不安は拭い去ることは出来ない。
だからと言って、一介の冒険者でしない自分に一体何ができるのか、その立場からやれることの限界も自ずと理解できてしまう。
ランク1と最低ランクな上に余所者の冒険者、そんな自分がスパーダ軍に対して注意を促すことなど不可能、戯言以上の対応がされないだろうことは明らか。
今回の緊急クエストの報告と、ダイダロス陥落の情報を得たスパーダの上層部が、十字軍に対する警戒を強めてくれることを祈る以外に出来ることは無い。
それが分かっているからこそ、クロノは何も言え無いし、リリィも十字軍の対策などすでに自分達の手を離れた事柄であると思い、忘れてしまったかのように話している。
しかしながら、クロノは十字軍の事を忘れることなど出来るはずも無いし、気にしないことも出来ない。
現実的に自分が出来ることと言えば、十字軍がスパーダへ攻め込んできた際に、冒険者として再び戦に参加することだけである。
それを思えば、十字軍との戦いに備えること、いや、より正確に言うならば、もう自分の無力を嘆かないよう‘強く’なっておくことが、自分の責務のようにクロノは思っていた。
「それじゃあ、今日は買い物に行こうか、早くこの街にも慣れておきたいし」
それでも、クロノは今すぐ悲哀も後悔も振り切って、己が強くなる為にアクティブな行動が出来るかと言えば、NOと言わざるを得ない。
人はそこまで単純なものではないのだから。
今はやはり、リリィが考える通り、クロノには休息が必要なのであった。
「うふふ、楽しみだな、私こんな大都会に来たのって初めてだから」
リリィは見た目相応の実に愛らしい笑顔をクロノに向ける。
「ああ、確かにスパーダは広い――」
「失礼します、お客様」
と、その時クロノの後ろから声がかけられる。
そこまで煩く騒いでいたわけではないのだが、と思いつつ振り替えると、そこに立っていたのはエプロン姿の小柄な猫獣人、格好といい発言といい、間違いなくこの宿の店員である。
「お客様、クロノ様、で間違いありませんね?」
「はい」
「お手紙が届いております、どうぞ」
ありがとうと礼を言いつつ、一体誰が自分に手紙などを寄越すのか、と疑問を感じながら書面を見ると、すぐに得心がいった。
「シモンからか」
シモンとはスパーダに到着してから、すぐに別行動となっている。
救助に現れた部隊の隊長である姉に連れられて、その後は忙しいのか会うことが出来ないでいた。
どうやって自分の居場所を特定したのか少々疑問に思うが、あの姉のようにスパーダのお偉いさんと関わりがあるなら、冒険者一人の消息くらい調べることは出来るのだろうと予想した。
「それで、シモンがどうしたの?」
「ん、ああ、えーっと……」
リリィに急かされる様に促され、クロノは書面に目を走らせる。
そこに書かれている内容を読み取ったクロノは、真剣な表情になって伝えた。中絶薬
「避難民の生き残りが、何処に居るのか分かった」
そう、とリリィは短く返事をすると同時に、今日の買い物が中止になったことを悟るのだった。
2014年6月17日星期二
黒のランチタイム
果たして『腕力強化フォルス・ブースト』は発動した。
したのだが、
「まさか、効果時間が二秒で切れるとは……」
俺の腕力がラースプンもかくや、というほど爆発的に増大したのは、たったそれだけの時間。三体牛鞭
あれほど集中し、魔力をつぎ込んで発動させた魔法が、僅か二秒間の効果しかもたらさないというのは、あまりに費用対効果が悪い。
そういえば、フィオナも強化系の魔法は発動こそ出来ているが、魔力制御が苦手な所為で通常の倍くらい消費していると聞いた事がある。
攻撃魔法と違って、魔力さえあれば強化ブースト効果に反映されるということはなく、本当にただのロスとなってしまう。
だからこそフィオナは攻撃魔法特化が本来のスタイルで、それでも得意じゃない強化魔法を使うのはパーティ内に使い手がいないからだ。
今更ながらフィオナの苦労が忍ばれる。ごめん、帰ったら俺、きっと寿司と天ぷらをご馳走するよ……
ともかく、今の俺もそれと同じで、しかも最低限実戦に耐えうるレベルにも無いということだ。
「はぁ、まだまだ改良は必要ってことか」
けど、これで一つ目の壁は越えたわけだ。
きっと他の冒険者もこうやって、加護の力をより強いレベルで使えるようになっていく
のだろう。
だから、ここは一歩前進できたことを、素直に喜ぼう。
「ありがとうございます。ネルさんのお陰で発動のコツ、掴めましたよ」
「いえ、お役に立てたようで、なによりです」
と、正しく天使の微笑みを見せてくれるネルさんの額には、玉の様な汗が浮かんでいる。
テレパシーで通じながら、間接的に『腕力強化フォルス・ブースト』を発動させたのは彼女だ。恐らく、暴発気味だった魔力の余波に巻き込まれて消耗してしまったのだろう。
「すみません、体は大丈夫ですか?」
「ちょっと疲れましたけど、全然大丈夫ですよ!」
朗らかに応えるネルさんの笑顔に、どこまでも癒される気分になれる。
この癒されレベルは幼女リリィの笑顔に匹敵するぜ、恐るべしアヴァロンのお姫様。
そんな風に内心で和んでいると、
キュウゥー
と、可愛い小動物が鳴くような甲高い音が響いた。
発信源は、目の前で笑顔を浮かべるネルさん、その腹部。
「あっ、す、すみませんっ!」
次の瞬間、彼女の頬にはさっと朱が差して、この空腹を訴える生理現象を恥らった。
「いや、その――もうお昼時ですから、おなかが空くのは当たり前ですよ」
あはは、なんて適当な返事をしつつ、赤面するお姫様の可愛らしさに僅かばかり鼓動が高鳴る。
なんというか、恥らう女の子って破壊力抜群だな。ちょっと腹の虫が鳴いただけでこれだけのリアクションとは。
豪快に腹を鳴らして、
「お腹が空きましたねクロノさん」
と、何故か誇らしげに言い放つどこぞの魔女にも見習って欲しいところである。
さて、そんなことよりも、自分で言ったようにそろそろランチタイムを迎えるだろうし、腹の音について突っ込みすぎるとネルさんが泣き出してしまう可能性もあるので、ここは何事も無かったかのように、昼食の話題を続けるべきである。
「それじゃあ、俺は昼食の準備をしますけど、ネルさんはどうします?」
「あっ、そ、そうですね、私、いつも昼食は学食を利用しているんですけど――」
なるほど、学食で再会したのは偶然ではなく必然だったという事か。
てっきり、例に倣って今日も学食で、と言うのかと思ったが、
「私、今日はお料理します!」
「あ、そうですか。頑張ってください」
「あの、そうじゃなくて、クロノさんのお昼ご飯を、私が作ります!」
それは一体どういう論理の飛躍だろうか。
この流れからいって、一緒に昼食をとることになるかもしれないとは予想できたが、まさかネルさんが手料理を振舞うなんて言い出すとは。
「いや、そんな、いいですよ。そこまでしてもらうのは何だか悪いですし――」
「あっ、すみません……迷惑だったでしょうか?」男宝
うわ、そこであからさまに悲しげな表情をするのは反則だろう。シュン、っていう擬音語エフェクトが目に見えるほどだ。
この顔をされて断れる男はそうそういないだろう、というか、ネルさんの申し出は冗談でも社交辞令でもなく、心からのものであると捉えても良いだろう。
「迷惑だなんてとんでもないです、是非ネルさんの手料理は食べてみたいですよ」
「まぁ、本当ですか! それじゃあ、私、頑張って作りますね!!」
そうして、ネルさんはもう何度目かになる頼みごとを引き受けてヤル気をみなぎらせる表情を見せた。
しかし、思わぬところで女の子の手料理が食べられる機会が廻ってくるなんて、なんだか今日はツイてるな。
と、浮かれていた時も、今は昔の話。
「はいクロノさん、遠慮せずにお召し上がり下さい!」
ニコニコ笑顔でネルさんに差し出されたのは、異臭を放つ真っ黒い不気味な‘何か’を挟んだサンドイッチ。
俺の強化された視覚と嗅覚と第六感がバリバリに警戒感を発している。今、目の前に出されているのは危険物であると。
本能がコレの威力を最も鋭敏に感じ取れる味覚に触れないよう、全力で拒絶の意思を発するが、
「さぁ、どうぞ!」
理性でねじ伏せる。
直感的にヤバいと分かっても、流石に一口も食べずにいるのは礼に失するというものだろう。相手が自分の為に腕を振るってくれたならば、尚更である。
しかし、どういう意思を篭めて腕を振るえば、あのマトモな食材達がかくも怪しい物体へ変質すると言うのだろうか。俺が黒化をかけたとしても、もうちょっとマシな見た目になってくれるはずだ。
だってコレ、どうみても炭化してる。フィオナの炎にやられたモンスターの死骸と全く同じ質感である。
それに一体ナニを加えたというのだろうか、甘いような酸っぱいような腐っているような、えもいわれぬ刺激臭が漂ってくる。
そんなモノを、ここだけは手の加えようが無かったといわんばかりに、買い置きしていたごく普通の白パンでサンドしているのだ。
バンズの部分だけはマトモなので、嫌でもコレが一つの料理であることを認識させられる。
ネルさんが料理と生ゴミを取り違えたという可能性は、万に一つもありえない。
サンドイッチ、この誰でも簡単お手軽に作れる料理ともいえない料理を、彼女はどうやってか死を覚悟させるほどの危険物に仕上げてしまったのだ。
「あの、食べないんですか?」
大人しくラウンジの食卓についている俺が、もう目の前に手料理を出されているにも関わらず一向に手をつけないのを心底疑問に思っているような口調で、プレッシャーをかけられる。
彼女のブルーの瞳はどこまでも澄んでいて、そこには一点の曇りも無い。
どうやら俺を嵌めようとしているワケでも、一般庶民には理解できないロイヤルジョークであるというワケでもなさそうだ。
ネルさんはただ純粋に、俺へ手料理を振舞ってくれた、ただ、それだけのことなのである。
「あ、あの、クロノさん?」
限界だった。
俺がこうして暗黒物質ダークマターが挟まったサンドイッチと冷や汗を流しながらにらめっこしている時間も、もう終わりにしなければならない。
「ネルさん、いただきます」
覚悟を決める、恐らく、切腹に望む武士もこんな気持ちだったに違い無い。
俺は腹部を捌く刃の代わりに、内側から胃袋を破壊してくれるだろう暗黒サンドイッチを手に取る。
ええい、ままよっ! 俺は大口をあけてモノにかぶりつく――
「――クロノさん?」
「はっ、夢か……」
やべぇ、今ちょっと意識飛んでたよ。
いやぁ、それにしても恐ろしい夢を見たもんだ、あの天使のようなネルさんが毒殺する気としか思えない劇物を食卓に乗せるなんて、そんなことするはずがないだろう。
「サンドイッチを食べたら急にボーっとして、どうしたんですか?」男根増長素
ああ、それはきっとネルさんが作ってくれたサンドイッチがあまりに美味しかったから意識が飛んじゃったに違いない。
そう、このアヴァロンのお姫様お手製の暗黒物質ダークマターサンドを。
「あ、あれ……」
いや待て、そんな馬鹿な、暗黒物質ダークマターサンドってなんだよ。これじゃあまるで、ついさっきまで見ていた夢が事実だったみたいじゃないか――と突っ込みたいのはやまやまだが、現物を目にすれば、否応なく事実は受け入れなければならないのだろう。
そう、つまり、俺の前には異臭を放つ黒い物体を挟み込んだサンドイッチが魔王の如き威圧感を持って皿の上にどっかりと鎮座しているのだ。
しかも、一体どこの勇者が一太刀浴びせたと言うのだろうか、一口だけ齧った跡がある。
そうか、俺、勇者だったのか。
「ふふ、もしかして、気絶しちゃうくらい美味しかったですか?」
彼女の可愛らしい物言いは、半分以上俺の頭に入ってこなかった。
これで本当に美味しかったら、いや、せめて可もなく不可もない無難な味であったなら、この見解に肯定意見を示すのもやぶさかでは無い。
だが、今この状況においてそんな事を言われても、流石に、
「さぁクロノさん、おかわりも沢山ありますから、いっぱい食べてくださいね」
いや、それ無理、マジで無理、絶対無理、死ぬ、これ完全に詰んだ。
「……ネルさん、ちょっと真面目な相談があるんですが、聞いてくれませんか」
俺は死刑宣告よりも残酷な真実を耳にした所為で、安易な現実逃避はやめて生き残るために全力を尽くすことに決めた。
そう、どんな卑劣な手段を用いても、俺は生きる、生き残ってやる。
「え、はい、なんでしょうか?」
俺は覚悟を決める、この天使のように優しく美しいお姫様を泣かせてしまうかもしれないことを。
「このサンドイッチ不味いです」
「ごめんなさい」
誠心誠意、謝罪の言葉を述べるのは、俺では無くネルさんである。
いや、俺としても一言謝るべきであろう。
魔法の練習に付き合ってもらった上に、料理までご馳走になったのだ。ここまで相手の善意を受けておきながら謝らせるとはどんな鬼畜の所業であろうか。
だが、モノには限度というものがある。俺は良心の呵責に苛みながらも、あえて悪鬼羅刹と化す修羅の道を行くことに決めたのだ。
つまり、料理が不味いと素直に申告した。
まぁ、そこから一悶着あったのだが、ネルさんが実際に暗黒サンドイッチを食したとこで、俺の訴えの正当性は認められることと相成った。
「本当にごめんなさい……私、こんなに料理が下手だったなんて……」
ネルさんの言い訳は少々不思議なニュアンスに感じるが、
「まぁ、誰も指摘してくれなかったんじゃしょうがないんじゃないですか」
どうやら、不敬にもアヴァロンのお姫様の手料理が不味いでござると諫言を述べたのは、俺が史上初であるらしい。
この衝撃的な事実を涙ながらに受け止めてくれたネルさんの態度を見れば、今すぐ極刑に処される事はなさそうで、一安心だ。
「いつもみんなが残さず食べてくれるから、とても美味しくできていると勘違いしちゃっていたんですね……うふふ、馬鹿みたいですね、私」
白皙の美貌を悲嘆にくれさせるネルさん、この表情を見れば世の男共はどんな手を尽くしてでも笑顔にさせてあげたいと思えるほどの儚さ。V26Ⅳ美白美肌速効
だが、俺としてはこれまで彼女の料理を不味いと思わせないよう完食してきた英雄たちにこそ、敬意を表したい。
特に、このスパーダにおいてネルさんが手料理を振舞うというバイオテロを未然に防いでくれたのは、兄貴のネロをはじめとした『ウイングロード』のメンバーであるらしい。
今の俺は心から彼らが名実共にランク5の冒険者パーティだと認められるね、素直に尊敬できる。
だが、彼らの涙ぐましい努力も今、俺の手によって水泡に帰してしまった。
この残酷な現実をネルさんに知られまいとする彼らの心遣いは分かる。だがしかし、いずれ彼女も真実を知る日が来たことだろう。
そう思えば、他の誰でも無く、ただの冒険者である俺がリスクを省みず指摘することが出来たのは、かえって僥倖だったかもしれない。
ネルさんがどうであれ、アヴァロン国民だったら不敬罪に処されるかもしれないのだから。
しかし、自分の行いを正当化することに没頭するのもそろそろ限界である、なぜならば、
「こんな汚物を喜んでみんなに食べさせていたなんて……人として終わってますね……ふふ、終了……」
ネルさんがショックのあまり、ヤバい方向に自己嫌悪が全力疾走してしまっている。
このまま放っておくとリストカットくらいならしちゃうんじゃないかなという雰囲気だ。
心なしか、その青空のように澄んでいる瞳も暗雲が立ち込めているかのようにどこか曇って見える。
そんな今の彼女を一人にしてはまずい。ここは責任をとって、俺が何とか上手いフォローをしなければ。
だが、何と言うべきか。
食べられないほど酷くはないですよ? いや無理だ、コレはもう完全無欠に食物の概念を逸脱した物体になってしまっている。
じゃあクロノさん食べてくださいよ、と返されれば、俺は全力でNOと言わざるを得ない。
ちくしょう、どう頑張ってもこのサンドイッチのフォローは不可能だ……いや、待てよ、そうか、これはもう完全にスルーしてしまえば良いのだ。
「ネルさん、人は誰でも最初から料理が上手なわけじゃありません」
まぁ、料理未経験者の全てがこんな毒物を練成できるかどうかと言われれば、否であるが。
「今は料理が下手でも、これから上手くなっていけばいいじゃないですか!」
ようするに、今の惨状は忘れて、明るい未来を見よう! というテーマだ。
「でも私、小さい頃からお料理は嗜んできたつもりだったんですけど、こんなに酷いんじゃ、もう頑張ってもダメですよ……」
「ダメじゃないですよ、今まではちょっとやり方が間違っていただけで、また一から学びなおせばいいじゃないですか!」
「け、けどぉ――」
「出来る、出来る、絶対出来る! 頑張れもっとやれるって! 頑張れば絶対料理上手くなる! みんなに美味しい料理食べさせてあげよう!!」
畳み掛けるようにポジティブな言葉攻めをフルバーストする。
ここで退いたら後は無い、頑張れ俺、やればできるって!
「そ、そうですよね……私、今度こそお料理が上手に作れるよう頑張りますっ!」
よし、俺の熱い思いに応え、ネルさんは見事に持ち直してくれたぞ。曇っていた瞳も今や見違えんばかりに希望の光に満ちているような気がする。
「ところでネルさん、今までは誰から料理を習っていたんですか?」
「え? 我流ですけど?」
なるほど、それが諸悪の根源だったか……V26Ⅲ速效ダイエット
したのだが、
「まさか、効果時間が二秒で切れるとは……」
俺の腕力がラースプンもかくや、というほど爆発的に増大したのは、たったそれだけの時間。三体牛鞭
あれほど集中し、魔力をつぎ込んで発動させた魔法が、僅か二秒間の効果しかもたらさないというのは、あまりに費用対効果が悪い。
そういえば、フィオナも強化系の魔法は発動こそ出来ているが、魔力制御が苦手な所為で通常の倍くらい消費していると聞いた事がある。
攻撃魔法と違って、魔力さえあれば強化ブースト効果に反映されるということはなく、本当にただのロスとなってしまう。
だからこそフィオナは攻撃魔法特化が本来のスタイルで、それでも得意じゃない強化魔法を使うのはパーティ内に使い手がいないからだ。
今更ながらフィオナの苦労が忍ばれる。ごめん、帰ったら俺、きっと寿司と天ぷらをご馳走するよ……
ともかく、今の俺もそれと同じで、しかも最低限実戦に耐えうるレベルにも無いということだ。
「はぁ、まだまだ改良は必要ってことか」
けど、これで一つ目の壁は越えたわけだ。
きっと他の冒険者もこうやって、加護の力をより強いレベルで使えるようになっていく
のだろう。
だから、ここは一歩前進できたことを、素直に喜ぼう。
「ありがとうございます。ネルさんのお陰で発動のコツ、掴めましたよ」
「いえ、お役に立てたようで、なによりです」
と、正しく天使の微笑みを見せてくれるネルさんの額には、玉の様な汗が浮かんでいる。
テレパシーで通じながら、間接的に『腕力強化フォルス・ブースト』を発動させたのは彼女だ。恐らく、暴発気味だった魔力の余波に巻き込まれて消耗してしまったのだろう。
「すみません、体は大丈夫ですか?」
「ちょっと疲れましたけど、全然大丈夫ですよ!」
朗らかに応えるネルさんの笑顔に、どこまでも癒される気分になれる。
この癒されレベルは幼女リリィの笑顔に匹敵するぜ、恐るべしアヴァロンのお姫様。
そんな風に内心で和んでいると、
キュウゥー
と、可愛い小動物が鳴くような甲高い音が響いた。
発信源は、目の前で笑顔を浮かべるネルさん、その腹部。
「あっ、す、すみませんっ!」
次の瞬間、彼女の頬にはさっと朱が差して、この空腹を訴える生理現象を恥らった。
「いや、その――もうお昼時ですから、おなかが空くのは当たり前ですよ」
あはは、なんて適当な返事をしつつ、赤面するお姫様の可愛らしさに僅かばかり鼓動が高鳴る。
なんというか、恥らう女の子って破壊力抜群だな。ちょっと腹の虫が鳴いただけでこれだけのリアクションとは。
豪快に腹を鳴らして、
「お腹が空きましたねクロノさん」
と、何故か誇らしげに言い放つどこぞの魔女にも見習って欲しいところである。
さて、そんなことよりも、自分で言ったようにそろそろランチタイムを迎えるだろうし、腹の音について突っ込みすぎるとネルさんが泣き出してしまう可能性もあるので、ここは何事も無かったかのように、昼食の話題を続けるべきである。
「それじゃあ、俺は昼食の準備をしますけど、ネルさんはどうします?」
「あっ、そ、そうですね、私、いつも昼食は学食を利用しているんですけど――」
なるほど、学食で再会したのは偶然ではなく必然だったという事か。
てっきり、例に倣って今日も学食で、と言うのかと思ったが、
「私、今日はお料理します!」
「あ、そうですか。頑張ってください」
「あの、そうじゃなくて、クロノさんのお昼ご飯を、私が作ります!」
それは一体どういう論理の飛躍だろうか。
この流れからいって、一緒に昼食をとることになるかもしれないとは予想できたが、まさかネルさんが手料理を振舞うなんて言い出すとは。
「いや、そんな、いいですよ。そこまでしてもらうのは何だか悪いですし――」
「あっ、すみません……迷惑だったでしょうか?」男宝
うわ、そこであからさまに悲しげな表情をするのは反則だろう。シュン、っていう擬音語エフェクトが目に見えるほどだ。
この顔をされて断れる男はそうそういないだろう、というか、ネルさんの申し出は冗談でも社交辞令でもなく、心からのものであると捉えても良いだろう。
「迷惑だなんてとんでもないです、是非ネルさんの手料理は食べてみたいですよ」
「まぁ、本当ですか! それじゃあ、私、頑張って作りますね!!」
そうして、ネルさんはもう何度目かになる頼みごとを引き受けてヤル気をみなぎらせる表情を見せた。
しかし、思わぬところで女の子の手料理が食べられる機会が廻ってくるなんて、なんだか今日はツイてるな。
と、浮かれていた時も、今は昔の話。
「はいクロノさん、遠慮せずにお召し上がり下さい!」
ニコニコ笑顔でネルさんに差し出されたのは、異臭を放つ真っ黒い不気味な‘何か’を挟んだサンドイッチ。
俺の強化された視覚と嗅覚と第六感がバリバリに警戒感を発している。今、目の前に出されているのは危険物であると。
本能がコレの威力を最も鋭敏に感じ取れる味覚に触れないよう、全力で拒絶の意思を発するが、
「さぁ、どうぞ!」
理性でねじ伏せる。
直感的にヤバいと分かっても、流石に一口も食べずにいるのは礼に失するというものだろう。相手が自分の為に腕を振るってくれたならば、尚更である。
しかし、どういう意思を篭めて腕を振るえば、あのマトモな食材達がかくも怪しい物体へ変質すると言うのだろうか。俺が黒化をかけたとしても、もうちょっとマシな見た目になってくれるはずだ。
だってコレ、どうみても炭化してる。フィオナの炎にやられたモンスターの死骸と全く同じ質感である。
それに一体ナニを加えたというのだろうか、甘いような酸っぱいような腐っているような、えもいわれぬ刺激臭が漂ってくる。
そんなモノを、ここだけは手の加えようが無かったといわんばかりに、買い置きしていたごく普通の白パンでサンドしているのだ。
バンズの部分だけはマトモなので、嫌でもコレが一つの料理であることを認識させられる。
ネルさんが料理と生ゴミを取り違えたという可能性は、万に一つもありえない。
サンドイッチ、この誰でも簡単お手軽に作れる料理ともいえない料理を、彼女はどうやってか死を覚悟させるほどの危険物に仕上げてしまったのだ。
「あの、食べないんですか?」
大人しくラウンジの食卓についている俺が、もう目の前に手料理を出されているにも関わらず一向に手をつけないのを心底疑問に思っているような口調で、プレッシャーをかけられる。
彼女のブルーの瞳はどこまでも澄んでいて、そこには一点の曇りも無い。
どうやら俺を嵌めようとしているワケでも、一般庶民には理解できないロイヤルジョークであるというワケでもなさそうだ。
ネルさんはただ純粋に、俺へ手料理を振舞ってくれた、ただ、それだけのことなのである。
「あ、あの、クロノさん?」
限界だった。
俺がこうして暗黒物質ダークマターが挟まったサンドイッチと冷や汗を流しながらにらめっこしている時間も、もう終わりにしなければならない。
「ネルさん、いただきます」
覚悟を決める、恐らく、切腹に望む武士もこんな気持ちだったに違い無い。
俺は腹部を捌く刃の代わりに、内側から胃袋を破壊してくれるだろう暗黒サンドイッチを手に取る。
ええい、ままよっ! 俺は大口をあけてモノにかぶりつく――
「――クロノさん?」
「はっ、夢か……」
やべぇ、今ちょっと意識飛んでたよ。
いやぁ、それにしても恐ろしい夢を見たもんだ、あの天使のようなネルさんが毒殺する気としか思えない劇物を食卓に乗せるなんて、そんなことするはずがないだろう。
「サンドイッチを食べたら急にボーっとして、どうしたんですか?」男根増長素
ああ、それはきっとネルさんが作ってくれたサンドイッチがあまりに美味しかったから意識が飛んじゃったに違いない。
そう、このアヴァロンのお姫様お手製の暗黒物質ダークマターサンドを。
「あ、あれ……」
いや待て、そんな馬鹿な、暗黒物質ダークマターサンドってなんだよ。これじゃあまるで、ついさっきまで見ていた夢が事実だったみたいじゃないか――と突っ込みたいのはやまやまだが、現物を目にすれば、否応なく事実は受け入れなければならないのだろう。
そう、つまり、俺の前には異臭を放つ黒い物体を挟み込んだサンドイッチが魔王の如き威圧感を持って皿の上にどっかりと鎮座しているのだ。
しかも、一体どこの勇者が一太刀浴びせたと言うのだろうか、一口だけ齧った跡がある。
そうか、俺、勇者だったのか。
「ふふ、もしかして、気絶しちゃうくらい美味しかったですか?」
彼女の可愛らしい物言いは、半分以上俺の頭に入ってこなかった。
これで本当に美味しかったら、いや、せめて可もなく不可もない無難な味であったなら、この見解に肯定意見を示すのもやぶさかでは無い。
だが、今この状況においてそんな事を言われても、流石に、
「さぁクロノさん、おかわりも沢山ありますから、いっぱい食べてくださいね」
いや、それ無理、マジで無理、絶対無理、死ぬ、これ完全に詰んだ。
「……ネルさん、ちょっと真面目な相談があるんですが、聞いてくれませんか」
俺は死刑宣告よりも残酷な真実を耳にした所為で、安易な現実逃避はやめて生き残るために全力を尽くすことに決めた。
そう、どんな卑劣な手段を用いても、俺は生きる、生き残ってやる。
「え、はい、なんでしょうか?」
俺は覚悟を決める、この天使のように優しく美しいお姫様を泣かせてしまうかもしれないことを。
「このサンドイッチ不味いです」
「ごめんなさい」
誠心誠意、謝罪の言葉を述べるのは、俺では無くネルさんである。
いや、俺としても一言謝るべきであろう。
魔法の練習に付き合ってもらった上に、料理までご馳走になったのだ。ここまで相手の善意を受けておきながら謝らせるとはどんな鬼畜の所業であろうか。
だが、モノには限度というものがある。俺は良心の呵責に苛みながらも、あえて悪鬼羅刹と化す修羅の道を行くことに決めたのだ。
つまり、料理が不味いと素直に申告した。
まぁ、そこから一悶着あったのだが、ネルさんが実際に暗黒サンドイッチを食したとこで、俺の訴えの正当性は認められることと相成った。
「本当にごめんなさい……私、こんなに料理が下手だったなんて……」
ネルさんの言い訳は少々不思議なニュアンスに感じるが、
「まぁ、誰も指摘してくれなかったんじゃしょうがないんじゃないですか」
どうやら、不敬にもアヴァロンのお姫様の手料理が不味いでござると諫言を述べたのは、俺が史上初であるらしい。
この衝撃的な事実を涙ながらに受け止めてくれたネルさんの態度を見れば、今すぐ極刑に処される事はなさそうで、一安心だ。
「いつもみんなが残さず食べてくれるから、とても美味しくできていると勘違いしちゃっていたんですね……うふふ、馬鹿みたいですね、私」
白皙の美貌を悲嘆にくれさせるネルさん、この表情を見れば世の男共はどんな手を尽くしてでも笑顔にさせてあげたいと思えるほどの儚さ。V26Ⅳ美白美肌速効
だが、俺としてはこれまで彼女の料理を不味いと思わせないよう完食してきた英雄たちにこそ、敬意を表したい。
特に、このスパーダにおいてネルさんが手料理を振舞うというバイオテロを未然に防いでくれたのは、兄貴のネロをはじめとした『ウイングロード』のメンバーであるらしい。
今の俺は心から彼らが名実共にランク5の冒険者パーティだと認められるね、素直に尊敬できる。
だが、彼らの涙ぐましい努力も今、俺の手によって水泡に帰してしまった。
この残酷な現実をネルさんに知られまいとする彼らの心遣いは分かる。だがしかし、いずれ彼女も真実を知る日が来たことだろう。
そう思えば、他の誰でも無く、ただの冒険者である俺がリスクを省みず指摘することが出来たのは、かえって僥倖だったかもしれない。
ネルさんがどうであれ、アヴァロン国民だったら不敬罪に処されるかもしれないのだから。
しかし、自分の行いを正当化することに没頭するのもそろそろ限界である、なぜならば、
「こんな汚物を喜んでみんなに食べさせていたなんて……人として終わってますね……ふふ、終了……」
ネルさんがショックのあまり、ヤバい方向に自己嫌悪が全力疾走してしまっている。
このまま放っておくとリストカットくらいならしちゃうんじゃないかなという雰囲気だ。
心なしか、その青空のように澄んでいる瞳も暗雲が立ち込めているかのようにどこか曇って見える。
そんな今の彼女を一人にしてはまずい。ここは責任をとって、俺が何とか上手いフォローをしなければ。
だが、何と言うべきか。
食べられないほど酷くはないですよ? いや無理だ、コレはもう完全無欠に食物の概念を逸脱した物体になってしまっている。
じゃあクロノさん食べてくださいよ、と返されれば、俺は全力でNOと言わざるを得ない。
ちくしょう、どう頑張ってもこのサンドイッチのフォローは不可能だ……いや、待てよ、そうか、これはもう完全にスルーしてしまえば良いのだ。
「ネルさん、人は誰でも最初から料理が上手なわけじゃありません」
まぁ、料理未経験者の全てがこんな毒物を練成できるかどうかと言われれば、否であるが。
「今は料理が下手でも、これから上手くなっていけばいいじゃないですか!」
ようするに、今の惨状は忘れて、明るい未来を見よう! というテーマだ。
「でも私、小さい頃からお料理は嗜んできたつもりだったんですけど、こんなに酷いんじゃ、もう頑張ってもダメですよ……」
「ダメじゃないですよ、今まではちょっとやり方が間違っていただけで、また一から学びなおせばいいじゃないですか!」
「け、けどぉ――」
「出来る、出来る、絶対出来る! 頑張れもっとやれるって! 頑張れば絶対料理上手くなる! みんなに美味しい料理食べさせてあげよう!!」
畳み掛けるようにポジティブな言葉攻めをフルバーストする。
ここで退いたら後は無い、頑張れ俺、やればできるって!
「そ、そうですよね……私、今度こそお料理が上手に作れるよう頑張りますっ!」
よし、俺の熱い思いに応え、ネルさんは見事に持ち直してくれたぞ。曇っていた瞳も今や見違えんばかりに希望の光に満ちているような気がする。
「ところでネルさん、今までは誰から料理を習っていたんですか?」
「え? 我流ですけど?」
なるほど、それが諸悪の根源だったか……V26Ⅲ速效ダイエット
2014年6月14日星期六
ガラハド要塞
冥暗の月11日。スパーダ軍第四隊『グラディエイター』の第一陣は、無事にガラハド要塞へと到着した。
整えられた山道ではあるが、降り積もった雪に加えてキツい傾斜が続く中々の難所だったが、トラブルも脱落者もなく、つつがなく予定通りの日程を終えた。
俺としては、一度は通ったはずの道なのに、全く見覚えがないことに少しばかりのショックを受けたくらい。無論、それはガラハド・スパーダ間の道だけでなく、この圧倒的な大要塞の威容もである。精力剤
「ガラハド要塞って、こんなデカかったんだな……」
目の前にそびえ建つのは、ただひたすらに巨大な壁。ガラハドの大城壁、と呼ばれるソレは、歴史を知らずとも、何者もこれを超えることは叶わなかっただろうと見る者に思わせてならない。
実際に歴史を知る者ならば、もっと驚くべき代物でもあるが。
実はこの大城壁、古代遺跡を利用して建設されたものだという。元々は、正門となっている巨大な鋼鉄の門と、そこから広がる崩れかけの壁が数十メートルに渡って伸びているというだけの、遺跡というより、ただの廃墟と言った方が適切な有様だった。しかし、残骸であっても古代のテクノロジーで作られた扉と壁は強固で、この立地もあってそのまま利用しようと、遥か昔の初代スパーダ王は判断したのだ。
そうして長い年月の中、少しずつ、だが着実に要塞は拡大・強化されてゆき、今の超巨大な城壁の完成まで至ったというわけである。
そんな歴史ある大要塞が建設された場所は、奇跡的に開かれた山間の切れ目。その一点だけ標高が低くなだらかで、そのすぐ両脇から、断崖絶壁となって二つの岩山が突き出ている。山の中というより、巨大な谷間のような印象を受ける。
もしかすれば、この奇妙な地形も、古代に造成されたのかもしれない。
そしてガラハドの大城壁は、およそ一キロの幅を持つ谷底を、端から端まで完全に封鎖しているのだ。
その高さは約五十メートル。精密に組まれた垂直の石壁は、攻めるダイダロス側からだとダムにしか見えないだろう。
一方、俺の立つスパーダ側からだと、その巨大城壁に見合った大きさの砦が建っているのが見える。箱のような四角形で、四隅に防御塔を備えているのは、イスキア古城と同じ造りだ。ただし、その大きさは桁違い、倍くらいに見える。
違うのは大きさだけではない。デカい分だけ壁面装甲が厚くなっているのに加え、建物全てを覆う広域結界による魔法防御力も備えているのだ。
砦が単体でも高い防御力を発揮するが、この天に向かってそびえ立つ摩天楼のような四本の防御塔は、さらなる守りの力をもたらしてくれる。
塔の天辺は、砦で一番の高所からスパーダの宮廷魔術師による最大火力の攻撃魔法をぶっ放す砲台。大樹の根のように地下深くにある最底辺は、大城壁を除くガラハド要塞全てを守る結界を発動させる結界機の役割を果たす。攻守において、防衛の要となる重要な施設の一つである。
さらに驚くべきなのは、この巨大要塞の他にも、倉庫や兵舎、馬も天馬も飼える厩舎などの建物も立ち並んでいることだ。最早、ちょっとした町である。
「あの時は、アルザス戦の直後でしたからね。覚えてないのは、無理もないでしょう」
要塞の規模に驚いているのは俺だけで、フィオナは何の感動も浮かばないといった表情。むしろ、俺を気遣ってくれる分、要塞など気にも留めてない感じだ。
「あの時は世話をかけたよな……」
救助に来たスパーダ軍と合流して以降、完全に緊張の糸が切れた俺は、茫然自失の状態だったからな。気が付けば、猫の尻尾亭で寝ていたというような感覚。
これでも、リリィとフィオナの手前、心配はかけまいと表向きは空元気で普通にしていたつもりだったが……改めて思えば、当時のことはほとんど記憶にない。
ミアと出会って復活するまでの間、二人には世話になったし心配かけっぱなしだったしで、本当に謝罪と感謝の念が絶えない。
「大丈夫だよ、リリィ、もう負けないから!」
「ああ、そうだな。俺達は強くなった、使徒が来ても、今度こそ勝ってみせよう」
高まる戦意と必勝の誓いを胸に、俺はリリィを抱えてメリーから降りる。 ここから先は、馬を引いて指定の厩舎まで行く。
フィオナも軽やかにマリーから降り、手綱を引いて歩き始めている。掲げた看板にデカデカと『ガラハド飯店』と書かれた建物に向かって。
「おいフィオナ、そっちは食堂だぞ」
「分かってます」
「馬を連れたままじゃ入れないだろ」
「……分かってます」
いや絶対、分かってなかっただろ。何ちょっと拗ねた顔してんだよ。
施設が充実していると、誘惑も多い。特に戦場ではみんな餓えている。
しかし、到着したばかりで餓えているのはどうなんだろう。
「預けたら食事にするから」
「了解です」
スパーダの正規兵は食事が支給されるが、俺達にはない。全て自前である。
だからこそ、こうして普通の飲食店なんてのも建っているのだ。まぁ、普通に酒保商人と呼ばれる、軍隊を相手に商売する者もいるから、このテの店が皆無ってことはない。
特に鉄壁を誇るガラハド要塞は、絶対に突破されないという信頼も相まって、こうして城壁のすぐ近くに堂々と店を構えられるのだろう。あの如何にも娼館らしい三階建てなど、かなり年季が入っている。というか、こんな近くにあって大丈夫なのか、ああいう店は。別の意味で心配になる。媚薬
「それにしても、凄い人だな……リリィ、はぐれるなよ」
「はーい」と元気の良い返事でスイスイと人波を避けて歩くリリィの足取りは軽い。軽いというか、浮いている。『フェアリーダンスシューズ』は、やっぱりちょっと楽しそうだな。
この場には、すでにスパーダの主力が集結している上に新たに冒険者もやって来たのだ。人口密度はさらに上がっている。
ほとんどのスパーダ騎士はすでに砦の方へ詰めているものの、騎馬の多い第二隊『テンペスト』は屋外に天幕を張って駐留している。自分の馬は自分で世話するようだ。そうでもしないと、戦場で命を預けるパートナーにはなれないだろう。
ともかく、丸ごと一軍団の兵士と、冒険者の軍団とで、砦の外も人で溢れているのだ。勿論、俺達もテントを張っての野外生活となる――かと思ったが、宿をとることができた。運が良かったというより、ランク5の役得といった感じか。もっとも、田舎ギルドの客室とどっこいといったものだが。
そうして、どうにかこうにか人ごみをかき分け進んでいると、不意に頭上を大きな影が過って行った。
「おお、アレが竜騎士ドラグーンってやつか」
見上げてみれば、緑の鱗を持つ飛竜ワイバーンが崖の上に設けられたヘリポートのような場所へ次々と降り立っている姿が見えた。どうやら、竜騎兵隊が駐留する専用の飛行場となっているようだ。
サラマンダーより二回りは小さいワイバーンだが、竜の系譜に連なる者としての力強さを、羽ばたく両翼から感じさせてくれる。
「あー、一匹だけ白いのがいるよー」
「本当だ、アイツが隊長なのかな」
純白の鱗が目に眩しい、何とも優美な外観の白竜が、最後に降り立っていった。真っ白い翼に逆巻く風がここまで届いたのか、そよ風が吹き抜けていく。
「白い飛竜とは珍しいですね。よほどの実力者か、よほどの金持ちじゃなければ乗れないですよ」
ちょっと白けた様子で、フィオナが言う。
「あそこに掲げられている旗、アヴァロン国旗ですね。だとすると、第一竜騎兵隊『ドラゴンハート』でしょう」
フィオナの目線を追えば、たしかに崖の上にはためく青と白のカラーリングが特徴的な旗がある。描かれた紋章のモチーフは、剣と盾と竜。あまり馴染みはないが、ソレがアヴァロンの国旗であると、知識としては知っている。
だが、そこからどこそこの部隊だ、というところまでは分からない。
「詳しいな、フィオナ」
「授業で聞いただけです」
そういえば、何かの授業でやったような気がしないでもない。なぜなら、俺も第一竜騎兵隊『ドラゴンハート』というフレーズにどこか聞き覚えがあるのだから。
どうやら、学業成績だけならフィオナの方が優秀なようだ。俺も高校じゃそれなりに成績は良い方だったが、一番ってワケでもなかったからな。やはりフィオナ、天才か。
「アヴァロンから多少は援軍が来るって話は聞いたが、なるほど、下手に人数を派遣するより、精鋭の竜騎士ドラグーンが来てくれた方がありがたいな」
アルザスでも見かけた天馬騎士ペガサスナイトをはじめ、空を飛べる騎士という存在は強力かつ希少な存在である。アヴァロンは大軍こそ送らないが、こうして虎の子の空中戦力を派遣してくれるのだから、それなりにスパーダを応援する気持ちが窺える。
「恐らく、今回は十字軍もかなりの空中戦力を投入してくると思います。一騎でも対抗できる兵が多いのは、確かにありがたいですね」
「リリィもいるよ!」
「いや、スパーダ軍とアヴァロン軍に任せても大丈夫だろ。俺達『エレメントマスター』は、今回こそ三人一緒に戦える」
あくまで、予定であるが。できれば、リリィがまた天馬騎士の相手をするような緊急事態とならないことを祈る。
「ラストローズ討伐では、全くお役にたてなかったので、今回こそ、活躍して見せますよ」
「リリィ、いっぱい頑張るから、クロノ、いっぱい褒めてね!」
「心強い言葉をありがとう。俺も頑張るよ、全身全霊で――」
十字軍を、血祭りにあげてやる。
さぁ、迎え撃つ準備は整った。後は、ヤツらが来るのを待つだけだ。
「――ああ、もう、日が暮れるんだな」
竜の飛影が横切る空は、いつの間にか赤く染まり始めていた。もうすぐ、このガラハド要塞も暮れなずむ夕日で赤に染まるだろう。
鮮血によってこの地が本当に赤く染まるのは、さて、あと何日後となるだろうか。
時が来るまで、俺は静かにここで待とう。性欲剤
冥暗の月16日。早朝。
東の空から登り始めた朝日を背景に、一騎の天馬ペガサスが悠然と飛んでいた。
眼下に広がるのは一面の銀世界。青々とした草原は今や分厚い雪の下、深緑の森も雪と氷で色を失っている。
飛来するペガサスの毛並みも、この雪景色に劣らぬ純白の艶を持つ。誰が見ても、美しいと口を揃えるだろう。
しかし、その背にまたがるのは、さらなる真白に身を染める者。白銀に煌めく絹糸のような長髪がなびき、身にまとう聖なる法衣は風にはためく。
如何なる汚れも穢れも一切許さないとばかりに、真っ白に透き通った肌の、一人の乙女である。
「……着いた」
溜息のように呟いた一言は、白い吐息の跡だけを残して宙に消えた。
少女は手綱を僅かに引いて、純白の騎馬へ命を伝える。主の意思を正確に汲んだ従順なる下僕は、美しくも逞しい白翼を羽ばたかせ、一気に高度を下げて行く。
降り行く先にあるのは、白い景色の中に黒々と浮かび上がる、大きく無骨な建築物。守るためではなく、攻めるためにこの地へ建てられたソレは、雪よりも冷たそうに見えた。
そうして、ペガサスに乗った彼女は降り立つ。
「――第七使徒サリエル卿、ようこそ、アルザス要塞へ!」
正門前に整然と立ち並び、出迎えの声を上げるのは、この要塞に詰める全兵士。白い装備は図らずとも雪上での保護色となっているが、五千もの人間が集団になっているのは中々に壮観である。
しかしながら、五千人の内にあっても、サリエルの小さな体は輝かんばかりの存在感を主張する。
十字軍総司令官、第七使徒サリエルが天より舞い降りる一幕は、正に降臨と呼ぶべき神々しさ。神の奇跡をその身に宿す美しき少女の姿に、兵の誰もがひれ伏しながら息を呑む。まだ幼い少年兵は目を輝かせ、妙齢の女騎士は嫉妬すら忘れて美貌に見入り、歴戦の将校はただ感嘆の息を吐く。
「……面を、上げなさい。状況の、報告を」
フワリと天の羽衣が舞うようにサリエルがペガサスから降り、自らの足で白い地面に一歩を踏み出した時になり、兵たちは魅了から解放され、己の職務をハっと思い出す。
やや慌てて駆け寄ってくる、煌びやかな白銀の鎧を身にまとった青年は、このアルザス要塞を預かる将で、ベルグント伯爵の甥っ子であると聞いていた。
「失礼致しました、サリエル閣下! 自分は、ベルグント伯爵連合軍、第八大隊を率いる――」
緊張の面持ちで紹介された名前は記憶には留めるものの、サリエルがその名を呼ぶことはないだろう。
自分がこの場に来たのは、真冬にも関わらず強行されたガラハド要塞攻略戦を見守るためである。総司令官の指揮権をふりかざして、余計な介入をするつもりはない。
「本隊は、すでに出陣したようですね」
「はっ、凍土の月24日に本隊はアルザス要塞より出陣いたしました。ご覧のとおり、街道は険しい山と風雪によって閉ざされておりますので、道を確保しながら進むのにいささか時間がかかってしまいました」
聞いてもいないのに、彼らがどのようにして雪道を切り開くと同時に、街道が再び雪で閉ざされぬよう保持しているのかを甥っ子将軍は懇切丁寧に説明してくれる。
使徒にケチをつけられたら大事だ。理解と納得を得るために彼も必死なのだろう。
もっとも、どんなにずさんな作戦計画であったとしても、サリエルは口を挟むことは決してないのだが。無口な彼女の意思など知りようもない彼は、懸命にも無為な説明を重ねつづけた。女性用媚薬
「――ですので、ちょうど今日か明日あたり、叔父上、失礼、ベルグント将軍閣下はガラハド要塞への攻撃を始めるものと思われます」
長い説明を経て、ようやく結論が出たその時、サリエルはピタリと足を止めた。あまりに唐突に歩みを止めたものだから、青年は大きく踏み出した足を慌てて戻そうとして、たたらを踏んでいた。
ちょっと間抜けな彼の姿は、サリエルの真紅の瞳には映っていない。その赤い視線は、遥か遠く、晴れ渡った冬の青空の下に悠然とそびえるガラハドの山並みへと向けられている。
「……始まった」
何が、とは、誰も問いかけられなかった。しかし、そのつぶやきを聞けば、誰もが薄々と察することはできるだろう。
サリエルはそれ以上、言葉を続けることはなかった。彼女に説明の義務はない。自分が分かれば十分なのである。
使徒の持つ超感覚によって、今この瞬間、十字軍とスパーダ軍の戦いが始まったことを察知したのだった。
「用意は、しておきます」
「用意……ですか?」
今度こそ、彼は疑問をぶつけた。サリエルの台詞は、独り言ではなく明らかに自分へ向かって投げかけられたものだから。
「用意、です」
「は、はぁ……サリエル卿をもてなす準備は整っておりますし、すぐお休みになられたいのでしたら、部屋もご用意しておりますが……」
サリエルの言う「用意」とは一体何のことか、全く分からないとばかりに困惑顔で、彼はしどろもどろに正解を探るような物言い。ジっと真紅の眼差しを受け、緊張の汗が青年の顔に流れる。
「後でよいです」
無口な彼女は迷うことなく詳細説明を放棄して、行動に移った。
ちょうど潜り抜けたアルザス要塞の大きな城門を戻り、再び外へ。そこにいるのは、未だに直立不動で整列を崩さない十字軍兵士五千の姿。彼らの視線を一身に浴びながら、サリエルは呑気に散歩でもするかのように静かな足取りで、城壁に沿って歩き始める。
一体何処へ行こうというのか――そんな疑問を誰もが抱いたその時、サリエルは再び足を止めた。
新雪の降り積もる雪の地面を見つめる姿は、石化の魔眼によって石像にされたようにピクリとも動かない。
「あ、あの、サリエル卿……そこに、何か?」
たっぷり間をおいてから、謎の停止中のサリエルへ、ついに声をかけた。ゆっくりと振り向いたサリエルは、変わらず人形めいた無表情だが、はっきりと言葉を発した。
「ここに、魔法陣を描きます」
何の魔法で、何の為に。それはサリエルしか知らない。そして、彼女はきっと説明はしない。
故に、彼らにとって正しく「神のみぞ知る」という意味に等しい。
しかし、使徒が行うなら、そこに誤りはない。必ずや神意に沿った、必要な行動のはず。
ならばサリエルのソレは、きっと我らが十字軍を勝利に導くものである――そう、誰もが解釈しただろう。
だが、当の本人は思う。彼らの希望とは対極にある「できれば、使いたくない」という本音を。
これから描く魔法陣。それがもたらす魔法の効果を使うその時がくるとすれば、恐らく――中絶薬
整えられた山道ではあるが、降り積もった雪に加えてキツい傾斜が続く中々の難所だったが、トラブルも脱落者もなく、つつがなく予定通りの日程を終えた。
俺としては、一度は通ったはずの道なのに、全く見覚えがないことに少しばかりのショックを受けたくらい。無論、それはガラハド・スパーダ間の道だけでなく、この圧倒的な大要塞の威容もである。精力剤
「ガラハド要塞って、こんなデカかったんだな……」
目の前にそびえ建つのは、ただひたすらに巨大な壁。ガラハドの大城壁、と呼ばれるソレは、歴史を知らずとも、何者もこれを超えることは叶わなかっただろうと見る者に思わせてならない。
実際に歴史を知る者ならば、もっと驚くべき代物でもあるが。
実はこの大城壁、古代遺跡を利用して建設されたものだという。元々は、正門となっている巨大な鋼鉄の門と、そこから広がる崩れかけの壁が数十メートルに渡って伸びているというだけの、遺跡というより、ただの廃墟と言った方が適切な有様だった。しかし、残骸であっても古代のテクノロジーで作られた扉と壁は強固で、この立地もあってそのまま利用しようと、遥か昔の初代スパーダ王は判断したのだ。
そうして長い年月の中、少しずつ、だが着実に要塞は拡大・強化されてゆき、今の超巨大な城壁の完成まで至ったというわけである。
そんな歴史ある大要塞が建設された場所は、奇跡的に開かれた山間の切れ目。その一点だけ標高が低くなだらかで、そのすぐ両脇から、断崖絶壁となって二つの岩山が突き出ている。山の中というより、巨大な谷間のような印象を受ける。
もしかすれば、この奇妙な地形も、古代に造成されたのかもしれない。
そしてガラハドの大城壁は、およそ一キロの幅を持つ谷底を、端から端まで完全に封鎖しているのだ。
その高さは約五十メートル。精密に組まれた垂直の石壁は、攻めるダイダロス側からだとダムにしか見えないだろう。
一方、俺の立つスパーダ側からだと、その巨大城壁に見合った大きさの砦が建っているのが見える。箱のような四角形で、四隅に防御塔を備えているのは、イスキア古城と同じ造りだ。ただし、その大きさは桁違い、倍くらいに見える。
違うのは大きさだけではない。デカい分だけ壁面装甲が厚くなっているのに加え、建物全てを覆う広域結界による魔法防御力も備えているのだ。
砦が単体でも高い防御力を発揮するが、この天に向かってそびえ立つ摩天楼のような四本の防御塔は、さらなる守りの力をもたらしてくれる。
塔の天辺は、砦で一番の高所からスパーダの宮廷魔術師による最大火力の攻撃魔法をぶっ放す砲台。大樹の根のように地下深くにある最底辺は、大城壁を除くガラハド要塞全てを守る結界を発動させる結界機の役割を果たす。攻守において、防衛の要となる重要な施設の一つである。
さらに驚くべきなのは、この巨大要塞の他にも、倉庫や兵舎、馬も天馬も飼える厩舎などの建物も立ち並んでいることだ。最早、ちょっとした町である。
「あの時は、アルザス戦の直後でしたからね。覚えてないのは、無理もないでしょう」
要塞の規模に驚いているのは俺だけで、フィオナは何の感動も浮かばないといった表情。むしろ、俺を気遣ってくれる分、要塞など気にも留めてない感じだ。
「あの時は世話をかけたよな……」
救助に来たスパーダ軍と合流して以降、完全に緊張の糸が切れた俺は、茫然自失の状態だったからな。気が付けば、猫の尻尾亭で寝ていたというような感覚。
これでも、リリィとフィオナの手前、心配はかけまいと表向きは空元気で普通にしていたつもりだったが……改めて思えば、当時のことはほとんど記憶にない。
ミアと出会って復活するまでの間、二人には世話になったし心配かけっぱなしだったしで、本当に謝罪と感謝の念が絶えない。
「大丈夫だよ、リリィ、もう負けないから!」
「ああ、そうだな。俺達は強くなった、使徒が来ても、今度こそ勝ってみせよう」
高まる戦意と必勝の誓いを胸に、俺はリリィを抱えてメリーから降りる。 ここから先は、馬を引いて指定の厩舎まで行く。
フィオナも軽やかにマリーから降り、手綱を引いて歩き始めている。掲げた看板にデカデカと『ガラハド飯店』と書かれた建物に向かって。
「おいフィオナ、そっちは食堂だぞ」
「分かってます」
「馬を連れたままじゃ入れないだろ」
「……分かってます」
いや絶対、分かってなかっただろ。何ちょっと拗ねた顔してんだよ。
施設が充実していると、誘惑も多い。特に戦場ではみんな餓えている。
しかし、到着したばかりで餓えているのはどうなんだろう。
「預けたら食事にするから」
「了解です」
スパーダの正規兵は食事が支給されるが、俺達にはない。全て自前である。
だからこそ、こうして普通の飲食店なんてのも建っているのだ。まぁ、普通に酒保商人と呼ばれる、軍隊を相手に商売する者もいるから、このテの店が皆無ってことはない。
特に鉄壁を誇るガラハド要塞は、絶対に突破されないという信頼も相まって、こうして城壁のすぐ近くに堂々と店を構えられるのだろう。あの如何にも娼館らしい三階建てなど、かなり年季が入っている。というか、こんな近くにあって大丈夫なのか、ああいう店は。別の意味で心配になる。媚薬
「それにしても、凄い人だな……リリィ、はぐれるなよ」
「はーい」と元気の良い返事でスイスイと人波を避けて歩くリリィの足取りは軽い。軽いというか、浮いている。『フェアリーダンスシューズ』は、やっぱりちょっと楽しそうだな。
この場には、すでにスパーダの主力が集結している上に新たに冒険者もやって来たのだ。人口密度はさらに上がっている。
ほとんどのスパーダ騎士はすでに砦の方へ詰めているものの、騎馬の多い第二隊『テンペスト』は屋外に天幕を張って駐留している。自分の馬は自分で世話するようだ。そうでもしないと、戦場で命を預けるパートナーにはなれないだろう。
ともかく、丸ごと一軍団の兵士と、冒険者の軍団とで、砦の外も人で溢れているのだ。勿論、俺達もテントを張っての野外生活となる――かと思ったが、宿をとることができた。運が良かったというより、ランク5の役得といった感じか。もっとも、田舎ギルドの客室とどっこいといったものだが。
そうして、どうにかこうにか人ごみをかき分け進んでいると、不意に頭上を大きな影が過って行った。
「おお、アレが竜騎士ドラグーンってやつか」
見上げてみれば、緑の鱗を持つ飛竜ワイバーンが崖の上に設けられたヘリポートのような場所へ次々と降り立っている姿が見えた。どうやら、竜騎兵隊が駐留する専用の飛行場となっているようだ。
サラマンダーより二回りは小さいワイバーンだが、竜の系譜に連なる者としての力強さを、羽ばたく両翼から感じさせてくれる。
「あー、一匹だけ白いのがいるよー」
「本当だ、アイツが隊長なのかな」
純白の鱗が目に眩しい、何とも優美な外観の白竜が、最後に降り立っていった。真っ白い翼に逆巻く風がここまで届いたのか、そよ風が吹き抜けていく。
「白い飛竜とは珍しいですね。よほどの実力者か、よほどの金持ちじゃなければ乗れないですよ」
ちょっと白けた様子で、フィオナが言う。
「あそこに掲げられている旗、アヴァロン国旗ですね。だとすると、第一竜騎兵隊『ドラゴンハート』でしょう」
フィオナの目線を追えば、たしかに崖の上にはためく青と白のカラーリングが特徴的な旗がある。描かれた紋章のモチーフは、剣と盾と竜。あまり馴染みはないが、ソレがアヴァロンの国旗であると、知識としては知っている。
だが、そこからどこそこの部隊だ、というところまでは分からない。
「詳しいな、フィオナ」
「授業で聞いただけです」
そういえば、何かの授業でやったような気がしないでもない。なぜなら、俺も第一竜騎兵隊『ドラゴンハート』というフレーズにどこか聞き覚えがあるのだから。
どうやら、学業成績だけならフィオナの方が優秀なようだ。俺も高校じゃそれなりに成績は良い方だったが、一番ってワケでもなかったからな。やはりフィオナ、天才か。
「アヴァロンから多少は援軍が来るって話は聞いたが、なるほど、下手に人数を派遣するより、精鋭の竜騎士ドラグーンが来てくれた方がありがたいな」
アルザスでも見かけた天馬騎士ペガサスナイトをはじめ、空を飛べる騎士という存在は強力かつ希少な存在である。アヴァロンは大軍こそ送らないが、こうして虎の子の空中戦力を派遣してくれるのだから、それなりにスパーダを応援する気持ちが窺える。
「恐らく、今回は十字軍もかなりの空中戦力を投入してくると思います。一騎でも対抗できる兵が多いのは、確かにありがたいですね」
「リリィもいるよ!」
「いや、スパーダ軍とアヴァロン軍に任せても大丈夫だろ。俺達『エレメントマスター』は、今回こそ三人一緒に戦える」
あくまで、予定であるが。できれば、リリィがまた天馬騎士の相手をするような緊急事態とならないことを祈る。
「ラストローズ討伐では、全くお役にたてなかったので、今回こそ、活躍して見せますよ」
「リリィ、いっぱい頑張るから、クロノ、いっぱい褒めてね!」
「心強い言葉をありがとう。俺も頑張るよ、全身全霊で――」
十字軍を、血祭りにあげてやる。
さぁ、迎え撃つ準備は整った。後は、ヤツらが来るのを待つだけだ。
「――ああ、もう、日が暮れるんだな」
竜の飛影が横切る空は、いつの間にか赤く染まり始めていた。もうすぐ、このガラハド要塞も暮れなずむ夕日で赤に染まるだろう。
鮮血によってこの地が本当に赤く染まるのは、さて、あと何日後となるだろうか。
時が来るまで、俺は静かにここで待とう。性欲剤
冥暗の月16日。早朝。
東の空から登り始めた朝日を背景に、一騎の天馬ペガサスが悠然と飛んでいた。
眼下に広がるのは一面の銀世界。青々とした草原は今や分厚い雪の下、深緑の森も雪と氷で色を失っている。
飛来するペガサスの毛並みも、この雪景色に劣らぬ純白の艶を持つ。誰が見ても、美しいと口を揃えるだろう。
しかし、その背にまたがるのは、さらなる真白に身を染める者。白銀に煌めく絹糸のような長髪がなびき、身にまとう聖なる法衣は風にはためく。
如何なる汚れも穢れも一切許さないとばかりに、真っ白に透き通った肌の、一人の乙女である。
「……着いた」
溜息のように呟いた一言は、白い吐息の跡だけを残して宙に消えた。
少女は手綱を僅かに引いて、純白の騎馬へ命を伝える。主の意思を正確に汲んだ従順なる下僕は、美しくも逞しい白翼を羽ばたかせ、一気に高度を下げて行く。
降り行く先にあるのは、白い景色の中に黒々と浮かび上がる、大きく無骨な建築物。守るためではなく、攻めるためにこの地へ建てられたソレは、雪よりも冷たそうに見えた。
そうして、ペガサスに乗った彼女は降り立つ。
「――第七使徒サリエル卿、ようこそ、アルザス要塞へ!」
正門前に整然と立ち並び、出迎えの声を上げるのは、この要塞に詰める全兵士。白い装備は図らずとも雪上での保護色となっているが、五千もの人間が集団になっているのは中々に壮観である。
しかしながら、五千人の内にあっても、サリエルの小さな体は輝かんばかりの存在感を主張する。
十字軍総司令官、第七使徒サリエルが天より舞い降りる一幕は、正に降臨と呼ぶべき神々しさ。神の奇跡をその身に宿す美しき少女の姿に、兵の誰もがひれ伏しながら息を呑む。まだ幼い少年兵は目を輝かせ、妙齢の女騎士は嫉妬すら忘れて美貌に見入り、歴戦の将校はただ感嘆の息を吐く。
「……面を、上げなさい。状況の、報告を」
フワリと天の羽衣が舞うようにサリエルがペガサスから降り、自らの足で白い地面に一歩を踏み出した時になり、兵たちは魅了から解放され、己の職務をハっと思い出す。
やや慌てて駆け寄ってくる、煌びやかな白銀の鎧を身にまとった青年は、このアルザス要塞を預かる将で、ベルグント伯爵の甥っ子であると聞いていた。
「失礼致しました、サリエル閣下! 自分は、ベルグント伯爵連合軍、第八大隊を率いる――」
緊張の面持ちで紹介された名前は記憶には留めるものの、サリエルがその名を呼ぶことはないだろう。
自分がこの場に来たのは、真冬にも関わらず強行されたガラハド要塞攻略戦を見守るためである。総司令官の指揮権をふりかざして、余計な介入をするつもりはない。
「本隊は、すでに出陣したようですね」
「はっ、凍土の月24日に本隊はアルザス要塞より出陣いたしました。ご覧のとおり、街道は険しい山と風雪によって閉ざされておりますので、道を確保しながら進むのにいささか時間がかかってしまいました」
聞いてもいないのに、彼らがどのようにして雪道を切り開くと同時に、街道が再び雪で閉ざされぬよう保持しているのかを甥っ子将軍は懇切丁寧に説明してくれる。
使徒にケチをつけられたら大事だ。理解と納得を得るために彼も必死なのだろう。
もっとも、どんなにずさんな作戦計画であったとしても、サリエルは口を挟むことは決してないのだが。無口な彼女の意思など知りようもない彼は、懸命にも無為な説明を重ねつづけた。女性用媚薬
「――ですので、ちょうど今日か明日あたり、叔父上、失礼、ベルグント将軍閣下はガラハド要塞への攻撃を始めるものと思われます」
長い説明を経て、ようやく結論が出たその時、サリエルはピタリと足を止めた。あまりに唐突に歩みを止めたものだから、青年は大きく踏み出した足を慌てて戻そうとして、たたらを踏んでいた。
ちょっと間抜けな彼の姿は、サリエルの真紅の瞳には映っていない。その赤い視線は、遥か遠く、晴れ渡った冬の青空の下に悠然とそびえるガラハドの山並みへと向けられている。
「……始まった」
何が、とは、誰も問いかけられなかった。しかし、そのつぶやきを聞けば、誰もが薄々と察することはできるだろう。
サリエルはそれ以上、言葉を続けることはなかった。彼女に説明の義務はない。自分が分かれば十分なのである。
使徒の持つ超感覚によって、今この瞬間、十字軍とスパーダ軍の戦いが始まったことを察知したのだった。
「用意は、しておきます」
「用意……ですか?」
今度こそ、彼は疑問をぶつけた。サリエルの台詞は、独り言ではなく明らかに自分へ向かって投げかけられたものだから。
「用意、です」
「は、はぁ……サリエル卿をもてなす準備は整っておりますし、すぐお休みになられたいのでしたら、部屋もご用意しておりますが……」
サリエルの言う「用意」とは一体何のことか、全く分からないとばかりに困惑顔で、彼はしどろもどろに正解を探るような物言い。ジっと真紅の眼差しを受け、緊張の汗が青年の顔に流れる。
「後でよいです」
無口な彼女は迷うことなく詳細説明を放棄して、行動に移った。
ちょうど潜り抜けたアルザス要塞の大きな城門を戻り、再び外へ。そこにいるのは、未だに直立不動で整列を崩さない十字軍兵士五千の姿。彼らの視線を一身に浴びながら、サリエルは呑気に散歩でもするかのように静かな足取りで、城壁に沿って歩き始める。
一体何処へ行こうというのか――そんな疑問を誰もが抱いたその時、サリエルは再び足を止めた。
新雪の降り積もる雪の地面を見つめる姿は、石化の魔眼によって石像にされたようにピクリとも動かない。
「あ、あの、サリエル卿……そこに、何か?」
たっぷり間をおいてから、謎の停止中のサリエルへ、ついに声をかけた。ゆっくりと振り向いたサリエルは、変わらず人形めいた無表情だが、はっきりと言葉を発した。
「ここに、魔法陣を描きます」
何の魔法で、何の為に。それはサリエルしか知らない。そして、彼女はきっと説明はしない。
故に、彼らにとって正しく「神のみぞ知る」という意味に等しい。
しかし、使徒が行うなら、そこに誤りはない。必ずや神意に沿った、必要な行動のはず。
ならばサリエルのソレは、きっと我らが十字軍を勝利に導くものである――そう、誰もが解釈しただろう。
だが、当の本人は思う。彼らの希望とは対極にある「できれば、使いたくない」という本音を。
これから描く魔法陣。それがもたらす魔法の効果を使うその時がくるとすれば、恐らく――中絶薬
2014年6月11日星期三
Prayer for Killer
溢れ出す赤と零れんばかりの白。彼女はそのふたつの花束を腕に抱き、ゆっくりと歩みをすすめていく。彼女の傍らに黙然と佇んでいるのは、灰色にくすんだ墓標の群――彼女が黒い服を纏っているためか、まるでそれらは葬送を見送る参列者のようだった。
墓地は広い。だが彼女は迷うこともなく真っ直ぐに前を見すえていた。入り口からどんどんと奥へ進み、密に立ち並んでいた墓標も疎らになってきたところまで来てようやく足を止める。辺りを見回す目は憂いを湛えた闇の色だった。精力剤
彼女の視線がとらえたのは、墓地の片隅――そこは他の場所とは違って、一種異様な雰囲気をたたえていた。墓標の影はなく、子供の身長ほどの高さの杭が地面に無数に突き立っている。――まるで吸血鬼を封じ込めているようだ、と彼女は思った。
墓標とは違って、杭の表面には何も記されていない。それでも彼女は目的の場所まで真っ直ぐに歩いて行った。二本、寄り添うように並んだ杭。
真一文字に弾き結ばれていた彼女の唇が、ようやくほころんだ。
「ここに来るのは何年ぶりかしらね……。お久しぶり――父さん、母さん」
彼女はひとつの杭の前に赤い花束を、もうひとつには白い花束を手向けた。
赤は父の色。そして、母は白の似合うひとだった。
体を起こした彼女は、振り向くこともなくつぶやいた。
「弟ほどじゃないけれど、私もある程度たしなみがあるんですよ――羽渡さん。素人の尾行ぐらいはすぐに気付きます」
「……すみません。尾行するつもりじゃなかったんですけど」
姿をみせたのは、彼女と同じくらいの年齢の男だった。
「あなたが王宮を出られたから、一体どこに行かれるのか気になって……」
羽渡、と呼ばれた男は不審そうに辺りを見回す。
「それにしても、ここは一体何なんですか? お墓……?」
彼女はふ、と笑った。
「ええ、墓地です」
「でも」
「埋葬されているのは――私の祖先たち。そして」
花束は風に煽られ、はらはらと揺れている。
「その杭は」
彼女の指差した先には、まだ真新しい杭が立っていた。
「私の弟のお墓になるはずだった場所……」
「…………」
男は口を噤んだ。たぶん――彼にはわかったのだろう。一体ここに眠っているのがどういった者たちなのか。何故彼らには墓標が与えられないのか。そのすべてを、了解したことだろう。
長い沈黙の後、男はぽつりとつぶやいた。
「僕も……」
彼女は振り返る。
「手を合わせても良いですか」
「……え」
「そこ、貴方のご両親のお墓なのでしょう?」
「…………」
「僕もお祈りして良いですか」
「……ええ」
彼女――氷雁譲は、微笑んだ。
羽渡雪彦がその一族について知ったのは、もう数年ほど前のことになる。血塗られた一族――暗殺を生業とする者――歴史の必要悪――だがそれはどれも彼らの真実の姿とは程遠かった。
一族の現当主とは、二度ほど会話を交わしたことがある。物腰の柔らかい、だがどこか重い空気をまとっていたあの男。鮮やかな赤い瞳と鋭利な美貌が印象的だった。
「弟さんの、容態は……?」
「安定はしています。でも、まだ意識は……」
譲は目を伏せる。
「そうですか……」
雪彦は目の前に並ぶふたつの杭をぼんやりと見上げた。先代の暗殺者の墓と、それに寄り添うように並んでいる墓。そして、少し離れて主のいない墓――今は、まだ。
雪彦の思考に気付いたのか、譲は小さくつぶやいた。
「本当は――あの子は、護はもう、生きていてはいけないのでは……」
「え?」
雪彦は驚いて振り向く。彼女は沈鬱な表情で目を伏せていた。その黒い服はまるで――まるで弟のための喪服のようで。雪彦はぶるりと体を震わせた。
「あの子は数え切れないほどたくさんのひとを殺してきました。いくら彪さんが許すと言っても、本当は許されないことでしょう。あの子には一生をかけても償えないほどの重い罪ですから……」
「…………」
「それでも、私はあの子の姉です。この世に同時に生まれてきた双子。もし彼がいなければ、今の彼の場所には私がいた」
譲は目を上げた。一瞬その瞳が赤く染まっているように見えて――だがそれは夕陽が映りこんでいるだけだった。雪彦はほっと息をつく。
「時々疑問に思うんです――もし私が彼だったら、私は彼と同じように決断できただろうか。自分が死んでもいいから、誰かを殺したくないと願えただろうか。自分で自分を取り戻すことができただろうか。暗殺者としての自分を捨て、人間に戻ることができただろうか……」
雪彦は声を失い、譲はそんな彼を見て弱々しく微笑んだ。
「わかりませんよね。自分ならそんな状況でどうしただろうかなんて。でも……」
譲は一歩踏み出し、真新しい杭に手を触れた。まるで誰かの頭をなでるように、そっと手を動かす。
「あの子はあの場で、その決断をした……」
「…………」
「私には判らない……あの子は、本当は最初から人間でありたいと願っていたのかもしれない。暗殺者であるように仕向けていたのは、私たちの一族の歴史と、そして――」
「この国の歴史、そのもの……」
譲の言葉を、雪彦が引き取った。彼女は静かに頷く。
雪彦は彼女の隣に立ち、そして優しい目で彼女の触れている杭を見つめた。
「譲さん。僕はずっと法務大臣を勤めてきました。その僕にも――彼は裁けない」
確かに彼はひとを殺した。だが、そのすべては依頼殺人――彼はただ、仲介者の受けてくる依頼をこなす人形のような存在だった。
歴史が彼を、いや彼らを人形に仕立て上げ、ひとを殺させた。媚薬
ではその歴史とは一体何だろう?
譲の脳裏に浮かんだ疑問に答えるように、雪彦は言葉を紡いだ。
「歴史とはひとの意思でありながらそれを超えた存在。連続的でありながら時に不連続なもの。方向性があるようでいて、しかしある時突然見失われてしまう。形はないけれど、我々は書物として手に取ることができる」
「まるで、人間のようね」
譲がぽつりとつぶやいた。雪彦はうなずく。
「そう――まさに歴史とは人間そのものだと思います。……結局、人間を殺させていたのは人間。暗殺者は最初から人間の中に存在していたのですよ」
「…………!!」
譲は弾かれたように雪彦の顔を見つめた。彼は静かに微笑んでいる。
「貴方たちの一族は人間です。最初から最後まで。ずうっと、人間だ」
――護は人間なんだよ。生まれてからずっと、人間であり続けているんだ。
脳裏に響くのは、今はもう王でなくなった少年の声。譲は目を閉じてそれを聞く。
――だって、護は泣いていたんだから……。
「羽渡さん」
「何です?」
「……ありがとう」
譲はつぶやいた。
この身に流れる血を呪ったこともあった――人間ではないとされる暗殺者を父に持つばかりか、それと血を分けて生まれてきた自分。確かに瞳の色にその「証」はない。だが、彼女だけがふつうの人間のような顔をして生きていていいのか……。
「いいえ。……すみません、こんなプライヴェートな場所についてきてしまって」
決まり悪げに頭をかく雪彦に、譲はくすりと笑った。
「構いませんよ。……もう、この場所は必要のないものですから」
暗殺者によって「しあわせ」を教えられた少年――彼によって道を変えた歴史はもう、暗殺者を必要としない。
「そうですね。あ、これ引っこ抜きましょうか」
雪彦は新しい杭に手を掛けた。
「……いえ、それは――」
譲は軽く首を横に振って雪彦をとどめた。
「私たちの一族の墓標として、置いておこうと思います」
かつて、血と悲しみに彩られた一族がいたのだと。
己を殺し、他人を殺し、そして最期は己の中の「人間」に殉じて死んでいく――そんな風にしか生きられなかった者たちがいたのだと。
父と母の声を借り、彼らは叫ぶ。
最期の暗殺者――護のしあわせを見届けてあげて。
そして、
しあわせになりなさい、譲……!
「帰りましょうか」
「……ええ」
雪彦の背中を追うように、譲は一歩を踏み出した。
大丈夫。
きっと彼らが守ってくれるから。
「貴方は、生きるのよ……!」
今はまだ届かない言葉を、譲は真っ赤なそらへと投げ上げた――。
Little trick, Much treat.
「Trick or Treat!」
突然眼前に出現したシーツをかぶった小柄な人影。護はその両腕に本を抱えたまま目をぱちくりとさせた。
「……彪さん? どうかなさったんですか? 寒気?」
「違う違う、これお化けなんだってば!」
相変わらずの澄んだ声が力強く主張する。
「今日はハロウィンでしょ。お菓子をくれないひとには悪戯してもいいんだって!」
「へえ、そういう行事があるんですか」
護はくすりと笑い、彪のかぶっているシーツをひらりとめくりあげた。
「では、僕にもお菓子を下さい。でないと」
「……でないと?」
彪のつぶらな瞳が瞬きを繰り返す。
「悪戯しますよ?」
「い……悪戯って?」
「宿題を10倍にするとか、紅茶に砂糖の代わりに塩を入れるとか」
「ひどいひどいひどいっ」
「冗談です」
青い目で睨みつけられ、護は早々に撤回した。
「でも面白いですね。その……ハロウィン、ですか?」
「でしょう? 護、僕にお菓子くれる?」
「お菓子……ですか。部屋に帰れば何かありますけど……」
あいにくと今は廊下。ポケットを探ってもキャンディひとつ入っていなかった。
「すみません、今は持ち合わせが……」
「じゃあ悪戯に決定ー!!」
「仕方ありません。でも、お手柔らかにお願いしますよ」性欲剤
苦笑する護を後目に、廊下を走っていく彪。その背中に翻るシーツが、まるで白く大きな羽のように見えた。
そして、十数分後。
「あれ?」
部屋に戻った護は首を傾げた。ソファに置いていたはずのシャツが一枚、なくなっている。
「どこかに仕舞ったのかな……」
つぶやきながらもお茶を飲もうとマグカップを探すが、それも見当たらない。いつもはサイドテーブルの上に置いてあるのだが……。
護はあたりを見回した。他にもなくなっているものがあるかもしれない――。ざっと確認した結果、ネクタイが一本とタイピンがひとつ、消え失せてしまっていた。
「おかしいですね……」
首をひねりながら寝室に通じるドアを開けた護は、小さく声をあげた。
「あ」
彼のベッドの上。
愛らしいが巨大なテディベアが、彼のシャツを着て、ネクタイを締め、タイピンを止めていた。足の間に挟むようにして固定されたマグカップからは甘いにおい――ホットチョコレートだろう。まだ、湯気が立っている。
護は小さく笑った。彪の悪戯とやらは、なんと大人しく可愛らしいのだろう。彪は悪戯するといいつつも、結局彼にホットチョコレートを振舞ってくれたわけだ。
ふだん必要以上に「いい子」であろうとする彪に、所詮大それたことなどできるはずもない。それでも、彪はせいいっぱいの悪戯を楽しんだのだろう。これもこころを許す護が相手だからこそ、できたことだ。
護は背を屈めてテディベアを覗きこみ、マグカップの下のメモに気付いた。彪の筆跡で走り書きがされている。
――今度はお菓子を忘れちゃだめだよ!
「はいはい、ただいま」
ホットチョコレートのお返しを、彼に。テディベアの赤みがかった茶色の瞳に映る彼は、穏やかに笑っていた。
閉ざされた瞳
彼は、今日も目覚めない。――いや、今日こそは目覚めるかもしれない。
僕は職務から解き放たれたお陰で有り余るこの時間を、眠り続ける彼の側で過ごすことに使っている。
かたく閉ざされた瞳が、いつか開くことを願いながら――。
彼は、最初から僕の特別だった。
彼はきっとそんなこととは知らなかっただろうし、そんなつもりもなかったに違いない。けれど、彼は最初から僕を名前で呼んだ。「彪」という名で――昔母親が呼んだきり、誰も呼ばなくなってしまった名で、呼んでくれた。殿下、とは呼ばなかった。
今ならわかる。僕が王子であることに彼が頓着しなかったのは、彼が僕という人間自身には何の興味もなかったからだ。「標的」の息子、あるいは「標的」を殺害するまでの間仕えるべき相手――その程度の認識に過ぎなかったのだと思う。
彼は、別に僕をかわいがったつもりもないのだろう。それなのに――いや、だからこそ、彼は僕の特別だったのだ。僕は、彼の特別ではなかったから。だからこそ、逆説的に、彼は僕の特別となった。
彼がいなくなってからの五年間、僕はいろいろと考えた。考え続けていた。何故、彼はわざわざ一年も前に王宮に送り込まれたのか。何故、たくさんの人間に顔を知られる危険性のある、王子の家庭教師などという役割を演じていたのか。彼のような暗殺者――職業的な殺人者にとって、一番望ましくないといっていい状況に、何故甘んじて身を置いたのか。
正確なところは分からない。彼は何も語らないし――彼の姉である彼女も、やはり語ろうとはしない。隠しているのではなく、彼女はそこまでの事情を知らないのだ。きっと、一番事情をよく知っている彼らの叔父――彼を殺そうとしたあの男も、何も語らない。当たり前だ、あの男は彼女が殺したのだから。
けれど、何となく想像することならできる。あの場で交わされた会話を元にして、類推する。――彼は、自らの母親を殺さなければならなかった。つまり、あの男は姉を彼に殺された。男は彼を恨み、そうして復讐を誓った。自らの手で、彼を殺そうと。だが、暗殺者は殺せない。殺せるときが来るとしたら、彼が暗殺者ではなくなってしまったとき。誰かを殺せなくなったとき、暗殺者は殺されるべき罪人となる。あの男はその時を待った。そのために――きっと、彼をここに放った。
あの男の思惑だけで物事が進んだとは思わない。けれど、あの男はずっとその機会を狙っていたのだ。彼が人間に戻る瞬間を。復讐を成し遂げる、その日を。
あの男が彼と僕と引き合わせることになったのは、偶然だったのだろうか。それとも――わからない。
彼の幼いころの境遇は、彼女に教えてもらった。とはいえ、彼女自身も彼とはほとんど会ったことがないというから、ほとんどが曖昧な情報に過ぎないものだった。女性用媚薬
彼の父親は、先代の暗殺者。母親は、その被害者の娘だった。彼は生まれてすぐに両親と引き離され、次代の暗殺者となるべく訓練を受けた。暗殺者は心を持ってはならない。暗殺者は誰かを愛してはならない。憎んではならない。ただ淡々と、依頼をこなし標的を殺し続けるのみ。
やがて、彼の父親が殺される日が来て――彼が父親の後を継ぐことになった。彼は暗殺者となるために、母親を殺した。自分に繋がる人を、彼の特別になり得る存在を、遺しておくわけにはいかないから。それなら、彼の双子の姉である彼女が見逃されたのは、どういう理由だったのか……それはわからない。生まれてすぐに離れて育ったから、という理由で見逃されたのか。それとも、彼女も何らかの駒として使われる予定だったのか。それとも、彼のスペアとして残されたのか……わからない。
とにかく、彼はそうして暗殺者になった。家族もなく、友人もなく、ただ淡々と生きた。生きながら、殺した。彼にとって、生きることは殺すことと同義だったのだ。殺したくなければ、死ぬしかなかった。けれど、彼は死ななかった。――そのことをどんなに僕が嬉しいと思っているか、彼はきっと知らないだろう。数々の死を生み出して彼が生きてきた、その結果僕と彼は出会った。
僕は罪深い人間だ。彼の殺した人々のことは痛ましいと思うし、遺された人々のことを思うと、胸のつぶれるような思いがする。それでも、代わりに彼が死ぬべきだったとは、決して思えないのだ。
たとえば、亡き父――父や祖父の時代には、戦争が行われていた。王の命令のもと、たくさんの兵士が戦地に向かい、敵を殺し、そして死んだ。兵士だけではない、民間人もだ。彼が殺したよりももっと多くの人々が、戦争に巻き込まれて死んだ。その死の罪は、誰にあるのだろうか。歴代の王にあるでのはないのか。それなら、彼は――暗殺者の殺人は、本当に暗殺者の罪なのだろうか。彼らに依頼した、殺意ある人々のものではないのか。暗殺者は、いわば銃であり、剣なのだ。そこに意思はない。彼らの意思は、「殺されて」――否、「眠らされて」いるのだから。彼らの意思が「目覚める」時、それはすなわち彼らが「死ぬ」時なのである。
――僕はただ、彼をかばいたいだけなのかもしれない。そう言われても、否定はできない。それでもいい。
世界中が彼の罪を糾弾したとしても、それでも僕は彼の味方でいたい。彼自身にはそのつもりはなかったとしても、あの一年間、彼は紛れもなく僕の父であり、兄であり、つまりは僕の家族だった。僕に家族を教えてくれたのは、家族を知らないはずの彼だったのだ。
「ありがとう」
僕はつぶやく。
「僕を殺さないでくれて、ありがとう」
あの時――父を殺したとき、彼は僕の言うままに僕を見逃してくれた。彼女の脅しもあったけれど、本当にあの時、彼は僕を殺せなかったのだろうか?
「約束を守ってくれて、ありがとう」
五年間、彼は僕を待っていてくれた。一体、どんな気持ちで過ごしていたのだろう。毎年誕生日に届けられた花を、彼は何を思って用意してくれていたのだろう。
そしてあの日、彼はどんな気持ちでここに来てくれたのだろう。
「――生きていてくれて、ありがとう」
失われていく体温と焦点を失う彼の瞳。青ざめた唇で、それでも貴方は僕を安心させようするかのように微笑んで。貴方の身体とそこから溢れる血を抱えて泣きじゃくる僕を見つめて、貴方はつぶやいた――死にたくない、と。
その一言こそが、貴方の本当の言葉だったんだと。生まれ落ちてから今まで、ずっと「他人を殺し続けること」と「自分が死に続けること」を強制されてきた貴方の、心からの一言。
だから、僕は貴方を死なせないと誓った。あの言葉がなければ――諦めていたのかもしれない、と思う。
彼の容態は落ち着いている。医師は、いつ目が覚めてもおかしくないといっていた。――ただし、目が覚めなくとも不思議はないと。意識なんてものはそんなにあやふやなものなのだと、僕は初めて知った。
僕にできることは、ただ信じて待つこと。彼が、僕の起こした革命を待っていてくれたように。
貴方がいつか目覚めたら、貴方は何と言うのだろう。
僕は貴方に何が言えるだろう。
貴方に見せたいものがたくさんある。この国の美しいものを、貴方には知って欲しい。貴方に辛い運命を課したこの国を、貴方がいつか愛せるように。
それに、会わせたい人もいる。貴方のお姉さんだけではなくて、貴方の過去を知ってなお貴方の生命を祈ってくれた、僕の同志たち。貴方がもう、孤独に生きなくとも済むように。
何よりも、僕は伝えたい――「おかえりなさい」、と。
――気のせいだろうか、彼がほんの少し、微笑っているような気がするんだ。
閉ざされた瞳の向こうで見る夢が、彼に優しいものでありますように。そうしてちゃんと、その夢が現実に続いていますように。中絶薬
僕はまた、夜明けに祈る。
墓地は広い。だが彼女は迷うこともなく真っ直ぐに前を見すえていた。入り口からどんどんと奥へ進み、密に立ち並んでいた墓標も疎らになってきたところまで来てようやく足を止める。辺りを見回す目は憂いを湛えた闇の色だった。精力剤
彼女の視線がとらえたのは、墓地の片隅――そこは他の場所とは違って、一種異様な雰囲気をたたえていた。墓標の影はなく、子供の身長ほどの高さの杭が地面に無数に突き立っている。――まるで吸血鬼を封じ込めているようだ、と彼女は思った。
墓標とは違って、杭の表面には何も記されていない。それでも彼女は目的の場所まで真っ直ぐに歩いて行った。二本、寄り添うように並んだ杭。
真一文字に弾き結ばれていた彼女の唇が、ようやくほころんだ。
「ここに来るのは何年ぶりかしらね……。お久しぶり――父さん、母さん」
彼女はひとつの杭の前に赤い花束を、もうひとつには白い花束を手向けた。
赤は父の色。そして、母は白の似合うひとだった。
体を起こした彼女は、振り向くこともなくつぶやいた。
「弟ほどじゃないけれど、私もある程度たしなみがあるんですよ――羽渡さん。素人の尾行ぐらいはすぐに気付きます」
「……すみません。尾行するつもりじゃなかったんですけど」
姿をみせたのは、彼女と同じくらいの年齢の男だった。
「あなたが王宮を出られたから、一体どこに行かれるのか気になって……」
羽渡、と呼ばれた男は不審そうに辺りを見回す。
「それにしても、ここは一体何なんですか? お墓……?」
彼女はふ、と笑った。
「ええ、墓地です」
「でも」
「埋葬されているのは――私の祖先たち。そして」
花束は風に煽られ、はらはらと揺れている。
「その杭は」
彼女の指差した先には、まだ真新しい杭が立っていた。
「私の弟のお墓になるはずだった場所……」
「…………」
男は口を噤んだ。たぶん――彼にはわかったのだろう。一体ここに眠っているのがどういった者たちなのか。何故彼らには墓標が与えられないのか。そのすべてを、了解したことだろう。
長い沈黙の後、男はぽつりとつぶやいた。
「僕も……」
彼女は振り返る。
「手を合わせても良いですか」
「……え」
「そこ、貴方のご両親のお墓なのでしょう?」
「…………」
「僕もお祈りして良いですか」
「……ええ」
彼女――氷雁譲は、微笑んだ。
羽渡雪彦がその一族について知ったのは、もう数年ほど前のことになる。血塗られた一族――暗殺を生業とする者――歴史の必要悪――だがそれはどれも彼らの真実の姿とは程遠かった。
一族の現当主とは、二度ほど会話を交わしたことがある。物腰の柔らかい、だがどこか重い空気をまとっていたあの男。鮮やかな赤い瞳と鋭利な美貌が印象的だった。
「弟さんの、容態は……?」
「安定はしています。でも、まだ意識は……」
譲は目を伏せる。
「そうですか……」
雪彦は目の前に並ぶふたつの杭をぼんやりと見上げた。先代の暗殺者の墓と、それに寄り添うように並んでいる墓。そして、少し離れて主のいない墓――今は、まだ。
雪彦の思考に気付いたのか、譲は小さくつぶやいた。
「本当は――あの子は、護はもう、生きていてはいけないのでは……」
「え?」
雪彦は驚いて振り向く。彼女は沈鬱な表情で目を伏せていた。その黒い服はまるで――まるで弟のための喪服のようで。雪彦はぶるりと体を震わせた。
「あの子は数え切れないほどたくさんのひとを殺してきました。いくら彪さんが許すと言っても、本当は許されないことでしょう。あの子には一生をかけても償えないほどの重い罪ですから……」
「…………」
「それでも、私はあの子の姉です。この世に同時に生まれてきた双子。もし彼がいなければ、今の彼の場所には私がいた」
譲は目を上げた。一瞬その瞳が赤く染まっているように見えて――だがそれは夕陽が映りこんでいるだけだった。雪彦はほっと息をつく。
「時々疑問に思うんです――もし私が彼だったら、私は彼と同じように決断できただろうか。自分が死んでもいいから、誰かを殺したくないと願えただろうか。自分で自分を取り戻すことができただろうか。暗殺者としての自分を捨て、人間に戻ることができただろうか……」
雪彦は声を失い、譲はそんな彼を見て弱々しく微笑んだ。
「わかりませんよね。自分ならそんな状況でどうしただろうかなんて。でも……」
譲は一歩踏み出し、真新しい杭に手を触れた。まるで誰かの頭をなでるように、そっと手を動かす。
「あの子はあの場で、その決断をした……」
「…………」
「私には判らない……あの子は、本当は最初から人間でありたいと願っていたのかもしれない。暗殺者であるように仕向けていたのは、私たちの一族の歴史と、そして――」
「この国の歴史、そのもの……」
譲の言葉を、雪彦が引き取った。彼女は静かに頷く。
雪彦は彼女の隣に立ち、そして優しい目で彼女の触れている杭を見つめた。
「譲さん。僕はずっと法務大臣を勤めてきました。その僕にも――彼は裁けない」
確かに彼はひとを殺した。だが、そのすべては依頼殺人――彼はただ、仲介者の受けてくる依頼をこなす人形のような存在だった。
歴史が彼を、いや彼らを人形に仕立て上げ、ひとを殺させた。媚薬
ではその歴史とは一体何だろう?
譲の脳裏に浮かんだ疑問に答えるように、雪彦は言葉を紡いだ。
「歴史とはひとの意思でありながらそれを超えた存在。連続的でありながら時に不連続なもの。方向性があるようでいて、しかしある時突然見失われてしまう。形はないけれど、我々は書物として手に取ることができる」
「まるで、人間のようね」
譲がぽつりとつぶやいた。雪彦はうなずく。
「そう――まさに歴史とは人間そのものだと思います。……結局、人間を殺させていたのは人間。暗殺者は最初から人間の中に存在していたのですよ」
「…………!!」
譲は弾かれたように雪彦の顔を見つめた。彼は静かに微笑んでいる。
「貴方たちの一族は人間です。最初から最後まで。ずうっと、人間だ」
――護は人間なんだよ。生まれてからずっと、人間であり続けているんだ。
脳裏に響くのは、今はもう王でなくなった少年の声。譲は目を閉じてそれを聞く。
――だって、護は泣いていたんだから……。
「羽渡さん」
「何です?」
「……ありがとう」
譲はつぶやいた。
この身に流れる血を呪ったこともあった――人間ではないとされる暗殺者を父に持つばかりか、それと血を分けて生まれてきた自分。確かに瞳の色にその「証」はない。だが、彼女だけがふつうの人間のような顔をして生きていていいのか……。
「いいえ。……すみません、こんなプライヴェートな場所についてきてしまって」
決まり悪げに頭をかく雪彦に、譲はくすりと笑った。
「構いませんよ。……もう、この場所は必要のないものですから」
暗殺者によって「しあわせ」を教えられた少年――彼によって道を変えた歴史はもう、暗殺者を必要としない。
「そうですね。あ、これ引っこ抜きましょうか」
雪彦は新しい杭に手を掛けた。
「……いえ、それは――」
譲は軽く首を横に振って雪彦をとどめた。
「私たちの一族の墓標として、置いておこうと思います」
かつて、血と悲しみに彩られた一族がいたのだと。
己を殺し、他人を殺し、そして最期は己の中の「人間」に殉じて死んでいく――そんな風にしか生きられなかった者たちがいたのだと。
父と母の声を借り、彼らは叫ぶ。
最期の暗殺者――護のしあわせを見届けてあげて。
そして、
しあわせになりなさい、譲……!
「帰りましょうか」
「……ええ」
雪彦の背中を追うように、譲は一歩を踏み出した。
大丈夫。
きっと彼らが守ってくれるから。
「貴方は、生きるのよ……!」
今はまだ届かない言葉を、譲は真っ赤なそらへと投げ上げた――。
Little trick, Much treat.
「Trick or Treat!」
突然眼前に出現したシーツをかぶった小柄な人影。護はその両腕に本を抱えたまま目をぱちくりとさせた。
「……彪さん? どうかなさったんですか? 寒気?」
「違う違う、これお化けなんだってば!」
相変わらずの澄んだ声が力強く主張する。
「今日はハロウィンでしょ。お菓子をくれないひとには悪戯してもいいんだって!」
「へえ、そういう行事があるんですか」
護はくすりと笑い、彪のかぶっているシーツをひらりとめくりあげた。
「では、僕にもお菓子を下さい。でないと」
「……でないと?」
彪のつぶらな瞳が瞬きを繰り返す。
「悪戯しますよ?」
「い……悪戯って?」
「宿題を10倍にするとか、紅茶に砂糖の代わりに塩を入れるとか」
「ひどいひどいひどいっ」
「冗談です」
青い目で睨みつけられ、護は早々に撤回した。
「でも面白いですね。その……ハロウィン、ですか?」
「でしょう? 護、僕にお菓子くれる?」
「お菓子……ですか。部屋に帰れば何かありますけど……」
あいにくと今は廊下。ポケットを探ってもキャンディひとつ入っていなかった。
「すみません、今は持ち合わせが……」
「じゃあ悪戯に決定ー!!」
「仕方ありません。でも、お手柔らかにお願いしますよ」性欲剤
苦笑する護を後目に、廊下を走っていく彪。その背中に翻るシーツが、まるで白く大きな羽のように見えた。
そして、十数分後。
「あれ?」
部屋に戻った護は首を傾げた。ソファに置いていたはずのシャツが一枚、なくなっている。
「どこかに仕舞ったのかな……」
つぶやきながらもお茶を飲もうとマグカップを探すが、それも見当たらない。いつもはサイドテーブルの上に置いてあるのだが……。
護はあたりを見回した。他にもなくなっているものがあるかもしれない――。ざっと確認した結果、ネクタイが一本とタイピンがひとつ、消え失せてしまっていた。
「おかしいですね……」
首をひねりながら寝室に通じるドアを開けた護は、小さく声をあげた。
「あ」
彼のベッドの上。
愛らしいが巨大なテディベアが、彼のシャツを着て、ネクタイを締め、タイピンを止めていた。足の間に挟むようにして固定されたマグカップからは甘いにおい――ホットチョコレートだろう。まだ、湯気が立っている。
護は小さく笑った。彪の悪戯とやらは、なんと大人しく可愛らしいのだろう。彪は悪戯するといいつつも、結局彼にホットチョコレートを振舞ってくれたわけだ。
ふだん必要以上に「いい子」であろうとする彪に、所詮大それたことなどできるはずもない。それでも、彪はせいいっぱいの悪戯を楽しんだのだろう。これもこころを許す護が相手だからこそ、できたことだ。
護は背を屈めてテディベアを覗きこみ、マグカップの下のメモに気付いた。彪の筆跡で走り書きがされている。
――今度はお菓子を忘れちゃだめだよ!
「はいはい、ただいま」
ホットチョコレートのお返しを、彼に。テディベアの赤みがかった茶色の瞳に映る彼は、穏やかに笑っていた。
閉ざされた瞳
彼は、今日も目覚めない。――いや、今日こそは目覚めるかもしれない。
僕は職務から解き放たれたお陰で有り余るこの時間を、眠り続ける彼の側で過ごすことに使っている。
かたく閉ざされた瞳が、いつか開くことを願いながら――。
彼は、最初から僕の特別だった。
彼はきっとそんなこととは知らなかっただろうし、そんなつもりもなかったに違いない。けれど、彼は最初から僕を名前で呼んだ。「彪」という名で――昔母親が呼んだきり、誰も呼ばなくなってしまった名で、呼んでくれた。殿下、とは呼ばなかった。
今ならわかる。僕が王子であることに彼が頓着しなかったのは、彼が僕という人間自身には何の興味もなかったからだ。「標的」の息子、あるいは「標的」を殺害するまでの間仕えるべき相手――その程度の認識に過ぎなかったのだと思う。
彼は、別に僕をかわいがったつもりもないのだろう。それなのに――いや、だからこそ、彼は僕の特別だったのだ。僕は、彼の特別ではなかったから。だからこそ、逆説的に、彼は僕の特別となった。
彼がいなくなってからの五年間、僕はいろいろと考えた。考え続けていた。何故、彼はわざわざ一年も前に王宮に送り込まれたのか。何故、たくさんの人間に顔を知られる危険性のある、王子の家庭教師などという役割を演じていたのか。彼のような暗殺者――職業的な殺人者にとって、一番望ましくないといっていい状況に、何故甘んじて身を置いたのか。
正確なところは分からない。彼は何も語らないし――彼の姉である彼女も、やはり語ろうとはしない。隠しているのではなく、彼女はそこまでの事情を知らないのだ。きっと、一番事情をよく知っている彼らの叔父――彼を殺そうとしたあの男も、何も語らない。当たり前だ、あの男は彼女が殺したのだから。
けれど、何となく想像することならできる。あの場で交わされた会話を元にして、類推する。――彼は、自らの母親を殺さなければならなかった。つまり、あの男は姉を彼に殺された。男は彼を恨み、そうして復讐を誓った。自らの手で、彼を殺そうと。だが、暗殺者は殺せない。殺せるときが来るとしたら、彼が暗殺者ではなくなってしまったとき。誰かを殺せなくなったとき、暗殺者は殺されるべき罪人となる。あの男はその時を待った。そのために――きっと、彼をここに放った。
あの男の思惑だけで物事が進んだとは思わない。けれど、あの男はずっとその機会を狙っていたのだ。彼が人間に戻る瞬間を。復讐を成し遂げる、その日を。
あの男が彼と僕と引き合わせることになったのは、偶然だったのだろうか。それとも――わからない。
彼の幼いころの境遇は、彼女に教えてもらった。とはいえ、彼女自身も彼とはほとんど会ったことがないというから、ほとんどが曖昧な情報に過ぎないものだった。女性用媚薬
彼の父親は、先代の暗殺者。母親は、その被害者の娘だった。彼は生まれてすぐに両親と引き離され、次代の暗殺者となるべく訓練を受けた。暗殺者は心を持ってはならない。暗殺者は誰かを愛してはならない。憎んではならない。ただ淡々と、依頼をこなし標的を殺し続けるのみ。
やがて、彼の父親が殺される日が来て――彼が父親の後を継ぐことになった。彼は暗殺者となるために、母親を殺した。自分に繋がる人を、彼の特別になり得る存在を、遺しておくわけにはいかないから。それなら、彼の双子の姉である彼女が見逃されたのは、どういう理由だったのか……それはわからない。生まれてすぐに離れて育ったから、という理由で見逃されたのか。それとも、彼女も何らかの駒として使われる予定だったのか。それとも、彼のスペアとして残されたのか……わからない。
とにかく、彼はそうして暗殺者になった。家族もなく、友人もなく、ただ淡々と生きた。生きながら、殺した。彼にとって、生きることは殺すことと同義だったのだ。殺したくなければ、死ぬしかなかった。けれど、彼は死ななかった。――そのことをどんなに僕が嬉しいと思っているか、彼はきっと知らないだろう。数々の死を生み出して彼が生きてきた、その結果僕と彼は出会った。
僕は罪深い人間だ。彼の殺した人々のことは痛ましいと思うし、遺された人々のことを思うと、胸のつぶれるような思いがする。それでも、代わりに彼が死ぬべきだったとは、決して思えないのだ。
たとえば、亡き父――父や祖父の時代には、戦争が行われていた。王の命令のもと、たくさんの兵士が戦地に向かい、敵を殺し、そして死んだ。兵士だけではない、民間人もだ。彼が殺したよりももっと多くの人々が、戦争に巻き込まれて死んだ。その死の罪は、誰にあるのだろうか。歴代の王にあるでのはないのか。それなら、彼は――暗殺者の殺人は、本当に暗殺者の罪なのだろうか。彼らに依頼した、殺意ある人々のものではないのか。暗殺者は、いわば銃であり、剣なのだ。そこに意思はない。彼らの意思は、「殺されて」――否、「眠らされて」いるのだから。彼らの意思が「目覚める」時、それはすなわち彼らが「死ぬ」時なのである。
――僕はただ、彼をかばいたいだけなのかもしれない。そう言われても、否定はできない。それでもいい。
世界中が彼の罪を糾弾したとしても、それでも僕は彼の味方でいたい。彼自身にはそのつもりはなかったとしても、あの一年間、彼は紛れもなく僕の父であり、兄であり、つまりは僕の家族だった。僕に家族を教えてくれたのは、家族を知らないはずの彼だったのだ。
「ありがとう」
僕はつぶやく。
「僕を殺さないでくれて、ありがとう」
あの時――父を殺したとき、彼は僕の言うままに僕を見逃してくれた。彼女の脅しもあったけれど、本当にあの時、彼は僕を殺せなかったのだろうか?
「約束を守ってくれて、ありがとう」
五年間、彼は僕を待っていてくれた。一体、どんな気持ちで過ごしていたのだろう。毎年誕生日に届けられた花を、彼は何を思って用意してくれていたのだろう。
そしてあの日、彼はどんな気持ちでここに来てくれたのだろう。
「――生きていてくれて、ありがとう」
失われていく体温と焦点を失う彼の瞳。青ざめた唇で、それでも貴方は僕を安心させようするかのように微笑んで。貴方の身体とそこから溢れる血を抱えて泣きじゃくる僕を見つめて、貴方はつぶやいた――死にたくない、と。
その一言こそが、貴方の本当の言葉だったんだと。生まれ落ちてから今まで、ずっと「他人を殺し続けること」と「自分が死に続けること」を強制されてきた貴方の、心からの一言。
だから、僕は貴方を死なせないと誓った。あの言葉がなければ――諦めていたのかもしれない、と思う。
彼の容態は落ち着いている。医師は、いつ目が覚めてもおかしくないといっていた。――ただし、目が覚めなくとも不思議はないと。意識なんてものはそんなにあやふやなものなのだと、僕は初めて知った。
僕にできることは、ただ信じて待つこと。彼が、僕の起こした革命を待っていてくれたように。
貴方がいつか目覚めたら、貴方は何と言うのだろう。
僕は貴方に何が言えるだろう。
貴方に見せたいものがたくさんある。この国の美しいものを、貴方には知って欲しい。貴方に辛い運命を課したこの国を、貴方がいつか愛せるように。
それに、会わせたい人もいる。貴方のお姉さんだけではなくて、貴方の過去を知ってなお貴方の生命を祈ってくれた、僕の同志たち。貴方がもう、孤独に生きなくとも済むように。
何よりも、僕は伝えたい――「おかえりなさい」、と。
――気のせいだろうか、彼がほんの少し、微笑っているような気がするんだ。
閉ざされた瞳の向こうで見る夢が、彼に優しいものでありますように。そうしてちゃんと、その夢が現実に続いていますように。中絶薬
僕はまた、夜明けに祈る。
2014年6月10日星期二
赤い消失
一騎の葬式の後、草摩は熱を出して倒れた。
「疲れが出たんでしょう」
桐生はベッドの上の草摩に優しく微笑む。草摩の額には冷たいタオルが掛けられていた。蟻力神
確かに、あの時の草摩は精神的に限界を迎えていたように思われる。受験勉強で疲労を蓄積していた上、合格してからも喜びに浸る間もなく手続きに奔走しているうちに、たった一人の家族である父を失った……。
「仕事は?」
嗄れた喉からそう尋ねると、桐生は首を横に振った。
「少し遅刻していきます」
「……遅刻、するなよ」
息をきらしながら、草摩は桐生を軽く睨む。
「父さんは、俺が熱出したってちゃんと仕事に行ってたぜ」
「僕は貴方のお父さんじゃないですからねえ」
桐生は煙に巻くようなことを呟き、寝汗に濡れた草摩の髪をそっと撫でた。
「今日はゆっくり寝ることですよ。何も考えずにね」
「……うん」
草摩は深い溜息を漏らした。
目を閉じると側にいるはずの桐生の気配が感じ取れず、不安になって目を開けてしまう。それを何度か繰り返しているうちに、
「眠れませんか?」
と問われた。草摩は困ったように眉を寄せる。
「お前って本当にいるのかいないのか、良く分かんないんだよな」
「……え?」
「なんか……変な感じ。眼をつぶると消えてしまいそうで……」
非科学的なことは信じない草摩だが、この桐生に関しては例外もあるかもしれないと思ってしまう。本人は笑って否定しそうだが、それが余計に疑惑を生むのだ。深い闇色の瞳は、その淵に草摩には知り得ないものを隠しているような……。
「消えたりしませんよ」
布団から突き出した草摩の熱っぽい手に、桐生は自分の手の平を当てた。ひんやりとしていて心地いい。
「眼を閉じて」
言われて、草摩は素直に瞼を閉じる。触れている手の感触から、確かに桐生の存在が感じ取れた。
「消えないでしょう?」
柔らかな桐生の声に、草摩はこくりと頷いた。声はそのまま穏やかに続ける。
「眼に見えることだけが全てじゃないし――眼に見えないことだから嘘というわけでもない」
「え……?」
「手で掴んでみないとわからないことというのは沢山あるんですよ、草摩君」
「何言ってんの? お前……」
戸惑って眼を開けると、桐生は相変わらず微笑していた。その笑みが、ゆらりと揺れて……崩れて……。
――真っ赤に染まる。
「――――ッ!!」
声にならない叫びとともに、草摩は目を覚ました。
「草摩君……」
側にいたのは桐生ではなく、佳世。
「大丈夫?」
「……あ……」
ゆっくりと、草摩の認識に昨夜の出来事が甦ってくる。――桐生が血を吐いて……倒れていた――。
「桐生……桐生は?!」
草摩はベッドから起き上がり、佳世を問い詰める。
「…………」
佳世は蒼白な顔で、口を開く。
「それが……どこにも……」
「……え?」
「桐生さんがいなくなったの……」
佳世は眼に涙を溜めていた。
「昨日の夜……慧一さんが貴方をここに運んできて……」
言われて初めて気がついたが、草摩が寝かされていたのは慧一と佳世の寝室らしい。佳世は口元に震える手を当てて言葉を続ける。
「慧一さんが、『桐生さんが殺された』って言って……。警察に連絡とって、辰巳さんと島原さんも起こして……慧一さんと三人で、もう一度桐生さんの部屋を見に行ったのよ。そうしたら、誰もいなくなっていたって……」
「…………」
「警察も探しているんだけど……。貴方が起きたら、貴方からも話を聞きたいそうよ」
「…………」
途中から、草摩の耳には入っていなかった。
――桐生が殺された……?
その言葉だけが頭を渦巻いている。
「そんな、馬鹿な……」
そんなこと、あるはずがない。
――桐生の唇から流れていた血――。
そんなこと、あるはずが……。
――父の腹から流れていた血――。
そして、父は死んだ……。
「草摩君!」
草摩は前のめりに体を折った。自分の膝に頭を埋める様に体を臥す。搾り出すように呟いた。
「桐生が死んだって……、でも、死体なんて見つかっていないでしょう?」
「ええ……。今この館中探しているわ。それなのに見つかっていない」
「…………」
「慧一さんも桐生さんが倒れているところは見ているし……たとえ一人で外へ出たとしても、私たちに助けを求めるのが普通じゃないかしら」三便宝カプセル
「…………」
「そうじゃないなら、誰かに連れ去られたとか……」
「でも……」
草摩は無理やりに感情を抑え、口を開いた。
「はじめはチェーンロックがかかってたんですよ? 後で行った時には外されていたんですか?」
「そうらしいの」
草摩はぞっとした。
「……ってことは、あの時はまだ犯人は中にいた……?」
「そうかもしれない。でも、草摩君をここに運んだ後は慧一さんが頼んで辰巳さんには北の玄関を見張っておいてもらったのよ。他に出入りできる場所はないわ」
「友早と眞由美さんは?」
「眞由美さんは朝まで起きてこなくて……、今は友早と一緒に彼の部屋にいる。友早は昨晩一歩も自分の部屋を出ていないって」
「…………」
「警察は自殺を疑っているらしいんだけど、それにしても本人がいなくなるなんて……」
「そんなわけない!」
佳世の声をさえぎり、草摩は叫んだ。
「あいつが自殺なんて……そんなわけありません!」
――俺を遺して……桐生が死ぬ訳なんてない。そんなこと、あり得ない。
「草摩君……」
佳世の差し伸べた手には縋らずに草摩は眼を閉じた。夢で見た、桐生の手の感触がまだ残っている。それが消えてしまわないうちに……。
「草摩君?」
ベッドから降り立つ草摩に、佳世が声を掛ける。草摩は小さく、しかし力強く呟いた。
「俺は桐生を探します」
「…………」
佳世は息を飲む。彼の雰囲気は、事件に立ち向かう時の兄にそっくりだった。
「俺は……」
この手に触れてみるまでは――彼の表情が暗く、鋭さを持って硬化する。
草摩は窓の外を見つめた。
「俺は、信じない」
友早の部屋のベッドの上で、眞由美は膝を抱えている。
「どういうことなの……?」
小さな声に、友早は椅子を回して振り向いた。
「…………」
一瞬口を開きかけたものの、思い直したようにまた閉じてしまう。
「千影さん……こ、殺されたの?」
「本人が見つからないことには、それも分からねえよ」
「どういうこと?」
「どこにもいねえんだ。桐生さん」
眞由美は大きく目を見開いた。
「いないって……?」
「生きてるにしろ死んでるにしろ……、どこにいるのか分からない」
「生きてるなら、私たちの前に出てくるはずでしょう?」
「そうだな」
「じゃあ……殺されて、運ばれた?」
「どこに? っていうか誰に。あの人、身長百八十センチ超えてるんだぜ。細いけど、それなりに重いだろ」
「それもそうよね……」
友早は溜息と共に言葉を吐き出した。
「俺は……草摩が心配だ」
「え?」
「あいつ、親父さん亡くしたばっかりだぜ? ショックだろ……」
「うん、そうね……」
眞由美は視線を逸らし頷く。
そのとき、ノックの音に続いて部屋の扉が開いた。振り向いたふたりの視線の先に、佳世が佇んでいる。
「ちょっといいかしら」
「母さん……」
友早がぽつりと呟くと、佳世は自分の後ろに立つ草摩を中に通した。そのまま、佳世は再び扉を閉める。
「草摩」
「七条君……」
異口同音に二人は名を呼んだ。
「ごめん。少し話を聞きたいんだ」
顔は青ざめているが、草摩の態度は毅然としている。友早は一騎の葬儀のときの草摩を思い出した。あの時の彼も今と同じような表情で……その背後には桐生が立っていた。
草摩は部屋を真っ直ぐ横切り、眞由美の横に腰を下ろした。
「昨日寝たの、何時だった?」
「あ……私?」
眞由美は眉を寄せて考える。
「えっと……東さんに案内されて部屋に来て……、シャワーを浴びてすぐだったから、十時過ぎくらいかしら」
「下に降りて行くつもりじゃなかったのか?」
友早に尋ねられ、眞由美は頷く。
「そうなんだけど……、何だか急に眠くなったのよ」
「急に?」
「そう……」
草摩は何かを思い出そうとするように、額に手を当てた。
「もしかしてそれは水差しの水を飲んでから?」
「え?」
友早が聞き返すが、草摩は答えない。眞由美はしばらく眉を寄せて考えた後、
「そういえば、水は飲んだわね……」
「そうか」
草摩は立ちあがった。
「どこ行くんだ?」
腰を浮かせる友早に、草摩は告げる。
「眞由美さんの部屋の水。調べてもらうんだよ」
「けど、あれは……」
「叔母さんか叔父さんが入れ替えてる、そんなことわかってるよ。でも、もし眞由美さんの水に睡眠薬を混ぜようと思ったら簡単なことだろ?」五便宝
「何?」
「水差しが載ってたのはマントルピースの上。窓際だ。眞由美さんの部屋は三階だし、バルコニーもないけど、大型の梯子か何か使えば」
「眞由美の部屋の窓、閉まってたか?」
「……わかんない。確認しなかったもの」
友早は草摩を怪訝そうに見つめる。
「そもそも大型の梯子なんてうちにはなかったと思うけど……」
草摩は無表情でぽつりと言った。
「だとしたら、叔父さんか叔母さんが入れたのかもな」
「……おい!」
怒気を含んだ声で、友早が言う。
「お前、言っていいことと悪いことがあるんだぜ」
「ちょっと、友早!」
眞由美が横から友早を抑える。
「草摩君がしているのは、ただの可能性の話よ。そうでしょ?」
草摩は軽く頷く。その眼は友早を見ていない。
「梯子だって、友早が知らないだけでどこかにあるのかもしれないし、外から運んでくることだってできるかもしれないわ。ほら、トラックとかワゴンとかに載せてきて、もしかしたら桐生さんの体もそれで運んだのかも」
「……なるほどね。可能性は十分ある」
草摩は落ち着き払って呟く。その様を見ていた友早が、軽く咳ばらいをした。
「お前……もしかして、桐生さんを殺した犯人を探すつもり……」
「違う」
草摩は鋭い目線を向けた。
「俺は、桐生を探すだけだ」
N県警から派遣された伊吹要(いぶきかなめ)警部は、被害者と目されている桐生千影の部屋に佇んでいた。開かれた扉からは、青い光が洩れている。
――変わった建物だ。伊吹はそう思う。朝なのにどこも薄暗く、光のささない廊下にはそれぞれの色のライトが灯っている。初めてここに来た彼は、相当面食らっていた。
「伊吹君」
声に振り向くと、慧一が立っていた。
「東本部長。何か?」
伊吹は心中でため息をついた。彼に気を遣わなければならないせいで、捜査がやりにくい。慧一は、気遣うことはない、早く解決することだけを考えろというが、警察組織のような縦社会ではそうはいかない。それでも他の警察幹部より慧一は随分協力的だと思う。捜査員が自分の別荘に上がり込んで荒らしても、文句一つ言わない。捜査のためなのだから当たり前なのだが、そうはいかないのが現実というものだ。
慧一は暗い表情で言った。
「草摩君が目を覚ましたようだ。こちらに来ると言っている。話を聞くだろう?」
「はい」
伊吹が頷くと、慧一は眼をそらして呟く。
「草摩君の名字で、思い出すことはないか」
「…………」
伊吹は先ほど渡された関係者のリストを思い出した。
「七条……草摩」
はっと息を呑む。
「もしや、あの……」
「そうだ。あの七条君の息子さんだよ」
「…………」
「もし桐生君がどうかなっていたら……父親に続いて新しい保護者も失ってしまうことになる」
「失礼ですが、お母様は……」
「早くに亡くなっている」
「……そうですか」
伊吹の表情は変わらない。どんなに残酷な事件を担当しようとも、彼はその眉を少し寄せるだけの反応しか見せない。冷たい男なのかと思えば、そうでもない。遺族と接する時には非常に細やかな気遣いを見せる。本来豊かな感情は、警察官としての自分を保つために押し殺しているのだ。
かすかな靴音とともに、ドアから草摩が姿を見せた。
「叔父さん」
「草摩君」
振りかえった慧一が彼を側に呼ぶ。VigRx
「彼がこの件の担当の伊吹警部だ」
無言で伊吹が会釈すると、草摩も黙ったまま頭を下げた。
伊吹は手早く草摩という少年を観察する。この春から大学生になると聞いていた。年齢相応の外見だと思うが、眼だけが違う。爆発させようと待ち構えて煮えたぎっている火口のような、不思議な色合いだ。
「…………」
草摩は伊吹に話しかけることなく、窓辺に歩み寄った。
「鍵。かかってますね」
誰に聞かせるつもりもないように、草摩は呟く。伊吹は彼の方へと歩きながら、
「ああ。鍵に触った形跡もない」
うっすらと溜まった埃の色に濃淡はなかった。
伊吹の方を初めて真っ直ぐ見つめ、草摩は口を開いた。
「眞由美さん――須藤さんが一つ仮説を話していたんです。でも……これならあり得ないですね」
「仮説?」
伊吹が軽く眉をひそめると、草摩は頷いて説明した。
「大きな梯子を使ったんじゃないかって」
「梯子?」
「あ、そうだ叔父さん」
草摩は黙って彼らを見ていた慧一に声を掛けた。
「何だ?」
「眞由美さんの部屋の水。調べてもらってください。睡眠薬が入っていたかもしれないから」
「なんだって?」
声をあげたのは伊吹だった。
「何故そんなことを?」
「…………」
草摩は軽く手を顎に当てた。視線は部屋の隅に置かれた窓際のマントルピースに向けられている。
「昨晩、眞由美さんは途中でシャワーを浴びに行きました。友早と……桐生も一緒に」
桐生、と口に出した瞬間、草摩の顔が歪む。しかし、口調の冷静さは変わらなかった。
「そのとき、また戻ってくるって俺たちに言っていたんですよ。それに、時間もまだ早かった。眞由美さんは、シャワーを浴びて水を飲んだら、途端に眠くなったと言っていました」
「疲れが出たのかもしれんよ?」
慧一の声に、草摩は首を横に振る。
「それだけじゃないと思います。……俺、昨日ここで倒れた桐生を見て叫んだのを覚えているんです。それも、かなり大声で。それに壁とかドアとか殴ったし、相当大きな音がしたと思うんですよ。でも、眞由美さんはちっとも気付かなかった。同じ階にいたのに」
「…………」
「あの後、それなりに大騒ぎになったでしょう? でも眞由美さんは朝まで起きてこなかった」
「……しかし」
「お願いします。叔父さん」
草摩の気迫に押されたように、慧一は伊吹に頷いて見せた。
「分かりました。調べてみましょう」
「ああ。……私が行ってくる。伊吹君はここにいたまえ」
「はい」
慧一がドアから出るのを見送って、伊吹は再び草摩に尋ねた。慧一がいない方が話しやすい。
「さっきの、梯子を使った仮説……というのは?」
「あ、はい」
草摩は窓の外に視線を投げる。
「眞由美さんの水差しに薬が入っていたとして……、梯子を使えば窓の外からでも入れられますよね」
「まあ、そうだが……」
「それから、桐生が消えたのも窓から運んだと考えれば……。混乱させるために内鍵を外しておいて」
「む……」
伊吹はこめかみに指を当てた。
「面白い仮定だとは思うが、やはりこの窓が閉まっていることを考えれば……」
「そうですね」
「それに、誰がどこの部屋に泊まるかなど、外部の人間は知らないはずだろう」
「それをいえば、桐生がここに来ることを知っていた人なんて、部外者にはいないはずなんですよ」
「……内部の人間の犯行か……? しかし……」
伊吹は溜息をついた。
確かに、この部屋には東家のものと思われる指紋しかなかった。桐生の指紋がほとんど検出されなかったのはどういうわけだか……彼には良く分からない。
だが、慧一や佳世は、草摩の親戚であり県警本部長とその妻である。友早は草摩の従兄。さらに、自分の彼女に睡眠薬を盛るとは考えにくい。辰巳や島原は桐生とは初対面で、しかも警察関係者である。警察関係者だからといって罪を犯さないとは思わないが、自分の上司の別荘で実行するだろうか。いや、むしろ桐生という男との接点が全くない。
草摩は――論外だ。伊吹は確信を持ってそう断定した。
「やはり……外部の犯行と仮定した方が良さそうだな……」
「ええ……疑わしい人がいなさ過ぎます」
草摩は部屋にかかった時計を眺めながら、
「桐生を部屋に案内したのは……」
「本部長だ。時間は午後九時半くらいだったと言っている」
それを聞いて少し視線を落とし、考えこむ。巨人倍増
「疲れが出たんでしょう」
桐生はベッドの上の草摩に優しく微笑む。草摩の額には冷たいタオルが掛けられていた。蟻力神
確かに、あの時の草摩は精神的に限界を迎えていたように思われる。受験勉強で疲労を蓄積していた上、合格してからも喜びに浸る間もなく手続きに奔走しているうちに、たった一人の家族である父を失った……。
「仕事は?」
嗄れた喉からそう尋ねると、桐生は首を横に振った。
「少し遅刻していきます」
「……遅刻、するなよ」
息をきらしながら、草摩は桐生を軽く睨む。
「父さんは、俺が熱出したってちゃんと仕事に行ってたぜ」
「僕は貴方のお父さんじゃないですからねえ」
桐生は煙に巻くようなことを呟き、寝汗に濡れた草摩の髪をそっと撫でた。
「今日はゆっくり寝ることですよ。何も考えずにね」
「……うん」
草摩は深い溜息を漏らした。
目を閉じると側にいるはずの桐生の気配が感じ取れず、不安になって目を開けてしまう。それを何度か繰り返しているうちに、
「眠れませんか?」
と問われた。草摩は困ったように眉を寄せる。
「お前って本当にいるのかいないのか、良く分かんないんだよな」
「……え?」
「なんか……変な感じ。眼をつぶると消えてしまいそうで……」
非科学的なことは信じない草摩だが、この桐生に関しては例外もあるかもしれないと思ってしまう。本人は笑って否定しそうだが、それが余計に疑惑を生むのだ。深い闇色の瞳は、その淵に草摩には知り得ないものを隠しているような……。
「消えたりしませんよ」
布団から突き出した草摩の熱っぽい手に、桐生は自分の手の平を当てた。ひんやりとしていて心地いい。
「眼を閉じて」
言われて、草摩は素直に瞼を閉じる。触れている手の感触から、確かに桐生の存在が感じ取れた。
「消えないでしょう?」
柔らかな桐生の声に、草摩はこくりと頷いた。声はそのまま穏やかに続ける。
「眼に見えることだけが全てじゃないし――眼に見えないことだから嘘というわけでもない」
「え……?」
「手で掴んでみないとわからないことというのは沢山あるんですよ、草摩君」
「何言ってんの? お前……」
戸惑って眼を開けると、桐生は相変わらず微笑していた。その笑みが、ゆらりと揺れて……崩れて……。
――真っ赤に染まる。
「――――ッ!!」
声にならない叫びとともに、草摩は目を覚ました。
「草摩君……」
側にいたのは桐生ではなく、佳世。
「大丈夫?」
「……あ……」
ゆっくりと、草摩の認識に昨夜の出来事が甦ってくる。――桐生が血を吐いて……倒れていた――。
「桐生……桐生は?!」
草摩はベッドから起き上がり、佳世を問い詰める。
「…………」
佳世は蒼白な顔で、口を開く。
「それが……どこにも……」
「……え?」
「桐生さんがいなくなったの……」
佳世は眼に涙を溜めていた。
「昨日の夜……慧一さんが貴方をここに運んできて……」
言われて初めて気がついたが、草摩が寝かされていたのは慧一と佳世の寝室らしい。佳世は口元に震える手を当てて言葉を続ける。
「慧一さんが、『桐生さんが殺された』って言って……。警察に連絡とって、辰巳さんと島原さんも起こして……慧一さんと三人で、もう一度桐生さんの部屋を見に行ったのよ。そうしたら、誰もいなくなっていたって……」
「…………」
「警察も探しているんだけど……。貴方が起きたら、貴方からも話を聞きたいそうよ」
「…………」
途中から、草摩の耳には入っていなかった。
――桐生が殺された……?
その言葉だけが頭を渦巻いている。
「そんな、馬鹿な……」
そんなこと、あるはずがない。
――桐生の唇から流れていた血――。
そんなこと、あるはずが……。
――父の腹から流れていた血――。
そして、父は死んだ……。
「草摩君!」
草摩は前のめりに体を折った。自分の膝に頭を埋める様に体を臥す。搾り出すように呟いた。
「桐生が死んだって……、でも、死体なんて見つかっていないでしょう?」
「ええ……。今この館中探しているわ。それなのに見つかっていない」
「…………」
「慧一さんも桐生さんが倒れているところは見ているし……たとえ一人で外へ出たとしても、私たちに助けを求めるのが普通じゃないかしら」三便宝カプセル
「…………」
「そうじゃないなら、誰かに連れ去られたとか……」
「でも……」
草摩は無理やりに感情を抑え、口を開いた。
「はじめはチェーンロックがかかってたんですよ? 後で行った時には外されていたんですか?」
「そうらしいの」
草摩はぞっとした。
「……ってことは、あの時はまだ犯人は中にいた……?」
「そうかもしれない。でも、草摩君をここに運んだ後は慧一さんが頼んで辰巳さんには北の玄関を見張っておいてもらったのよ。他に出入りできる場所はないわ」
「友早と眞由美さんは?」
「眞由美さんは朝まで起きてこなくて……、今は友早と一緒に彼の部屋にいる。友早は昨晩一歩も自分の部屋を出ていないって」
「…………」
「警察は自殺を疑っているらしいんだけど、それにしても本人がいなくなるなんて……」
「そんなわけない!」
佳世の声をさえぎり、草摩は叫んだ。
「あいつが自殺なんて……そんなわけありません!」
――俺を遺して……桐生が死ぬ訳なんてない。そんなこと、あり得ない。
「草摩君……」
佳世の差し伸べた手には縋らずに草摩は眼を閉じた。夢で見た、桐生の手の感触がまだ残っている。それが消えてしまわないうちに……。
「草摩君?」
ベッドから降り立つ草摩に、佳世が声を掛ける。草摩は小さく、しかし力強く呟いた。
「俺は桐生を探します」
「…………」
佳世は息を飲む。彼の雰囲気は、事件に立ち向かう時の兄にそっくりだった。
「俺は……」
この手に触れてみるまでは――彼の表情が暗く、鋭さを持って硬化する。
草摩は窓の外を見つめた。
「俺は、信じない」
友早の部屋のベッドの上で、眞由美は膝を抱えている。
「どういうことなの……?」
小さな声に、友早は椅子を回して振り向いた。
「…………」
一瞬口を開きかけたものの、思い直したようにまた閉じてしまう。
「千影さん……こ、殺されたの?」
「本人が見つからないことには、それも分からねえよ」
「どういうこと?」
「どこにもいねえんだ。桐生さん」
眞由美は大きく目を見開いた。
「いないって……?」
「生きてるにしろ死んでるにしろ……、どこにいるのか分からない」
「生きてるなら、私たちの前に出てくるはずでしょう?」
「そうだな」
「じゃあ……殺されて、運ばれた?」
「どこに? っていうか誰に。あの人、身長百八十センチ超えてるんだぜ。細いけど、それなりに重いだろ」
「それもそうよね……」
友早は溜息と共に言葉を吐き出した。
「俺は……草摩が心配だ」
「え?」
「あいつ、親父さん亡くしたばっかりだぜ? ショックだろ……」
「うん、そうね……」
眞由美は視線を逸らし頷く。
そのとき、ノックの音に続いて部屋の扉が開いた。振り向いたふたりの視線の先に、佳世が佇んでいる。
「ちょっといいかしら」
「母さん……」
友早がぽつりと呟くと、佳世は自分の後ろに立つ草摩を中に通した。そのまま、佳世は再び扉を閉める。
「草摩」
「七条君……」
異口同音に二人は名を呼んだ。
「ごめん。少し話を聞きたいんだ」
顔は青ざめているが、草摩の態度は毅然としている。友早は一騎の葬儀のときの草摩を思い出した。あの時の彼も今と同じような表情で……その背後には桐生が立っていた。
草摩は部屋を真っ直ぐ横切り、眞由美の横に腰を下ろした。
「昨日寝たの、何時だった?」
「あ……私?」
眞由美は眉を寄せて考える。
「えっと……東さんに案内されて部屋に来て……、シャワーを浴びてすぐだったから、十時過ぎくらいかしら」
「下に降りて行くつもりじゃなかったのか?」
友早に尋ねられ、眞由美は頷く。
「そうなんだけど……、何だか急に眠くなったのよ」
「急に?」
「そう……」
草摩は何かを思い出そうとするように、額に手を当てた。
「もしかしてそれは水差しの水を飲んでから?」
「え?」
友早が聞き返すが、草摩は答えない。眞由美はしばらく眉を寄せて考えた後、
「そういえば、水は飲んだわね……」
「そうか」
草摩は立ちあがった。
「どこ行くんだ?」
腰を浮かせる友早に、草摩は告げる。
「眞由美さんの部屋の水。調べてもらうんだよ」
「けど、あれは……」
「叔母さんか叔父さんが入れ替えてる、そんなことわかってるよ。でも、もし眞由美さんの水に睡眠薬を混ぜようと思ったら簡単なことだろ?」五便宝
「何?」
「水差しが載ってたのはマントルピースの上。窓際だ。眞由美さんの部屋は三階だし、バルコニーもないけど、大型の梯子か何か使えば」
「眞由美の部屋の窓、閉まってたか?」
「……わかんない。確認しなかったもの」
友早は草摩を怪訝そうに見つめる。
「そもそも大型の梯子なんてうちにはなかったと思うけど……」
草摩は無表情でぽつりと言った。
「だとしたら、叔父さんか叔母さんが入れたのかもな」
「……おい!」
怒気を含んだ声で、友早が言う。
「お前、言っていいことと悪いことがあるんだぜ」
「ちょっと、友早!」
眞由美が横から友早を抑える。
「草摩君がしているのは、ただの可能性の話よ。そうでしょ?」
草摩は軽く頷く。その眼は友早を見ていない。
「梯子だって、友早が知らないだけでどこかにあるのかもしれないし、外から運んでくることだってできるかもしれないわ。ほら、トラックとかワゴンとかに載せてきて、もしかしたら桐生さんの体もそれで運んだのかも」
「……なるほどね。可能性は十分ある」
草摩は落ち着き払って呟く。その様を見ていた友早が、軽く咳ばらいをした。
「お前……もしかして、桐生さんを殺した犯人を探すつもり……」
「違う」
草摩は鋭い目線を向けた。
「俺は、桐生を探すだけだ」
N県警から派遣された伊吹要(いぶきかなめ)警部は、被害者と目されている桐生千影の部屋に佇んでいた。開かれた扉からは、青い光が洩れている。
――変わった建物だ。伊吹はそう思う。朝なのにどこも薄暗く、光のささない廊下にはそれぞれの色のライトが灯っている。初めてここに来た彼は、相当面食らっていた。
「伊吹君」
声に振り向くと、慧一が立っていた。
「東本部長。何か?」
伊吹は心中でため息をついた。彼に気を遣わなければならないせいで、捜査がやりにくい。慧一は、気遣うことはない、早く解決することだけを考えろというが、警察組織のような縦社会ではそうはいかない。それでも他の警察幹部より慧一は随分協力的だと思う。捜査員が自分の別荘に上がり込んで荒らしても、文句一つ言わない。捜査のためなのだから当たり前なのだが、そうはいかないのが現実というものだ。
慧一は暗い表情で言った。
「草摩君が目を覚ましたようだ。こちらに来ると言っている。話を聞くだろう?」
「はい」
伊吹が頷くと、慧一は眼をそらして呟く。
「草摩君の名字で、思い出すことはないか」
「…………」
伊吹は先ほど渡された関係者のリストを思い出した。
「七条……草摩」
はっと息を呑む。
「もしや、あの……」
「そうだ。あの七条君の息子さんだよ」
「…………」
「もし桐生君がどうかなっていたら……父親に続いて新しい保護者も失ってしまうことになる」
「失礼ですが、お母様は……」
「早くに亡くなっている」
「……そうですか」
伊吹の表情は変わらない。どんなに残酷な事件を担当しようとも、彼はその眉を少し寄せるだけの反応しか見せない。冷たい男なのかと思えば、そうでもない。遺族と接する時には非常に細やかな気遣いを見せる。本来豊かな感情は、警察官としての自分を保つために押し殺しているのだ。
かすかな靴音とともに、ドアから草摩が姿を見せた。
「叔父さん」
「草摩君」
振りかえった慧一が彼を側に呼ぶ。VigRx
「彼がこの件の担当の伊吹警部だ」
無言で伊吹が会釈すると、草摩も黙ったまま頭を下げた。
伊吹は手早く草摩という少年を観察する。この春から大学生になると聞いていた。年齢相応の外見だと思うが、眼だけが違う。爆発させようと待ち構えて煮えたぎっている火口のような、不思議な色合いだ。
「…………」
草摩は伊吹に話しかけることなく、窓辺に歩み寄った。
「鍵。かかってますね」
誰に聞かせるつもりもないように、草摩は呟く。伊吹は彼の方へと歩きながら、
「ああ。鍵に触った形跡もない」
うっすらと溜まった埃の色に濃淡はなかった。
伊吹の方を初めて真っ直ぐ見つめ、草摩は口を開いた。
「眞由美さん――須藤さんが一つ仮説を話していたんです。でも……これならあり得ないですね」
「仮説?」
伊吹が軽く眉をひそめると、草摩は頷いて説明した。
「大きな梯子を使ったんじゃないかって」
「梯子?」
「あ、そうだ叔父さん」
草摩は黙って彼らを見ていた慧一に声を掛けた。
「何だ?」
「眞由美さんの部屋の水。調べてもらってください。睡眠薬が入っていたかもしれないから」
「なんだって?」
声をあげたのは伊吹だった。
「何故そんなことを?」
「…………」
草摩は軽く手を顎に当てた。視線は部屋の隅に置かれた窓際のマントルピースに向けられている。
「昨晩、眞由美さんは途中でシャワーを浴びに行きました。友早と……桐生も一緒に」
桐生、と口に出した瞬間、草摩の顔が歪む。しかし、口調の冷静さは変わらなかった。
「そのとき、また戻ってくるって俺たちに言っていたんですよ。それに、時間もまだ早かった。眞由美さんは、シャワーを浴びて水を飲んだら、途端に眠くなったと言っていました」
「疲れが出たのかもしれんよ?」
慧一の声に、草摩は首を横に振る。
「それだけじゃないと思います。……俺、昨日ここで倒れた桐生を見て叫んだのを覚えているんです。それも、かなり大声で。それに壁とかドアとか殴ったし、相当大きな音がしたと思うんですよ。でも、眞由美さんはちっとも気付かなかった。同じ階にいたのに」
「…………」
「あの後、それなりに大騒ぎになったでしょう? でも眞由美さんは朝まで起きてこなかった」
「……しかし」
「お願いします。叔父さん」
草摩の気迫に押されたように、慧一は伊吹に頷いて見せた。
「分かりました。調べてみましょう」
「ああ。……私が行ってくる。伊吹君はここにいたまえ」
「はい」
慧一がドアから出るのを見送って、伊吹は再び草摩に尋ねた。慧一がいない方が話しやすい。
「さっきの、梯子を使った仮説……というのは?」
「あ、はい」
草摩は窓の外に視線を投げる。
「眞由美さんの水差しに薬が入っていたとして……、梯子を使えば窓の外からでも入れられますよね」
「まあ、そうだが……」
「それから、桐生が消えたのも窓から運んだと考えれば……。混乱させるために内鍵を外しておいて」
「む……」
伊吹はこめかみに指を当てた。
「面白い仮定だとは思うが、やはりこの窓が閉まっていることを考えれば……」
「そうですね」
「それに、誰がどこの部屋に泊まるかなど、外部の人間は知らないはずだろう」
「それをいえば、桐生がここに来ることを知っていた人なんて、部外者にはいないはずなんですよ」
「……内部の人間の犯行か……? しかし……」
伊吹は溜息をついた。
確かに、この部屋には東家のものと思われる指紋しかなかった。桐生の指紋がほとんど検出されなかったのはどういうわけだか……彼には良く分からない。
だが、慧一や佳世は、草摩の親戚であり県警本部長とその妻である。友早は草摩の従兄。さらに、自分の彼女に睡眠薬を盛るとは考えにくい。辰巳や島原は桐生とは初対面で、しかも警察関係者である。警察関係者だからといって罪を犯さないとは思わないが、自分の上司の別荘で実行するだろうか。いや、むしろ桐生という男との接点が全くない。
草摩は――論外だ。伊吹は確信を持ってそう断定した。
「やはり……外部の犯行と仮定した方が良さそうだな……」
「ええ……疑わしい人がいなさ過ぎます」
草摩は部屋にかかった時計を眺めながら、
「桐生を部屋に案内したのは……」
「本部長だ。時間は午後九時半くらいだったと言っている」
それを聞いて少し視線を落とし、考えこむ。巨人倍増
2014年6月7日星期六
青嵐
「昨日、あまり眠れなかったの?」
欠伸を何度も繰り返す成に、萌子はそう尋ねた。成が寮に帰ってきた頃には、すでに寮が静まり返っていた。シャワーを浴びたかったけれど、物音で誰かを起こしてしまいそうで、べたつく肌のまま、成は横になった。考えることがたくさんありすぎて、なかなか寝付けず、ようやく寝たと思ったら、遅刻するぞと湊に起こされていた。眠気の覚めない頭で萌子を迎えに行くと、すでに萌子は家の前にぽつんと立っていた。十分の遅刻だった。
「…ちょっと、湊の歯ぎしりがひどくてさ」精力剤
ごめん湊、と成は心の中で謝る。
「そういえば、昨日、どこに行ってたの?」
萌子に急に聞かれて、成はえ?と聞き返す。
「寮に電話したら、今出て行ったって言われたから。昨日の夜、九時半ごろかな」
九時半と呟いて、成ははっと気づいたように慌てて答えた。
「ちょっと…、コンビニ。コンビニ行ってた」
「また罰ゲーム?」
くすくすと笑う萌子を見て、成は肩の力をすっと落とした。
嘘をつくつもりはなかったが、本当のことも言えなかった。祥子の秘密を、成が萌子に言えるはずもない。
それに、やましいことは何もない。
その言葉に、成はちくりと痛んだ胸を抑え込んだ。
「何か潮臭いぞ、成」
朝練が終わってケンにそう言われた成は、自分の匂いを嗅ぐ。確かに潮の香がした。昨日の夜、長く海にいたせいだ。
「シャワー室、借りてこいよ」
「ああ」
「でも一限には間に合うように戻れよ。担任には俺が適当に言っておくから」
「サンキュ」
「あと萌子にも。そんな匂いじゃ嫌われるぞ、萌子に」
急いで部室を出たところで、すでに着替え終わって教室に向かおうとしている一馬に軽くぶつかった。
悪いと落ちた成のタオルを、一馬が拾い上げる。サンキュと答え、受け取ろうとした成の顔を、一馬がじっと見て口を開いた。
「お前さ、昨日の夜、誰かと一緒にうちの店の前歩いてたか?」
祥子と待ち合わせたのは、アルジャーノンの前だ。部活の後でバイトしている一馬に見られていても、おかしくはない。
だが成は、昨日はコンビニに行ったと萌子に嘘をついている。それに、一人ではなかったことも、一馬は見ている。
「…いや、えっと。通ってないよ。俺は昨日コンビニに行っただけ」
余計なひと言も付け加えてしまったが、特に一馬は気にする様子もなかった。
「そうだよな、やっぱり俺の見間違いだよな―」
「わるい、俺急いでるからっ」
成は口早にそう言うと、そそくさと駆け出していった。
残された一馬の方は、少し様子のおかしい成の後姿を見ながらも、自分の考えを変えることはなかった。
昨日、アルジャーノンでバイトをしていた一馬は、閉店後にゴミを出そうと外に出たところで、坂を下りて行く二人の影を見つけた。坂を下りれば、そのまま海に出る。人通りの全くいない通りでもないが、一馬が一瞬目を止めたのは、街灯照らされて一瞬見えた横顔が、成に思えたからだ。だが、隣を歩く女の後姿は、身長的にも髪型的にも、萌子ではない。
だけど、こんな時間に、あいつが萌子以外の女と一緒に歩くか?
答えは明確だ。
あいつじゃない。
そして成の答えが、その考えを一層確かなものにした。
成はよく言えば素直、悪く言えば不器用。仮にさっきのが下手な嘘だったとしても、萌子のことに手いっぱいのくせして、他の女とどうこうできるような性格じゃない。
昨日見た光景を、ただの風景として一馬が忘れようとしたところで、いきなり声をかけられた。
「渡部さんっ」
ボタンのシャツも閉まりきっていない状況で、樹生が息を切らせて立っていた。慌てて部室から飛び出してきたようだ。
「おいおい新田、せめてベルトくらい締めろよ」
「さっきのっ、昨日成さんが誰かと一緒に、アルジャーノンの前歩いてたって話っ」
樹生の様子に思わず笑う一馬を無視して、樹生は声を張り上げてそう言った。だが口にしてから自分の声の大きさに気づき、罰の悪そうな表情に変わる。樹生が成の熱烈な支持者であることは、一馬も知っている。
「ああ。でも、俺の見間違いだ」
「二人じゃなかったってこと?」
「俺が見たのは、男女のカップルだ。一瞬、男が成に見えたんだけど、女は萌子じゃなかった。それに、本人が違うと答えた」
「その女の髪って、肩より少し短いくらいの長さ?」
うーんと考え込んでから、一馬が答える。
「だったかな」
それじゃ、先行くぞ。今日は日直で、職員室に寄らなきゃならんから。
そう言って一馬は歩き始める。続けるようにして、次々と着替えを終えた部員たちが、立ち尽くす樹生を追い越して行った。
一限目には無事間に合い、授業が終わったところで、成は祥子に声をかけた。
「祥子、ちょっと」
そう言って廊下へ促す。祥子に話しかけようとした萌子が、一瞬成の方を見つめたが、何でもないというように笑い返してきた。
ちくりとする胸の痛みを抱えながら、廊下に出てきた祥子に、成はそっと出した紙を差し出す。祥子はそれを躊躇いながらも、受け取った。紙は成が朔哉から受け取ったもので、朔哉の今の住所が書かれている。
「ありがとう」
渡されたものが何かを理解した祥子は受け取りながらそう答えると、紙を大事そうにポケットにしまった。いいよ、と答えながらも、成の胸の痛みは激しくなっていく。朔哉は何も言わなかったが、意味するところは成もわかっているつもりだった。それに、萌子の為に渡されたものを、祥子に渡すことが間違っているのは成にもわかっている。けれど、萌子に渡せば、萌子は朔哉の元に行って、二度と成のところにはやってこない。
痛む胸を隠しきれず、ふいと廊下の窓へと視線をそらすと、祥子が言った。
「それから、昨日もありがとう」
礼を言われる筋合いではない。成としても、抱えてしまった重荷を、どこかで一度下したかったし、弱音も吐きたかった。だが、卒業式に校庭で自分のした行為を考えると、凪高の人間には誰にも話せなかった。唯一、その共犯者に近い祥子を除いては。
首を横に振る成に、祥子が微笑みかける。
成を探しに、三年の教室までやってきていた樹生は、そんな二人の様子を廊下で見ていた。そして、握りしめた拳をわなわなとふるわせると、踵を返し、自分の教室に戻って行った。
「湊さん、ちょっと話がある」
昼休み、そう樹生に言われ、湊は半ば強引に部室まで連れてこられた。入口のドアをきちんと閉め、鍵までかけると、樹生はカーテンまで丁寧に閉めた。
「どうしたんだ、樹生」
「誰かに聞かれたくないんです」
そう言って、真剣な表情のまま樹生は深いため息をつく。
「何?話って」
「それが…」
勢い込んで湊を連れてきたものの、いざ言葉にしようとすると、何かが躊躇われた。憧れの先輩のことを侮辱する話をすることに、樹生自身戸惑っているのだ。湊はただじっと樹生が話し出すのを待っている。樹生は決意を固めると、はっきりと言った。
「成さん、浮気してる」
え?と湊が返す。樹生は自分の決意が弱まらないようにと口早に続けた。
「相手は、菅原祥子。朔哉先輩の彼女で、萌子さんの親友」
「…あの二人は、まあ仲はいいけど、お前がそんな心配する間じゃないよ」
湊は樹生の行き過ぎた勘違いとでも言うように、全然信用していないようだった。余計に樹生はもっと熱くなって訴える。
「でもオレ見たんだ。
この前、二人が駅で肩組んで歩いてるの。何か事情があったのかもって、成さんに聞いてみた。そしたら、成さん嘘ついた。コンビニ行っただけだって。でも違う。望だって見てる。
それに昨日だって、菅原祥子に電話で呼び出されて出て行った。一二時ぎりぎりで帰ってきたの、湊さんだってしってるだろ?成さんたちはそれまで一緒に海にいたんだ。渡部さんが海に向かう二人の後姿見てる」
笑顔だった湊の表情が、僅かに強張る。話しながら興奮してきた樹生が声を張り上げて言った。
「それにっ、今日二人は廊下でこっそり何かを渡してた。
…っ誰だっ」
ドアのあたりで物音がして、樹生が思わず大声で怒鳴る。大股でドアの前まで歩き、鍵を外しドアを開くと、新人マネージャーの大野まりが顔を出した。強張った表情のまりを見て、樹生は急いで部室に入れる。再びドアに鍵をかけると、まりに脅すように言った。
「いいかっ、今聞いたことは、誰にも言うなっ」
「は、はいっ」
裏返ったまりの声に、湊はため息をつきながら、ぽんと優しくまりの肩を叩いた。
「落ち着け、樹生。だいたいそんなに心配することないよ。
成のことだから、祥子の相談につきあってたとか、そんなことだと思うよ。浮気だなんて―」
「違いますっ」
反論しようとした樹生に代わり、まりがいきなり湊の言葉を遮った。
「何が違うんだよっ」
無関係なまりに割ってはいられ、思わず樹生は言い返す。だが、それで怯むまりではなかった。
「あの二人、お互いを想い合ってますっ」
まりの言葉に驚いたのは樹生の方だった。思わず湊の方を見ると、湊も驚いて樹生の方を見ている。
まりは焦ったように話しだした。
「私も昨日、見たんです。二人が、海浜公園にいるところっ。話は途切れ途切れで、よくわからなかったけど、新田先輩の話を聞いてわかりました。
あの二人、お互いの気持ちもわかってます。付き合いたいって、そう思ってますっ」
まりの言葉が本当ならば、それははっきりとした証拠だった。
樹生と湊が再び顔を見合わせたところで、急にドアがノックされた。無視をしようと思ったが、ドアは何度も叩かれる。ため息をつきながら樹生はまりに黙るようにとにらみを利かせると、ドアを開けた。
重要なミーティングの最中だから邪魔するなと、あしらおうとした樹生は、顔をあげたところでその言葉を飲み込むしかなかった。
「何…やってんだ?」
怪訝そうな表情で、そこには成が立っていた。
「あ…」
まさか今の話、聞いてないよな。
そう思いながら答えに悩む樹生を気にせず、成は部室に入ると、奥のロッカールームを見て、あれ?と声を出すと、思いついたようにミーティングルームのドアを開けた。そして、
「萌子、こっちにいたんだ」
と声をかけた。
驚いて顔を見合わせる三人を置いて、成はミーティングルームにいる萌子に話し続ける。
「ごめん、来るのが遅くなって。担任の話、大した話じゃなかった。確かロッカーの上の段ボールだったよな」
成に引っ張られるように萌子が部室へと姿を現す。気まずそうな萌子の表情に、話を聞かれていたことを樹生も湊も理解した。ただ、そうとは知らない成だけが、元気よく話している。実のところ、朔哉の住所を祥子に渡したことが、成の気持ちを少し楽にさせていた。
「またこの前みたいに怪我されちゃ大変だし。ああ、そうだ。樹生たちにも手伝ってもらおう」
始まりは今日の休み時間中のお喋りだった。
探しても見つからないビブスの話になり、ふとケンが部室の個人ロッカーの上にある段ボールがいくつかあって、それが長い間開けられていない話を言いだしたのだ。もしかしたら、そこに入ったままかもしれない、と。それを聞いた萌子は、当然その段ボールを見てみると言ったのだが、この前ロッカーの上の荷物を取ろうとして怪我をしている萌子である。大丈夫だから、部員たちがいない練習中に一人でやるという萌子を、成が昼休みに手伝うということで納得させたのだ。媚薬
いざ昼休みになると、成は担任の呼び出しを受けてしまい、萌子は先に一人部室へとやってきた。成を待っているわけにもいかず、ロッカーの上に手が届くようにするためと、萌子は隣のミーティングルームへと入った。ちょうど足場になる椅子があるのだ。だが、その椅子を探し出したところで、部室の方から物音が聞こえた。開いたままのドアの隙間から中を覗くと、張りつめた雰囲気の樹生と湊だった。声をかけようとしたところで、いきなり成と祥子の話が出てきた。もう萌子が中に入っていけるような雰囲気ではなかった。
途中でまりも加わった話を聞きながら、ショックを受けた心の片隅で萌子はそういえば、と思い返し始めていた。
そういえば、この前祥子は練習を見に来ていた。
祥子がそんなことをしたのは初めてだった。と、萌子はふいに一年生の時に同じクラスだった白井百合のことも思い出していた。
百合も成が好きで、よく練習中に成を見にグラウンドにやってきていた。
そういえば、グラウンドにやってきた祥子の視線も、どこか遠くを見ているようだった。あれは、成を探していたんだろうか。
DVDを貸し合う二人、珍しく「祥子」と名前で呼ぶ成。
考えれば考えるほど、疑惑は浮かんできて、樹生やまりの話が本当のような気がしてきた。
そして、浮気をする男によく言われる、罪悪感からかいつも以上に優しくなるという態度。
じっと見つめる萌子の前で、成は楽しそうに笑っている。
「ちょっと、待って」
萌子は成にそう言うと、状況を見守っているだけの樹生たちに言った。
「悪いんだけど、成と話したいことがあるから、ちょっと部室を出てくれる?」
樹生が何か言いかけたが、それを湊が制し、三人は大人しく出て行った。
静まり返ったところで、成が口を開く。
「何?話って」
今となっては成の笑顔が恨めしい。萌子は深くため息をつくと、なるべく冷静にと口を開いた。
「成は、祥子のことどう思ってるの?」
突然の質問で、成は戸惑った。
「どうって。クラスメート、だろ」
「だったら、どうして嘘ついたの?」
え?と成の表情が強張る。その表情で、成の答えがわかり、萌子の声は微かに震えた。
「昨日の夜も、コンビニに罰ゲームじゃないんでしょう。祥子に呼び出されて、海で二人でいた。寮の門限の時間はとっくに過ぎても」
驚いて顔を自分を見つめる成の真直ぐなところが、萌子の癇に障る。
「おまけにこの前は、駅で肩を組んで歩いてたって。今日だって、廊下に呼び出して、何か渡してた。ねぇ、何を渡したの?」
それは…と答えかけて、成ははっとしたように乾いた声で言い直す。
「…誰がそういうこと―」
「誰だっていいじゃない。問題は、成が嘘をついたってことよっ」
ついに声を荒げた萌子に、成は黙り込んだ。
「…嘘つかないで、答えて。祥子のこと、…好きなんでしょう?」
違うと言って欲しい萌子に、成は答えた。
「祥子はそういう存在じゃない」
はっきりと違うと言わない成に、萌子は苛立って言い返す。
「だったら何で嘘ついたの?どうして?」
どうして、好きでもない私の隣にいるの?
どうして、優しくしてくれるの?
成にずっと聞きたかったことがどんどん心の中から溢れてくる。だが、萌子はかろうじて、その途中で口を閉ざした。成の表情が曇ったからだ。
「…嘘をついたことは、謝る。だけど、肩なんて組んでないし、それに俺も祥子もそういう関係じゃ―」
ないという成の言葉を無理やり遮り、祥子のことを庇うような成に堪らず萌子が叫ぶ。
「私のこと、だましてたんだ。成も、祥子も。
そうよ、きっと祥子は、成が目的で私に近づいたのよ。だって、そうじゃなきゃ声なんかかけるわけない。冷静に私たちの関係を考えたんなら、近づいてくるわけない。
百合と一緒。私のこと、利用しようとして―」
「祥子はそういう奴じゃない」
これ以上祥子を罵倒する萌子の話を聞きたくなくて、思わず成がそう答えると、萌子が軽い衝撃を受けたような表情をしていた。そして、呟く。
「…庇うんだ。やっぱり、好きなのよ。祥子のこと」
だから、私とは付き合っていると言わない。
私のことは、好きなんかじゃない。
頑なな萌子に、成は言い返す。
「何でそうなるんだよ。落ち着いて考えれば違うってわかるだろ?」
少なくとも成は、朔哉のことを言いたかった。萌子は祥子と朔哉が付き合っていると信じているのだから。
しかし成の言葉に、萌子の何かが振り切れた。
「わかんないよ、成のことなんか、成の気持ちなんか、わからない。
私たち、付き合ってるんだと思ってた、なのに成は違うって言う。
だったらどうして一緒にいるの?
どうして私の傍にいるの?」
「それは―」
「はっきり言葉にしてくれなきゃ、成の気持ちなんかわかんないよっ」
一方的に言われ続けて、成の中でも何かが振りきれていた。
「疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ。
だいたい、そんなこと言う萌子はどうなんだよ。
どうして本当は福山さんのことが好きなのに、俺の隣で居続けようとするんだよっ」
成の最後の言葉に、お互いがはっとした表情で見つめあった。先に視線を逸らしたのは萌子だ。
「…そんなことない、朔哉さんは関係ない―」
視線を逸らされたことが萌子の本当の答えのような気がして、成は更に不安になって言い返す。
「だったらあの手紙は何なんだよっ。
どうして自分が幸せだって書かないんだ。いつもいつも、俺と福山さんを重ねたり、比べたり、そうやって福山さんのこと忘れられないのは萌子だろっ。
萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ」
言った瞬間、成は後悔をした。大きく目を見開いた萌子が、じっと成を見つめていた。その頬に一筋の涙がこぼれ落ちる。視線があったが、今度逸らしたのは成の方だった。
そうして黙り込む成の前で、萌子は踵を返すとそのまま部室を駆け出して行った。
残された成は、畜生と呟き、ロッカーを殴りつけた。
「あ、萌子さん…」
部室から飛び出してきた萌子に、そう樹生が声をかけたが、振り返りもせずに萌子は校舎の影へと消えていった。慌てて樹生が追いかけようとしたが、それを湊が止めた。
「ひとりにさせてやろう」
湊の言葉に顔をしかめつつも、大人しく立っていた樹生だったが、突然部室のドアを開け、中に入って行った。
立ち尽くしていた成が、樹生に気づいて顔を上げる。
「俺っ、成さんのこと、見損ないましたっ」
何も反論しない成に苛立ちを覚え、樹生は胸倉を掴むと、そのまま成をロッカーへと押しつけた。
「そんな人だとは思わなかったっ」
「やめろ、樹生」
抵抗すらしない成と息の荒い樹生の間に入ったのは、湊だ。湊は樹生を成から離すと、そのままずるずると床に座り込んだ成に聞く。
「何が、あったんだ」
成を疑うことなく、説明を求める湊の優しさが、今の成にはひどく痛い。
「…会ったのは事実だけど。ただ、相談にのっていただけ」
その言葉に、湊がほっと一息をつく。荒立っていた樹生は、先走り過ぎた自分を腹立たしく思い、舌打ちをした。
どうして俺、あんなに成さんのこと信じてあげれなかったんだろう。
成さんのこと、誰よりわかってるはずだったのに。
おまけに、萌子さんにまで俺のせいで誤解させて。
自分を責める樹生に、成のぽつりと呟くような声が聞こえる。
「自分を責めなくてもいい、樹生。
浮気は勘違いだけど、俺はお前が思ってるような尊敬できる人間じゃないのは、当たってる」
言いながら、成は萌子の涙を思い出していた。
あんなこと、言うつもりじゃなかったのに。また、傷つけた。
…だけど、萌子も。否定しなかった。
結局傷ついたのは、お互いだった。
教室に戻れば、いやでも祥子と顔を会わせなければならない。
海辺で涙を奥底に押し込んでから、萌子の足は教室ではなく、保健室へと向かっていた。
紗依は、萌子が気分が悪いというと、疑うことなくベッドをひとつ提供してくれた。特に用事もなく寛ぎに来ていた生徒たちにも、体調の悪い生徒がいるから出て行くようにと告げ、気付けば保健室は静まり返っていた。五分もすれば、午後の授業の開始のチャイムが鳴る。悩んでいると、カーテン越しに紗依の声が響いた。
「珍しいわね、沢木さんが怪我以外のことで来るなんて」
「そう…ですか」
言葉を詰まらせながら答えると、紗依は明るくそうよと、答えた。
「でも、心を休めることも時には大切。午後いっぱい、ここで休んでいく?」
どうやら仮病は見抜かれているらしい。だが、紗依はそれを黙認してくれている。
「…はい」
罪悪感を感じながらも、萌子はそう答えた。
とりあえず、教室に戻らなくていいとほっと一息つくと、紗依がさらに問いかけてきた。
「部活は?どうする?」
そう言われて萌子は戸惑った。
グラウンドに行けば祥子はいないが、成はいる。
顔を合わせたくない。でも、練習を休むわけにはいかない。仮病がばれれば、石橋の逆鱗に触れるのは明らかだ。黙り込む萌子に、気を使ってか紗依が答える。
「まあ、すぐに決めることもないわ。練習が始まる前までに決めればいいから。石橋先生には、私から伝えるし」
会話が終わり、静寂が訪れる。
萌子は天井を見上げてから、腕を顔の前でクロスして、目を閉じた。
どうして、あんなこと言ってしまったんだろう。
成を責めるつもりはなかったはずなのに。
成と、ゆっくり、一緒に歩いていこうと決めたはずだったのに。
自然と溢れた涙が、頬を伝い、枕をぬらす。
『疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ』
わかっていたはずだった。
成は朔哉とは違って、言って欲しいことを言ってくれるわけではないし、先回りして萌子の気持ちを考えることもしない。
だけど、それでも、成と一緒に歩いていこうと思った。
それなのに…。
『萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ』
一歩前進したと思ったのは、萌子だけだったのだろうか。
成は、もとから萌子と一緒に歩くつもりはなかったのだろうか。
だから、祥子と夜中に会っていたのだろうか。
…だけど、祥子には朔哉さんがいる。
成だって、それを知っているはずだ。
それとも、二人はうまくいっていないとか?
その時、ドアが乱暴に開く音がして、中に入ってくる足音が静かだった保健室に響いた。
「ごめんなさい、今急病の生徒が…藤原君」
静かにするようにという前に、紗依は目の前に立つ右京の名前を呼んでいた。
体育教官室から駆けてきた右京は、肩を大きく揺らしながら、睨むように紗依を見据えている。その気迫に圧されるように、紗依が視線を右京から外し、棚に手を伸ばすふりをして背を向けたところで、右京が一歩近づいて、尋ねた。
「今日も、また弁当持って行くのか?」
「え」
右京が何のことを指しているのか、紗依にはすぐにわかった。
子供を連れて妻に家を出られた石橋の為に、紗依はたびたび石橋の家に差し入れの弁当を持っていっていた。
ただ、直接渡すわけにもいかずに、いつも玄関に置いて、チャイムを押し、物陰に隠れる。そうして、石橋がちゃんと受け取るのを見てから、帰るのだ。
この前などは、玄関に前回差し入れた時の容器が綺麗に洗われて置いてあった。
それは、まるで秘密の手紙のやり取りのようで、紗依の最近の楽しみであったのだ。
それをどうして彼が知っているのか、思わず振り返ると、右京は低い声で、小さく言った。
「もうやめろ。監督は先生のこと、何とも思ってない」
すると紗依は噛みつくように右京に言い返した。性欲剤
「あなたには関係のないことだわ―」
「見てられない。傷つくのを、見たくない」
自分の好きな人には、傷ついてほしくないから。
だがその言葉を右京が胸に強く押し込めたところで、紗依が怒りに震えた声ではっきりと言った。
「あなたには、関係のないことでしょう」
そして立ち尽くす右京を後にして、紗依は激しく音をたて、ドアを閉めて保健室を出て行った。
数日前のことだ。
ランニングをしていた右京の前を、紗依が自転車で通り抜けていた。いつもと同じ時間で、いつもと同じコースなのに、紗依を見かけたは初めてだった。
どこに行くのだろうと、気付いたら後ろを追いかけていた。紗依はのんびりと自転車を漕いでいて、スピード的にも右京のランニングにもちょうどよかった。
住宅街に入り、ある家の前で、紗依は自転車を降りると、かごから包みを取り出した。そして、それを門に引っかけるようにして吊るすと、代わりに置かれていた包みを拾う。そして、チャイムを鳴らすと、突然物陰に隠れた。
届ものならば、どうして正面切って渡さないのかと思っていた右京の前に現れたのが石橋で、思わず右京も身を潜める。石橋は包みを手に取ると、数回左右を見回したところで、ほほ笑んで家に入って行った。そして紗依は、石橋が家に戻ったのを確認すると、再び自転車に乗り、鼻歌を歌いながら元来た道を戻って行った。
それがどういうことなのか、わかったのは今日の昼休みのことだった。
進路のことで石橋から体育教官室に来るようにと言われていた右京だが、行ってみると石橋は不在で、弁当だけが机の前に置かれていた。近くにいた教員が、すぐに戻ってくるというので、右京はそのまま石橋の席の前で立っていると、他の教員たちが石橋の話を始めた。
「結局、仲直りしたみたいですよ、石橋先生」
「手作りのお弁当でしょう?見た見た」
「おかずをひっそりと家の前に届けてるってね。チャイムだけ鳴らして、顔は出さない。弁当だけじゃなくさっさと奥さんも家に戻ってくればいいのにね」
「一度出て行った手前、戻りづらいんじゃないですか?石橋先生も頑固者だし、似た者夫婦ってやつでしょう」
石橋の妻が家を出ているということにも驚いたが、何より右京が驚いたのは、紗依が届ける弁当を石橋が妻からの差し入れだと思っているところだった。だが、確かに厳格な石橋であれば、紗依の差し入れを断るに違いない。だが、そうとは知らずに、紗依は受け取ってくれていることを喜んでいる。
気づけば右京は、石橋を待たずに体育教官室を飛び出した。行く先は保健室、つまりは紗依のところだった。
気づいてないんだ。そもそも、対象としても見られてない。
それに気づいてほしい。
これ以上、傷つかないでほしい。
だが、そう伝えたかった気持ちとは裏腹に、そっけない自分の言葉が紗依を傷つけてしまった。
「…畜生」
右京は小さくそう呟くと、壁に背をつけ、天井を仰いだ。
午後の練習は、雨のために室内でのトレーニングになった。
「萌子が病欠?珍しいな」
腹筋をしながら、そう興仁が呟く。興仁の足を押さえていたケンがそれに答えた。
「そういや午後の授業もいなかったし。何かあったのか?成」
隣で湊の足を押さえていた成は、突然話を振られて、思わず手が緩んだ。
「あ…」
途端に、腹筋をしていた湊の体がぐらりと揺れて、成は慌てて足を押さえる。
「ごめん、湊」
「大丈夫。それより、回数合ってる?これで、三十五回目だけど」
頭の中で飛んでしまっていた数字を言われて、成は何度も頷いた。
部室を飛び出してから、成は萌子を見かけていない。授業が始まるからと教室に戻ったが、萌子は気分が悪いと保健室で休んでいた。休み時間に様子を見に行こうかとも思ったが、萌子が教室に来ないのは自分が原因だと思うと、そうすることができなかった。だが、何も知らずに様子を見に行った知朗が、教室に戻ってくるなり萌子の鞄を持って出て行こうとしたのには、流石に声をかけた。曰く、調子が悪いから学校も早退するのだそうだ。何も知らない祥子がその話を聞いて自分が鞄を届けると言い始めた時は、成も焦ったが、知朗がもう次の授業が始まるし、自分が行った方が早いと説得して、事なきを得た。
だが成にも、このままじゃいけないということくらい、わかっている。
しかし、自分が萌子にはいた言葉を思い返すと、顔を合わせても、どう話したらいいのかがわからない。
『疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ』
実際、疲れる部分もあった。朔哉と比べてるような感じもしたし、周囲からの視線も気になった。
萌子のことを好きだったけれど、こういうことを望んでいたわけじゃないと思った。
『萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ』
言われた時の萌子の表情を、流れた涙を思い出す。
萌子のことも泣かしたかったわけじゃない。
なのに、どうして自分は、好きな子を傷つけることしかできないのだろう。
俯きため息をついた成の耳に、由太の低音が響く。
「おい、私語は慎め。トレーニングだからって気を抜くな。怪我するぞ」
「はーい」
ケンと興仁が目を合わせて、可愛らしくそう答える。
その様子を見ながら、由太は小さくため息をつくと、その隣にいる成を見つめた。
思った通りだな。
ここ最近の成と萌子は、まるで合わせ鏡のように、喜怒哀楽が一致する。成が笑っていれば萌子も笑い、萌子が悲しんでいれば成も悲しんでいる。
由太が保健室に入ったのは、偶然知朗と廊下で鉢合わせたからだった。
走ってくる知朗に、ぶつかりかけて、謝られて、注意をすると、
「萌子が気分悪くて、保健室にいるんだっ」
といい残された。流石に気になって、保健室に行ってみると、中には萌子一人で、知朗はいなかった。
一目で、落ち込んでいる萌子に何があったのか聞くことを悩んでいると、萌子の方から切り出した。
「ごめん、体調悪くて…今日の練習、休んでもいいかな」
昼過ぎから降り出した雨は、この頃には本格化していた。おそらくグラウンドでの練習はできない。
「わかった。監督には俺から言っておく」
ありがとうという声にも、元気がない。単に体調が悪いからだけじゃないと感じた。
何があった?
あいつと、成と何があった?
そう尋ねようとしたところで、知朗が萌子の鞄を持って駆け込んできた。
「持ってきたぞ、鞄。今日は帰ってゆっくり休め」
鞄を受け取り立ち上がった萌子の足取りはどこか頼りなくて、結局知朗が下駄箱まで連れて行っていた。
廊下で二人の後姿を見つめていると、反対方向から、女子生徒が保健室に飛び込んできた。そして、荒い息の中でも必死で言った。
「あのっ、三年の沢木萌子っ、いますか?」
中にいた紗依の声で、萌子がもう出て行ったことを説明しているのが聞こえる。
今からならば、下駄箱にいる萌子にギリギリ間に合うと伝えようと思った由太は、保健室に顔を出したところで、その言葉を飲み込んだ。
「ありがとうございました…」
そう言いながら保健室から出て行こうとしているのは、菅原祥子だった。
この凪高で、少なくともサッカー部で祥子のことを知らない生徒はいない。
卒業式に、朔哉と共に学校を出て行った生徒であり、言わば萌子から朔哉を奪った生徒であり、しかしながら今は萌子と同じクラスで仲がいいという生徒でもある。由太は一年の時に祥子と同じクラスだったので、互いに面識もあった。
祥子は由太に気づくと、軽く会釈をして、保健室を出て行った。
萌子を心配して、保健室に来たというのであれば、友情は確かに芽生えているのかもしれない。だが、それは祥子側の話であって、萌子側となると別だ。しかも、あの駆けつけ方からすれば、祥子としては、自分の過去への気遣いは全くないようだった。
菅原のことも、無関係じゃないのかもしれない。
だが、それより何より、成がこの場にいないことが、全てを物語っている気がした。
しっかり萌子のこと、捕まえていろよ、成。
でなければ…。
その先に思ったことを、由太は慌てて心の奥に仕舞いこんだ。
眠ってしまえば、何も考えなくて済むはずなのに、萌子の頭は一向に眠る気配すらない。眠るという行為は、リラックスしていなければいけないという話を思い出しながらも、リラックスなどできるはずもなかった。
目を閉じれば、勝手に萌子の頭の中で、寄り添う成と祥子の姿が過る。慌てて眼を開けても、暗闇の中で思い出すのは、成に言われた言葉だった。
その先を思い出すのが辛くなり、すぐに目をぎゅっと閉ざす。
ここ数時間この繰り返しで、当然萌子が眠れるはずもなかった。
布団を被り、ため息をついたところで、ドアがノックされ、母親が顔を出した。
「萌子、電話だけど出れる?」
「誰?」
布団の中から、萌子が尋ねる。
成だったら、という淡い期待は、だが何を話せばいいのかわからないという不安へと変わる。そして、母親が言った。
「同じクラスの菅原さんって女の子」
その名前を飲み込みながら、萌子は更に布団にもぐりこんで答えた。
「ごめん、気分が悪いから、出られない」
萌子の返事に、母親は優しく答えた。
「わかったわ。あなたはゆっくり休んでなさい」
萌子の仮病を見抜いているのか、早退した萌子に薬を飲ませようとした母に、薬はいらないというと、そのままわかったと言って薬の箱をしまった。
そして萌子を二階の部屋に寝かせると、それ以上は萌子を干渉しなかった。
だがその距離が、今の萌子には心地よかった。
それでも常に近くにいてくれる。萌子が手を伸ばせば、届く距離に母はいる。
そしてそのきっかけをつくってくれたのが、成であることを思い出し、萌子は唇を噛みしめた。
今日だけは、遅刻できない。
そう思った成は、約束の時間より少し早くに萌子の家の前に立っていた。
昨日は何度も電話をかけようと思ったが、知朗にまたしても先を越されてしまった。だがその知朗も、萌子とは話ができなかったらしく、
「具合が悪くて出られないから、誰も電話をかけるなって」
と、皆を先制するように言った為、成としても何もできなくなってしまった。
何を話せるわけではないが、まずは昨日の言葉を謝り、それから祥子のことを説明する。
昨日湊に何があったのかと聞かれた時も、話し終わった成に湊はそう言った。
『言ってしまった言葉は取り返せないから、とにかく謝った方がいい。
それから祥子のことは、全部素直に話した方がいい。そうすれば、萌子もきっとわかってくれるよ』
少しでも早く謝りたい。
そう心に決めて早く来たものの、いつもの時間を五分過ぎても、萌子は現れる気配はない。
まだ、調子悪いのか。
今日も休むんだろうか。
成が萌子の家の塀に身をもたれて悩んでいると、女性用媚薬
「あの…」
と声が聞こえてきた。体を起こし、声のした門の方を見ると、萌子と似た顔の女性が成のことを見つめている。
「もしかして、早坂君?」
萌子の母さんだ。
慌てて成は、背筋を伸ばして頭を下げた。
「あっ、お、おはようございます」
すると萌子の母親はそんな成を見て、くすりと笑った。
「おはよう。
ごめんなさい、萌子はもう学校に行ってるわ。昨日休んだ分、何だか、やらなきゃいけないことがあるとかで、今日はいつもより早く出て行ったの」
「そう…ですか」
成の表情が曇る。
確かに萌子の言うことも一理あるが、それでもやはり自分と顔を合わせたくなかったのではないかと成は思ってしまう。
力なく失礼しますと答え、学校へと歩き出したところで、萌子の母親が成を引き留めた。
「あの、早坂君」
「あ、はいっ」
慌てて振り返ると、楽しそうな笑顔が返ってきた。
「今度、晩御飯うちに食べに来てちょうだい」
「は、はいっ」
再び背筋を伸ばしてそう答えると、萌子の母親は更に楽しそうに微笑んだ。
朝練は、さり気なくやり過ごした。成となるべく離れているようにしていたけれど、萌子の体調がまだ優れないと思っているのか誰もそれを不審がる様子はなく、教室へ向かう時にも知朗がまるで護衛のように貼りついてくれていて、成の入る隙はなかった。成の方も、自分を置いて先に学校に向かったことを気にしているのか、積極的に萌子の方にはやってこなかった。
けれど、祥子は違っていた。
「大丈夫、萌子。やっぱり顔色悪いみたいだけど」
「うん、平気」
そうは言いながらも、やはり祥子の顔を見ると、昨日の話を思い出して、自然と視線を逸らしてしまう。何も知らない祥子には、そんな萌子が無理をしているように見えるらしい。向かい合って弁当を食べる心境でもなく、気付いたら半分ほど残して、蓋を閉めていた。
そうだ、用事があるからって図書室でも行けばいい。
そうすれば、少しの間でも一人で静かにしていられる。
だが、そんな萌子の思いは祥子には伝わらない。
「どこ行くの?ついて行こうか?無理しないでね。保健室で、休んでてもいいんだからね。ノートは私が取っておくし―」
「萌子」
萌子が返事に戸惑っていると珍しく湊が祥子の言葉を遮って、萌子を呼び止めた。
「ちょっと、いいかな」
湊の話はわかっているから断りたかったのだが、そうすると祥子と一緒にいることになる。結果、萌子は湊の後を追って、部室へと向かう。誰もいないのを確認してから、湊はミーティングルームに入り、萌子に座るよう言った。
「話があるんだ」
「成のことだったら、聞きたくない」
はっきりとそう言った萌子に、湊は苦笑する。昨日は落ち込む成を励まして今朝寮から送り出したつもりだったのに、学校に行ってみれば、二人の関係は悪化していた。萌子が成との約束を破り、一人で先に学校に向かったらしい。萌子からすればしょうがないとも思いつつも、湊はこの件はできるだけ早く穏便に済ませようと思っていた。二人のぎこちない関係がこのまま続けば、部員たちにもばれる。ばれてこじれれば、元に戻るには更に時間がかかる。樹生の勘違いとはいえ、聞かせてしまったのは自分の責任だと、湊は萌子の正面の椅子を引き、ゆっくりと座る。
「いろいろ腑に落ちなくて、昨日成からちゃんと聞いた。誤解されたまま仲互いをされたら、聞かせた俺と二人の後輩の心臓にも悪い」
「…誤解?」
そっぽを向いていた萌子の顔が、一瞬だけ湊を見つめる。ああ、と答えて、湊は全てを説明した。
「一つずつ言うと。
まず駅で会ってたって話。確かに成は、樹生に聞かれてコンビニに行ってたって嘘をついた。
でもそれは、探し物があったからで、それを見つけて帰る時に、泣いている祥子に出会った。肩を組んでたって言うのは樹生の勘違い。成も覚えてないくらいで、多分泣いてる祥子の肩を掴んで歩いてたのが、樹生にはそう見えたんじゃないかって」
祥子が泣いていたということに驚きながらも、萌子は心を緩めないようにときつく湊に言い返す。
「だったら、どうしてコンビニって嘘をついたの?」
だが湊は柔らかな態度を変えずに、頷きながら答えた。
「探しものって言うのは、御守。萌子が渡したんだろう?遠征前に成に」
言われて、あっと小さな声を萌子はあげる。
「プレゼントされたものを落としたことが情けなくて、コンビニだと答えた。まさかそんな問題になるとも思ってなかったって」
萌子の表情からいくらか硬さがとれて、湊は話を続けた。
「それから、一昨日の話。
相談したいことがあるからって、成は祥子に呼び出された。アルジャーノンの前で待ち合わせして、それから海へ向かった。バイト終わりの一馬が二人の後姿を見てた。
帰りが遅くなったのは、祥子に付き合っていたから。深夜の海辺に女の子一人置いて先に帰れるほど、成は無責任じゃないよ」
湊の穏やかな声で、きつく結ばれていたはずの糸が、ゆっくりと解けて行くように、萌子の頑なな心も少しずつ溶かしていく。
だけど…と萌子は口を開いた。
「だけど、まりちゃんが言ったことは?お互いを想い合っているって」
すると湊はくすりと笑った。
「大野が早とちりなことは、萌子の方がよく知ってるだろう?
あれは全くの誤解、二人の近くを通った時に、海風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる二人の会話を、勝手に解釈しただけ。
祥子が萌子になりたい、成が福山さんになりたい。そう聞こえたんだ。
それを大野が、萌子は成の恋人で、福山さんは祥子の恋人だから、互いの恋人になりたいってことは、お互いのことが好きだと思ったらしいんだよ。まあそれも、樹生の話を聞いて、ひらめいちゃったって感じだろうけど」
くすりと笑う湊を目の前に、成と祥子の会話の意味がわからずに黙り込んでいると、それから、と湊が話を続けた。
「昨日渡したって紙は、祥子の悩み事に関係しているらしい。だけど、その悩み事が何かってのは俺には話してくれなかった。祥子の話だから当然だと思う。気になるんだったら萌子が祥子に聞けば、教えてくれるかもしれない」
湊はそのままニコニコと微笑み続け、まるで萌子の気持ちを見過ごしたように言った。
「成が嘘をついたのは、萌子の為だよ。
余計な心配掛けたくなくて、大したことじゃないと思ってついた小さな嘘が、いつの間にか大きくなって、取り返しがつかなくなっていたってだけで。大きくなってから、正直に話をしたら、余計に誤解するだろう?嘘が苦手な成が、よく本当のことを言わないで我慢してたって俺は思ったけど」
そう言われても、誤解だとわかっても、それでも、嘘をつかれたことを素直には許せない。中絶薬
欠伸を何度も繰り返す成に、萌子はそう尋ねた。成が寮に帰ってきた頃には、すでに寮が静まり返っていた。シャワーを浴びたかったけれど、物音で誰かを起こしてしまいそうで、べたつく肌のまま、成は横になった。考えることがたくさんありすぎて、なかなか寝付けず、ようやく寝たと思ったら、遅刻するぞと湊に起こされていた。眠気の覚めない頭で萌子を迎えに行くと、すでに萌子は家の前にぽつんと立っていた。十分の遅刻だった。
「…ちょっと、湊の歯ぎしりがひどくてさ」精力剤
ごめん湊、と成は心の中で謝る。
「そういえば、昨日、どこに行ってたの?」
萌子に急に聞かれて、成はえ?と聞き返す。
「寮に電話したら、今出て行ったって言われたから。昨日の夜、九時半ごろかな」
九時半と呟いて、成ははっと気づいたように慌てて答えた。
「ちょっと…、コンビニ。コンビニ行ってた」
「また罰ゲーム?」
くすくすと笑う萌子を見て、成は肩の力をすっと落とした。
嘘をつくつもりはなかったが、本当のことも言えなかった。祥子の秘密を、成が萌子に言えるはずもない。
それに、やましいことは何もない。
その言葉に、成はちくりと痛んだ胸を抑え込んだ。
「何か潮臭いぞ、成」
朝練が終わってケンにそう言われた成は、自分の匂いを嗅ぐ。確かに潮の香がした。昨日の夜、長く海にいたせいだ。
「シャワー室、借りてこいよ」
「ああ」
「でも一限には間に合うように戻れよ。担任には俺が適当に言っておくから」
「サンキュ」
「あと萌子にも。そんな匂いじゃ嫌われるぞ、萌子に」
急いで部室を出たところで、すでに着替え終わって教室に向かおうとしている一馬に軽くぶつかった。
悪いと落ちた成のタオルを、一馬が拾い上げる。サンキュと答え、受け取ろうとした成の顔を、一馬がじっと見て口を開いた。
「お前さ、昨日の夜、誰かと一緒にうちの店の前歩いてたか?」
祥子と待ち合わせたのは、アルジャーノンの前だ。部活の後でバイトしている一馬に見られていても、おかしくはない。
だが成は、昨日はコンビニに行ったと萌子に嘘をついている。それに、一人ではなかったことも、一馬は見ている。
「…いや、えっと。通ってないよ。俺は昨日コンビニに行っただけ」
余計なひと言も付け加えてしまったが、特に一馬は気にする様子もなかった。
「そうだよな、やっぱり俺の見間違いだよな―」
「わるい、俺急いでるからっ」
成は口早にそう言うと、そそくさと駆け出していった。
残された一馬の方は、少し様子のおかしい成の後姿を見ながらも、自分の考えを変えることはなかった。
昨日、アルジャーノンでバイトをしていた一馬は、閉店後にゴミを出そうと外に出たところで、坂を下りて行く二人の影を見つけた。坂を下りれば、そのまま海に出る。人通りの全くいない通りでもないが、一馬が一瞬目を止めたのは、街灯照らされて一瞬見えた横顔が、成に思えたからだ。だが、隣を歩く女の後姿は、身長的にも髪型的にも、萌子ではない。
だけど、こんな時間に、あいつが萌子以外の女と一緒に歩くか?
答えは明確だ。
あいつじゃない。
そして成の答えが、その考えを一層確かなものにした。
成はよく言えば素直、悪く言えば不器用。仮にさっきのが下手な嘘だったとしても、萌子のことに手いっぱいのくせして、他の女とどうこうできるような性格じゃない。
昨日見た光景を、ただの風景として一馬が忘れようとしたところで、いきなり声をかけられた。
「渡部さんっ」
ボタンのシャツも閉まりきっていない状況で、樹生が息を切らせて立っていた。慌てて部室から飛び出してきたようだ。
「おいおい新田、せめてベルトくらい締めろよ」
「さっきのっ、昨日成さんが誰かと一緒に、アルジャーノンの前歩いてたって話っ」
樹生の様子に思わず笑う一馬を無視して、樹生は声を張り上げてそう言った。だが口にしてから自分の声の大きさに気づき、罰の悪そうな表情に変わる。樹生が成の熱烈な支持者であることは、一馬も知っている。
「ああ。でも、俺の見間違いだ」
「二人じゃなかったってこと?」
「俺が見たのは、男女のカップルだ。一瞬、男が成に見えたんだけど、女は萌子じゃなかった。それに、本人が違うと答えた」
「その女の髪って、肩より少し短いくらいの長さ?」
うーんと考え込んでから、一馬が答える。
「だったかな」
それじゃ、先行くぞ。今日は日直で、職員室に寄らなきゃならんから。
そう言って一馬は歩き始める。続けるようにして、次々と着替えを終えた部員たちが、立ち尽くす樹生を追い越して行った。
一限目には無事間に合い、授業が終わったところで、成は祥子に声をかけた。
「祥子、ちょっと」
そう言って廊下へ促す。祥子に話しかけようとした萌子が、一瞬成の方を見つめたが、何でもないというように笑い返してきた。
ちくりとする胸の痛みを抱えながら、廊下に出てきた祥子に、成はそっと出した紙を差し出す。祥子はそれを躊躇いながらも、受け取った。紙は成が朔哉から受け取ったもので、朔哉の今の住所が書かれている。
「ありがとう」
渡されたものが何かを理解した祥子は受け取りながらそう答えると、紙を大事そうにポケットにしまった。いいよ、と答えながらも、成の胸の痛みは激しくなっていく。朔哉は何も言わなかったが、意味するところは成もわかっているつもりだった。それに、萌子の為に渡されたものを、祥子に渡すことが間違っているのは成にもわかっている。けれど、萌子に渡せば、萌子は朔哉の元に行って、二度と成のところにはやってこない。
痛む胸を隠しきれず、ふいと廊下の窓へと視線をそらすと、祥子が言った。
「それから、昨日もありがとう」
礼を言われる筋合いではない。成としても、抱えてしまった重荷を、どこかで一度下したかったし、弱音も吐きたかった。だが、卒業式に校庭で自分のした行為を考えると、凪高の人間には誰にも話せなかった。唯一、その共犯者に近い祥子を除いては。
首を横に振る成に、祥子が微笑みかける。
成を探しに、三年の教室までやってきていた樹生は、そんな二人の様子を廊下で見ていた。そして、握りしめた拳をわなわなとふるわせると、踵を返し、自分の教室に戻って行った。
「湊さん、ちょっと話がある」
昼休み、そう樹生に言われ、湊は半ば強引に部室まで連れてこられた。入口のドアをきちんと閉め、鍵までかけると、樹生はカーテンまで丁寧に閉めた。
「どうしたんだ、樹生」
「誰かに聞かれたくないんです」
そう言って、真剣な表情のまま樹生は深いため息をつく。
「何?話って」
「それが…」
勢い込んで湊を連れてきたものの、いざ言葉にしようとすると、何かが躊躇われた。憧れの先輩のことを侮辱する話をすることに、樹生自身戸惑っているのだ。湊はただじっと樹生が話し出すのを待っている。樹生は決意を固めると、はっきりと言った。
「成さん、浮気してる」
え?と湊が返す。樹生は自分の決意が弱まらないようにと口早に続けた。
「相手は、菅原祥子。朔哉先輩の彼女で、萌子さんの親友」
「…あの二人は、まあ仲はいいけど、お前がそんな心配する間じゃないよ」
湊は樹生の行き過ぎた勘違いとでも言うように、全然信用していないようだった。余計に樹生はもっと熱くなって訴える。
「でもオレ見たんだ。
この前、二人が駅で肩組んで歩いてるの。何か事情があったのかもって、成さんに聞いてみた。そしたら、成さん嘘ついた。コンビニ行っただけだって。でも違う。望だって見てる。
それに昨日だって、菅原祥子に電話で呼び出されて出て行った。一二時ぎりぎりで帰ってきたの、湊さんだってしってるだろ?成さんたちはそれまで一緒に海にいたんだ。渡部さんが海に向かう二人の後姿見てる」
笑顔だった湊の表情が、僅かに強張る。話しながら興奮してきた樹生が声を張り上げて言った。
「それにっ、今日二人は廊下でこっそり何かを渡してた。
…っ誰だっ」
ドアのあたりで物音がして、樹生が思わず大声で怒鳴る。大股でドアの前まで歩き、鍵を外しドアを開くと、新人マネージャーの大野まりが顔を出した。強張った表情のまりを見て、樹生は急いで部室に入れる。再びドアに鍵をかけると、まりに脅すように言った。
「いいかっ、今聞いたことは、誰にも言うなっ」
「は、はいっ」
裏返ったまりの声に、湊はため息をつきながら、ぽんと優しくまりの肩を叩いた。
「落ち着け、樹生。だいたいそんなに心配することないよ。
成のことだから、祥子の相談につきあってたとか、そんなことだと思うよ。浮気だなんて―」
「違いますっ」
反論しようとした樹生に代わり、まりがいきなり湊の言葉を遮った。
「何が違うんだよっ」
無関係なまりに割ってはいられ、思わず樹生は言い返す。だが、それで怯むまりではなかった。
「あの二人、お互いを想い合ってますっ」
まりの言葉に驚いたのは樹生の方だった。思わず湊の方を見ると、湊も驚いて樹生の方を見ている。
まりは焦ったように話しだした。
「私も昨日、見たんです。二人が、海浜公園にいるところっ。話は途切れ途切れで、よくわからなかったけど、新田先輩の話を聞いてわかりました。
あの二人、お互いの気持ちもわかってます。付き合いたいって、そう思ってますっ」
まりの言葉が本当ならば、それははっきりとした証拠だった。
樹生と湊が再び顔を見合わせたところで、急にドアがノックされた。無視をしようと思ったが、ドアは何度も叩かれる。ため息をつきながら樹生はまりに黙るようにとにらみを利かせると、ドアを開けた。
重要なミーティングの最中だから邪魔するなと、あしらおうとした樹生は、顔をあげたところでその言葉を飲み込むしかなかった。
「何…やってんだ?」
怪訝そうな表情で、そこには成が立っていた。
「あ…」
まさか今の話、聞いてないよな。
そう思いながら答えに悩む樹生を気にせず、成は部室に入ると、奥のロッカールームを見て、あれ?と声を出すと、思いついたようにミーティングルームのドアを開けた。そして、
「萌子、こっちにいたんだ」
と声をかけた。
驚いて顔を見合わせる三人を置いて、成はミーティングルームにいる萌子に話し続ける。
「ごめん、来るのが遅くなって。担任の話、大した話じゃなかった。確かロッカーの上の段ボールだったよな」
成に引っ張られるように萌子が部室へと姿を現す。気まずそうな萌子の表情に、話を聞かれていたことを樹生も湊も理解した。ただ、そうとは知らない成だけが、元気よく話している。実のところ、朔哉の住所を祥子に渡したことが、成の気持ちを少し楽にさせていた。
「またこの前みたいに怪我されちゃ大変だし。ああ、そうだ。樹生たちにも手伝ってもらおう」
始まりは今日の休み時間中のお喋りだった。
探しても見つからないビブスの話になり、ふとケンが部室の個人ロッカーの上にある段ボールがいくつかあって、それが長い間開けられていない話を言いだしたのだ。もしかしたら、そこに入ったままかもしれない、と。それを聞いた萌子は、当然その段ボールを見てみると言ったのだが、この前ロッカーの上の荷物を取ろうとして怪我をしている萌子である。大丈夫だから、部員たちがいない練習中に一人でやるという萌子を、成が昼休みに手伝うということで納得させたのだ。媚薬
いざ昼休みになると、成は担任の呼び出しを受けてしまい、萌子は先に一人部室へとやってきた。成を待っているわけにもいかず、ロッカーの上に手が届くようにするためと、萌子は隣のミーティングルームへと入った。ちょうど足場になる椅子があるのだ。だが、その椅子を探し出したところで、部室の方から物音が聞こえた。開いたままのドアの隙間から中を覗くと、張りつめた雰囲気の樹生と湊だった。声をかけようとしたところで、いきなり成と祥子の話が出てきた。もう萌子が中に入っていけるような雰囲気ではなかった。
途中でまりも加わった話を聞きながら、ショックを受けた心の片隅で萌子はそういえば、と思い返し始めていた。
そういえば、この前祥子は練習を見に来ていた。
祥子がそんなことをしたのは初めてだった。と、萌子はふいに一年生の時に同じクラスだった白井百合のことも思い出していた。
百合も成が好きで、よく練習中に成を見にグラウンドにやってきていた。
そういえば、グラウンドにやってきた祥子の視線も、どこか遠くを見ているようだった。あれは、成を探していたんだろうか。
DVDを貸し合う二人、珍しく「祥子」と名前で呼ぶ成。
考えれば考えるほど、疑惑は浮かんできて、樹生やまりの話が本当のような気がしてきた。
そして、浮気をする男によく言われる、罪悪感からかいつも以上に優しくなるという態度。
じっと見つめる萌子の前で、成は楽しそうに笑っている。
「ちょっと、待って」
萌子は成にそう言うと、状況を見守っているだけの樹生たちに言った。
「悪いんだけど、成と話したいことがあるから、ちょっと部室を出てくれる?」
樹生が何か言いかけたが、それを湊が制し、三人は大人しく出て行った。
静まり返ったところで、成が口を開く。
「何?話って」
今となっては成の笑顔が恨めしい。萌子は深くため息をつくと、なるべく冷静にと口を開いた。
「成は、祥子のことどう思ってるの?」
突然の質問で、成は戸惑った。
「どうって。クラスメート、だろ」
「だったら、どうして嘘ついたの?」
え?と成の表情が強張る。その表情で、成の答えがわかり、萌子の声は微かに震えた。
「昨日の夜も、コンビニに罰ゲームじゃないんでしょう。祥子に呼び出されて、海で二人でいた。寮の門限の時間はとっくに過ぎても」
驚いて顔を自分を見つめる成の真直ぐなところが、萌子の癇に障る。
「おまけにこの前は、駅で肩を組んで歩いてたって。今日だって、廊下に呼び出して、何か渡してた。ねぇ、何を渡したの?」
それは…と答えかけて、成ははっとしたように乾いた声で言い直す。
「…誰がそういうこと―」
「誰だっていいじゃない。問題は、成が嘘をついたってことよっ」
ついに声を荒げた萌子に、成は黙り込んだ。
「…嘘つかないで、答えて。祥子のこと、…好きなんでしょう?」
違うと言って欲しい萌子に、成は答えた。
「祥子はそういう存在じゃない」
はっきりと違うと言わない成に、萌子は苛立って言い返す。
「だったら何で嘘ついたの?どうして?」
どうして、好きでもない私の隣にいるの?
どうして、優しくしてくれるの?
成にずっと聞きたかったことがどんどん心の中から溢れてくる。だが、萌子はかろうじて、その途中で口を閉ざした。成の表情が曇ったからだ。
「…嘘をついたことは、謝る。だけど、肩なんて組んでないし、それに俺も祥子もそういう関係じゃ―」
ないという成の言葉を無理やり遮り、祥子のことを庇うような成に堪らず萌子が叫ぶ。
「私のこと、だましてたんだ。成も、祥子も。
そうよ、きっと祥子は、成が目的で私に近づいたのよ。だって、そうじゃなきゃ声なんかかけるわけない。冷静に私たちの関係を考えたんなら、近づいてくるわけない。
百合と一緒。私のこと、利用しようとして―」
「祥子はそういう奴じゃない」
これ以上祥子を罵倒する萌子の話を聞きたくなくて、思わず成がそう答えると、萌子が軽い衝撃を受けたような表情をしていた。そして、呟く。
「…庇うんだ。やっぱり、好きなのよ。祥子のこと」
だから、私とは付き合っていると言わない。
私のことは、好きなんかじゃない。
頑なな萌子に、成は言い返す。
「何でそうなるんだよ。落ち着いて考えれば違うってわかるだろ?」
少なくとも成は、朔哉のことを言いたかった。萌子は祥子と朔哉が付き合っていると信じているのだから。
しかし成の言葉に、萌子の何かが振り切れた。
「わかんないよ、成のことなんか、成の気持ちなんか、わからない。
私たち、付き合ってるんだと思ってた、なのに成は違うって言う。
だったらどうして一緒にいるの?
どうして私の傍にいるの?」
「それは―」
「はっきり言葉にしてくれなきゃ、成の気持ちなんかわかんないよっ」
一方的に言われ続けて、成の中でも何かが振りきれていた。
「疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ。
だいたい、そんなこと言う萌子はどうなんだよ。
どうして本当は福山さんのことが好きなのに、俺の隣で居続けようとするんだよっ」
成の最後の言葉に、お互いがはっとした表情で見つめあった。先に視線を逸らしたのは萌子だ。
「…そんなことない、朔哉さんは関係ない―」
視線を逸らされたことが萌子の本当の答えのような気がして、成は更に不安になって言い返す。
「だったらあの手紙は何なんだよっ。
どうして自分が幸せだって書かないんだ。いつもいつも、俺と福山さんを重ねたり、比べたり、そうやって福山さんのこと忘れられないのは萌子だろっ。
萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ」
言った瞬間、成は後悔をした。大きく目を見開いた萌子が、じっと成を見つめていた。その頬に一筋の涙がこぼれ落ちる。視線があったが、今度逸らしたのは成の方だった。
そうして黙り込む成の前で、萌子は踵を返すとそのまま部室を駆け出して行った。
残された成は、畜生と呟き、ロッカーを殴りつけた。
「あ、萌子さん…」
部室から飛び出してきた萌子に、そう樹生が声をかけたが、振り返りもせずに萌子は校舎の影へと消えていった。慌てて樹生が追いかけようとしたが、それを湊が止めた。
「ひとりにさせてやろう」
湊の言葉に顔をしかめつつも、大人しく立っていた樹生だったが、突然部室のドアを開け、中に入って行った。
立ち尽くしていた成が、樹生に気づいて顔を上げる。
「俺っ、成さんのこと、見損ないましたっ」
何も反論しない成に苛立ちを覚え、樹生は胸倉を掴むと、そのまま成をロッカーへと押しつけた。
「そんな人だとは思わなかったっ」
「やめろ、樹生」
抵抗すらしない成と息の荒い樹生の間に入ったのは、湊だ。湊は樹生を成から離すと、そのままずるずると床に座り込んだ成に聞く。
「何が、あったんだ」
成を疑うことなく、説明を求める湊の優しさが、今の成にはひどく痛い。
「…会ったのは事実だけど。ただ、相談にのっていただけ」
その言葉に、湊がほっと一息をつく。荒立っていた樹生は、先走り過ぎた自分を腹立たしく思い、舌打ちをした。
どうして俺、あんなに成さんのこと信じてあげれなかったんだろう。
成さんのこと、誰よりわかってるはずだったのに。
おまけに、萌子さんにまで俺のせいで誤解させて。
自分を責める樹生に、成のぽつりと呟くような声が聞こえる。
「自分を責めなくてもいい、樹生。
浮気は勘違いだけど、俺はお前が思ってるような尊敬できる人間じゃないのは、当たってる」
言いながら、成は萌子の涙を思い出していた。
あんなこと、言うつもりじゃなかったのに。また、傷つけた。
…だけど、萌子も。否定しなかった。
結局傷ついたのは、お互いだった。
教室に戻れば、いやでも祥子と顔を会わせなければならない。
海辺で涙を奥底に押し込んでから、萌子の足は教室ではなく、保健室へと向かっていた。
紗依は、萌子が気分が悪いというと、疑うことなくベッドをひとつ提供してくれた。特に用事もなく寛ぎに来ていた生徒たちにも、体調の悪い生徒がいるから出て行くようにと告げ、気付けば保健室は静まり返っていた。五分もすれば、午後の授業の開始のチャイムが鳴る。悩んでいると、カーテン越しに紗依の声が響いた。
「珍しいわね、沢木さんが怪我以外のことで来るなんて」
「そう…ですか」
言葉を詰まらせながら答えると、紗依は明るくそうよと、答えた。
「でも、心を休めることも時には大切。午後いっぱい、ここで休んでいく?」
どうやら仮病は見抜かれているらしい。だが、紗依はそれを黙認してくれている。
「…はい」
罪悪感を感じながらも、萌子はそう答えた。
とりあえず、教室に戻らなくていいとほっと一息つくと、紗依がさらに問いかけてきた。
「部活は?どうする?」
そう言われて萌子は戸惑った。
グラウンドに行けば祥子はいないが、成はいる。
顔を合わせたくない。でも、練習を休むわけにはいかない。仮病がばれれば、石橋の逆鱗に触れるのは明らかだ。黙り込む萌子に、気を使ってか紗依が答える。
「まあ、すぐに決めることもないわ。練習が始まる前までに決めればいいから。石橋先生には、私から伝えるし」
会話が終わり、静寂が訪れる。
萌子は天井を見上げてから、腕を顔の前でクロスして、目を閉じた。
どうして、あんなこと言ってしまったんだろう。
成を責めるつもりはなかったはずなのに。
成と、ゆっくり、一緒に歩いていこうと決めたはずだったのに。
自然と溢れた涙が、頬を伝い、枕をぬらす。
『疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ』
わかっていたはずだった。
成は朔哉とは違って、言って欲しいことを言ってくれるわけではないし、先回りして萌子の気持ちを考えることもしない。
だけど、それでも、成と一緒に歩いていこうと思った。
それなのに…。
『萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ』
一歩前進したと思ったのは、萌子だけだったのだろうか。
成は、もとから萌子と一緒に歩くつもりはなかったのだろうか。
だから、祥子と夜中に会っていたのだろうか。
…だけど、祥子には朔哉さんがいる。
成だって、それを知っているはずだ。
それとも、二人はうまくいっていないとか?
その時、ドアが乱暴に開く音がして、中に入ってくる足音が静かだった保健室に響いた。
「ごめんなさい、今急病の生徒が…藤原君」
静かにするようにという前に、紗依は目の前に立つ右京の名前を呼んでいた。
体育教官室から駆けてきた右京は、肩を大きく揺らしながら、睨むように紗依を見据えている。その気迫に圧されるように、紗依が視線を右京から外し、棚に手を伸ばすふりをして背を向けたところで、右京が一歩近づいて、尋ねた。
「今日も、また弁当持って行くのか?」
「え」
右京が何のことを指しているのか、紗依にはすぐにわかった。
子供を連れて妻に家を出られた石橋の為に、紗依はたびたび石橋の家に差し入れの弁当を持っていっていた。
ただ、直接渡すわけにもいかずに、いつも玄関に置いて、チャイムを押し、物陰に隠れる。そうして、石橋がちゃんと受け取るのを見てから、帰るのだ。
この前などは、玄関に前回差し入れた時の容器が綺麗に洗われて置いてあった。
それは、まるで秘密の手紙のやり取りのようで、紗依の最近の楽しみであったのだ。
それをどうして彼が知っているのか、思わず振り返ると、右京は低い声で、小さく言った。
「もうやめろ。監督は先生のこと、何とも思ってない」
すると紗依は噛みつくように右京に言い返した。性欲剤
「あなたには関係のないことだわ―」
「見てられない。傷つくのを、見たくない」
自分の好きな人には、傷ついてほしくないから。
だがその言葉を右京が胸に強く押し込めたところで、紗依が怒りに震えた声ではっきりと言った。
「あなたには、関係のないことでしょう」
そして立ち尽くす右京を後にして、紗依は激しく音をたて、ドアを閉めて保健室を出て行った。
数日前のことだ。
ランニングをしていた右京の前を、紗依が自転車で通り抜けていた。いつもと同じ時間で、いつもと同じコースなのに、紗依を見かけたは初めてだった。
どこに行くのだろうと、気付いたら後ろを追いかけていた。紗依はのんびりと自転車を漕いでいて、スピード的にも右京のランニングにもちょうどよかった。
住宅街に入り、ある家の前で、紗依は自転車を降りると、かごから包みを取り出した。そして、それを門に引っかけるようにして吊るすと、代わりに置かれていた包みを拾う。そして、チャイムを鳴らすと、突然物陰に隠れた。
届ものならば、どうして正面切って渡さないのかと思っていた右京の前に現れたのが石橋で、思わず右京も身を潜める。石橋は包みを手に取ると、数回左右を見回したところで、ほほ笑んで家に入って行った。そして紗依は、石橋が家に戻ったのを確認すると、再び自転車に乗り、鼻歌を歌いながら元来た道を戻って行った。
それがどういうことなのか、わかったのは今日の昼休みのことだった。
進路のことで石橋から体育教官室に来るようにと言われていた右京だが、行ってみると石橋は不在で、弁当だけが机の前に置かれていた。近くにいた教員が、すぐに戻ってくるというので、右京はそのまま石橋の席の前で立っていると、他の教員たちが石橋の話を始めた。
「結局、仲直りしたみたいですよ、石橋先生」
「手作りのお弁当でしょう?見た見た」
「おかずをひっそりと家の前に届けてるってね。チャイムだけ鳴らして、顔は出さない。弁当だけじゃなくさっさと奥さんも家に戻ってくればいいのにね」
「一度出て行った手前、戻りづらいんじゃないですか?石橋先生も頑固者だし、似た者夫婦ってやつでしょう」
石橋の妻が家を出ているということにも驚いたが、何より右京が驚いたのは、紗依が届ける弁当を石橋が妻からの差し入れだと思っているところだった。だが、確かに厳格な石橋であれば、紗依の差し入れを断るに違いない。だが、そうとは知らずに、紗依は受け取ってくれていることを喜んでいる。
気づけば右京は、石橋を待たずに体育教官室を飛び出した。行く先は保健室、つまりは紗依のところだった。
気づいてないんだ。そもそも、対象としても見られてない。
それに気づいてほしい。
これ以上、傷つかないでほしい。
だが、そう伝えたかった気持ちとは裏腹に、そっけない自分の言葉が紗依を傷つけてしまった。
「…畜生」
右京は小さくそう呟くと、壁に背をつけ、天井を仰いだ。
午後の練習は、雨のために室内でのトレーニングになった。
「萌子が病欠?珍しいな」
腹筋をしながら、そう興仁が呟く。興仁の足を押さえていたケンがそれに答えた。
「そういや午後の授業もいなかったし。何かあったのか?成」
隣で湊の足を押さえていた成は、突然話を振られて、思わず手が緩んだ。
「あ…」
途端に、腹筋をしていた湊の体がぐらりと揺れて、成は慌てて足を押さえる。
「ごめん、湊」
「大丈夫。それより、回数合ってる?これで、三十五回目だけど」
頭の中で飛んでしまっていた数字を言われて、成は何度も頷いた。
部室を飛び出してから、成は萌子を見かけていない。授業が始まるからと教室に戻ったが、萌子は気分が悪いと保健室で休んでいた。休み時間に様子を見に行こうかとも思ったが、萌子が教室に来ないのは自分が原因だと思うと、そうすることができなかった。だが、何も知らずに様子を見に行った知朗が、教室に戻ってくるなり萌子の鞄を持って出て行こうとしたのには、流石に声をかけた。曰く、調子が悪いから学校も早退するのだそうだ。何も知らない祥子がその話を聞いて自分が鞄を届けると言い始めた時は、成も焦ったが、知朗がもう次の授業が始まるし、自分が行った方が早いと説得して、事なきを得た。
だが成にも、このままじゃいけないということくらい、わかっている。
しかし、自分が萌子にはいた言葉を思い返すと、顔を合わせても、どう話したらいいのかがわからない。
『疲れるんだよっ、萌子といると、すぐそう言うことになる。面倒なんだよ、いちいち試されて、その結果駄目だしされてるみたいでさ』
実際、疲れる部分もあった。朔哉と比べてるような感じもしたし、周囲からの視線も気になった。
萌子のことを好きだったけれど、こういうことを望んでいたわけじゃないと思った。
『萌子は、今でもずっと、あの人のことが好きなんだよっ』
言われた時の萌子の表情を、流れた涙を思い出す。
萌子のことも泣かしたかったわけじゃない。
なのに、どうして自分は、好きな子を傷つけることしかできないのだろう。
俯きため息をついた成の耳に、由太の低音が響く。
「おい、私語は慎め。トレーニングだからって気を抜くな。怪我するぞ」
「はーい」
ケンと興仁が目を合わせて、可愛らしくそう答える。
その様子を見ながら、由太は小さくため息をつくと、その隣にいる成を見つめた。
思った通りだな。
ここ最近の成と萌子は、まるで合わせ鏡のように、喜怒哀楽が一致する。成が笑っていれば萌子も笑い、萌子が悲しんでいれば成も悲しんでいる。
由太が保健室に入ったのは、偶然知朗と廊下で鉢合わせたからだった。
走ってくる知朗に、ぶつかりかけて、謝られて、注意をすると、
「萌子が気分悪くて、保健室にいるんだっ」
といい残された。流石に気になって、保健室に行ってみると、中には萌子一人で、知朗はいなかった。
一目で、落ち込んでいる萌子に何があったのか聞くことを悩んでいると、萌子の方から切り出した。
「ごめん、体調悪くて…今日の練習、休んでもいいかな」
昼過ぎから降り出した雨は、この頃には本格化していた。おそらくグラウンドでの練習はできない。
「わかった。監督には俺から言っておく」
ありがとうという声にも、元気がない。単に体調が悪いからだけじゃないと感じた。
何があった?
あいつと、成と何があった?
そう尋ねようとしたところで、知朗が萌子の鞄を持って駆け込んできた。
「持ってきたぞ、鞄。今日は帰ってゆっくり休め」
鞄を受け取り立ち上がった萌子の足取りはどこか頼りなくて、結局知朗が下駄箱まで連れて行っていた。
廊下で二人の後姿を見つめていると、反対方向から、女子生徒が保健室に飛び込んできた。そして、荒い息の中でも必死で言った。
「あのっ、三年の沢木萌子っ、いますか?」
中にいた紗依の声で、萌子がもう出て行ったことを説明しているのが聞こえる。
今からならば、下駄箱にいる萌子にギリギリ間に合うと伝えようと思った由太は、保健室に顔を出したところで、その言葉を飲み込んだ。
「ありがとうございました…」
そう言いながら保健室から出て行こうとしているのは、菅原祥子だった。
この凪高で、少なくともサッカー部で祥子のことを知らない生徒はいない。
卒業式に、朔哉と共に学校を出て行った生徒であり、言わば萌子から朔哉を奪った生徒であり、しかしながら今は萌子と同じクラスで仲がいいという生徒でもある。由太は一年の時に祥子と同じクラスだったので、互いに面識もあった。
祥子は由太に気づくと、軽く会釈をして、保健室を出て行った。
萌子を心配して、保健室に来たというのであれば、友情は確かに芽生えているのかもしれない。だが、それは祥子側の話であって、萌子側となると別だ。しかも、あの駆けつけ方からすれば、祥子としては、自分の過去への気遣いは全くないようだった。
菅原のことも、無関係じゃないのかもしれない。
だが、それより何より、成がこの場にいないことが、全てを物語っている気がした。
しっかり萌子のこと、捕まえていろよ、成。
でなければ…。
その先に思ったことを、由太は慌てて心の奥に仕舞いこんだ。
眠ってしまえば、何も考えなくて済むはずなのに、萌子の頭は一向に眠る気配すらない。眠るという行為は、リラックスしていなければいけないという話を思い出しながらも、リラックスなどできるはずもなかった。
目を閉じれば、勝手に萌子の頭の中で、寄り添う成と祥子の姿が過る。慌てて眼を開けても、暗闇の中で思い出すのは、成に言われた言葉だった。
その先を思い出すのが辛くなり、すぐに目をぎゅっと閉ざす。
ここ数時間この繰り返しで、当然萌子が眠れるはずもなかった。
布団を被り、ため息をついたところで、ドアがノックされ、母親が顔を出した。
「萌子、電話だけど出れる?」
「誰?」
布団の中から、萌子が尋ねる。
成だったら、という淡い期待は、だが何を話せばいいのかわからないという不安へと変わる。そして、母親が言った。
「同じクラスの菅原さんって女の子」
その名前を飲み込みながら、萌子は更に布団にもぐりこんで答えた。
「ごめん、気分が悪いから、出られない」
萌子の返事に、母親は優しく答えた。
「わかったわ。あなたはゆっくり休んでなさい」
萌子の仮病を見抜いているのか、早退した萌子に薬を飲ませようとした母に、薬はいらないというと、そのままわかったと言って薬の箱をしまった。
そして萌子を二階の部屋に寝かせると、それ以上は萌子を干渉しなかった。
だがその距離が、今の萌子には心地よかった。
それでも常に近くにいてくれる。萌子が手を伸ばせば、届く距離に母はいる。
そしてそのきっかけをつくってくれたのが、成であることを思い出し、萌子は唇を噛みしめた。
今日だけは、遅刻できない。
そう思った成は、約束の時間より少し早くに萌子の家の前に立っていた。
昨日は何度も電話をかけようと思ったが、知朗にまたしても先を越されてしまった。だがその知朗も、萌子とは話ができなかったらしく、
「具合が悪くて出られないから、誰も電話をかけるなって」
と、皆を先制するように言った為、成としても何もできなくなってしまった。
何を話せるわけではないが、まずは昨日の言葉を謝り、それから祥子のことを説明する。
昨日湊に何があったのかと聞かれた時も、話し終わった成に湊はそう言った。
『言ってしまった言葉は取り返せないから、とにかく謝った方がいい。
それから祥子のことは、全部素直に話した方がいい。そうすれば、萌子もきっとわかってくれるよ』
少しでも早く謝りたい。
そう心に決めて早く来たものの、いつもの時間を五分過ぎても、萌子は現れる気配はない。
まだ、調子悪いのか。
今日も休むんだろうか。
成が萌子の家の塀に身をもたれて悩んでいると、女性用媚薬
「あの…」
と声が聞こえてきた。体を起こし、声のした門の方を見ると、萌子と似た顔の女性が成のことを見つめている。
「もしかして、早坂君?」
萌子の母さんだ。
慌てて成は、背筋を伸ばして頭を下げた。
「あっ、お、おはようございます」
すると萌子の母親はそんな成を見て、くすりと笑った。
「おはよう。
ごめんなさい、萌子はもう学校に行ってるわ。昨日休んだ分、何だか、やらなきゃいけないことがあるとかで、今日はいつもより早く出て行ったの」
「そう…ですか」
成の表情が曇る。
確かに萌子の言うことも一理あるが、それでもやはり自分と顔を合わせたくなかったのではないかと成は思ってしまう。
力なく失礼しますと答え、学校へと歩き出したところで、萌子の母親が成を引き留めた。
「あの、早坂君」
「あ、はいっ」
慌てて振り返ると、楽しそうな笑顔が返ってきた。
「今度、晩御飯うちに食べに来てちょうだい」
「は、はいっ」
再び背筋を伸ばしてそう答えると、萌子の母親は更に楽しそうに微笑んだ。
朝練は、さり気なくやり過ごした。成となるべく離れているようにしていたけれど、萌子の体調がまだ優れないと思っているのか誰もそれを不審がる様子はなく、教室へ向かう時にも知朗がまるで護衛のように貼りついてくれていて、成の入る隙はなかった。成の方も、自分を置いて先に学校に向かったことを気にしているのか、積極的に萌子の方にはやってこなかった。
けれど、祥子は違っていた。
「大丈夫、萌子。やっぱり顔色悪いみたいだけど」
「うん、平気」
そうは言いながらも、やはり祥子の顔を見ると、昨日の話を思い出して、自然と視線を逸らしてしまう。何も知らない祥子には、そんな萌子が無理をしているように見えるらしい。向かい合って弁当を食べる心境でもなく、気付いたら半分ほど残して、蓋を閉めていた。
そうだ、用事があるからって図書室でも行けばいい。
そうすれば、少しの間でも一人で静かにしていられる。
だが、そんな萌子の思いは祥子には伝わらない。
「どこ行くの?ついて行こうか?無理しないでね。保健室で、休んでてもいいんだからね。ノートは私が取っておくし―」
「萌子」
萌子が返事に戸惑っていると珍しく湊が祥子の言葉を遮って、萌子を呼び止めた。
「ちょっと、いいかな」
湊の話はわかっているから断りたかったのだが、そうすると祥子と一緒にいることになる。結果、萌子は湊の後を追って、部室へと向かう。誰もいないのを確認してから、湊はミーティングルームに入り、萌子に座るよう言った。
「話があるんだ」
「成のことだったら、聞きたくない」
はっきりとそう言った萌子に、湊は苦笑する。昨日は落ち込む成を励まして今朝寮から送り出したつもりだったのに、学校に行ってみれば、二人の関係は悪化していた。萌子が成との約束を破り、一人で先に学校に向かったらしい。萌子からすればしょうがないとも思いつつも、湊はこの件はできるだけ早く穏便に済ませようと思っていた。二人のぎこちない関係がこのまま続けば、部員たちにもばれる。ばれてこじれれば、元に戻るには更に時間がかかる。樹生の勘違いとはいえ、聞かせてしまったのは自分の責任だと、湊は萌子の正面の椅子を引き、ゆっくりと座る。
「いろいろ腑に落ちなくて、昨日成からちゃんと聞いた。誤解されたまま仲互いをされたら、聞かせた俺と二人の後輩の心臓にも悪い」
「…誤解?」
そっぽを向いていた萌子の顔が、一瞬だけ湊を見つめる。ああ、と答えて、湊は全てを説明した。
「一つずつ言うと。
まず駅で会ってたって話。確かに成は、樹生に聞かれてコンビニに行ってたって嘘をついた。
でもそれは、探し物があったからで、それを見つけて帰る時に、泣いている祥子に出会った。肩を組んでたって言うのは樹生の勘違い。成も覚えてないくらいで、多分泣いてる祥子の肩を掴んで歩いてたのが、樹生にはそう見えたんじゃないかって」
祥子が泣いていたということに驚きながらも、萌子は心を緩めないようにときつく湊に言い返す。
「だったら、どうしてコンビニって嘘をついたの?」
だが湊は柔らかな態度を変えずに、頷きながら答えた。
「探しものって言うのは、御守。萌子が渡したんだろう?遠征前に成に」
言われて、あっと小さな声を萌子はあげる。
「プレゼントされたものを落としたことが情けなくて、コンビニだと答えた。まさかそんな問題になるとも思ってなかったって」
萌子の表情からいくらか硬さがとれて、湊は話を続けた。
「それから、一昨日の話。
相談したいことがあるからって、成は祥子に呼び出された。アルジャーノンの前で待ち合わせして、それから海へ向かった。バイト終わりの一馬が二人の後姿を見てた。
帰りが遅くなったのは、祥子に付き合っていたから。深夜の海辺に女の子一人置いて先に帰れるほど、成は無責任じゃないよ」
湊の穏やかな声で、きつく結ばれていたはずの糸が、ゆっくりと解けて行くように、萌子の頑なな心も少しずつ溶かしていく。
だけど…と萌子は口を開いた。
「だけど、まりちゃんが言ったことは?お互いを想い合っているって」
すると湊はくすりと笑った。
「大野が早とちりなことは、萌子の方がよく知ってるだろう?
あれは全くの誤解、二人の近くを通った時に、海風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる二人の会話を、勝手に解釈しただけ。
祥子が萌子になりたい、成が福山さんになりたい。そう聞こえたんだ。
それを大野が、萌子は成の恋人で、福山さんは祥子の恋人だから、互いの恋人になりたいってことは、お互いのことが好きだと思ったらしいんだよ。まあそれも、樹生の話を聞いて、ひらめいちゃったって感じだろうけど」
くすりと笑う湊を目の前に、成と祥子の会話の意味がわからずに黙り込んでいると、それから、と湊が話を続けた。
「昨日渡したって紙は、祥子の悩み事に関係しているらしい。だけど、その悩み事が何かってのは俺には話してくれなかった。祥子の話だから当然だと思う。気になるんだったら萌子が祥子に聞けば、教えてくれるかもしれない」
湊はそのままニコニコと微笑み続け、まるで萌子の気持ちを見過ごしたように言った。
「成が嘘をついたのは、萌子の為だよ。
余計な心配掛けたくなくて、大したことじゃないと思ってついた小さな嘘が、いつの間にか大きくなって、取り返しがつかなくなっていたってだけで。大きくなってから、正直に話をしたら、余計に誤解するだろう?嘘が苦手な成が、よく本当のことを言わないで我慢してたって俺は思ったけど」
そう言われても、誤解だとわかっても、それでも、嘘をつかれたことを素直には許せない。中絶薬
2014年6月4日星期三
魔導ギルド
「魔導ギルドから招待状ですか?」
あの地獄の地下迷宮を何とか攻略し、ようやく褒賞などの件が片付いた頃。
俺はなぜかブランタークさんから、魔導ギルド本部から送られた招待状を受け取っていた。精力剤
「王都ブライヒレーダー辺境伯屋敷に、俺宛で送られて来てな」
「ブランタークさんって、魔導ギルドの会員なんですね」
「別に、好きでなったわけじゃねえぞ」
ブランタークさんは、俺に渡すはずの手紙を団扇のようにヒラヒラさせながら答える。
魔導ギルドとは、文字通りに魔法が使える魔法使いが所属するギルドである。
会員数は、約二千人ほど。
魔法使いの全数から考えると少ないようだが、地方の農民で火種を出せる程度の人は会員にはならないからで。
もう一つ、魔道具が作れる人は魔道具ギルドに所属してしまうので、その分も人数は少なくなっていた。
「あれ? 二つに所属は出来ないんですか?」
他のギルドだと、例えば俺は子供の頃に商業ギルドの会員証を発行して貰っていたし、今は冒険者ギルドの会員証も持っている。
他にも複数のギルドを掛け持ちしている人は多く、ギルド側も会員数が多い方が色々と有利なので、何も言わないのが普通になっていた。
それが、魔導ギルドと魔道具ギルドだけは兼任できない。
不思議な話ではあった。
「出来ないわけでもないんだが……」
昔はそれほど仲も悪くなかったそうだが、今はある理由で両者の仲は険悪になっているらしい。
「予算の配分でな……」
「金の問題は深刻ですね」
「そうだな」
ヘルムート王国が成立してから暫くして後、余裕が出来た王国政府は、古代魔法文明時代の優れた魔法技術を復活させるため、魔法技術の研究に予算をつけるようになる。
ところが、魔法使いは数が不足している。
いくら公の機関でも、そう簡単に人は集まらなかった。
そこで、魔道具ギルドと魔導ギルドの双方に予算を渡し、魔法技術研究を依頼するようになっていったのだ。
この瞬間から、両ギルドは半公的機関として世間に認知されるようになっていく。
「どちらが成果を挙げたかとか、予算配分とかで揉めてな。あとは、ごらんの有様さ」
微妙に情けない話ではあったが、珍しい話でもない。
どこの世界でもある、人間の性という奴であろう。
「魔導ギルドは魔道具ギルドに対抗すべく、会員数の増加を図ったわけだ」
もう一方の魔道具ギルドであるが、ここは魔道具が作れない人には用事のない組織である。
それも、少なくとも汎用の魔道具が作れないと会員になれないのだ。
よって会員数は少ないが、魔道具は世間から引っ張り凧なのでギルドの存在感は揺らぎもしない。
魔導ギルドとしては、高名な魔法使いを無理矢理会員にしてでも、魔道具ギルドに張り合う必要があるのだそうだ。
「心の底から、どうでも良いですね」
「俺も心底、そう思う」
魔法とは、基本的には個人で習得していくものである。
師匠がいる人も多いが、別に魔導ギルドなんか無くても生きていけるわけで。
黙っていると、誰も会員登録に来ないらしい。
そういう俺も、魔導ギルドの存在など記憶の片隅にも存在していなかったほどだ。
「師匠は、会員だったのでしょうか?」
「勝手に登録されたと言っていたな。俺も同じだけど」
「良くそんな組織が、半公的機関扱いされますね」
「共用魔法陣の研究を委託されているからな。少数だが、優れた魔法使いもいるんだよ」
共用魔法陣とは、魔法使い個人の思考・想像能力に頼っている魔法を、魔力があれば誰にでも使えるようにするための物である。
先日の、強制移転魔法陣と同じ物と言えば分かり易いであろう。
あのような魔法陣を他の魔法でも作り出し、最終的には魔力を篭めるだけで様々な魔法が発動する魔法陣集を作り出す事が目的なのだそうだ。
「なるほど、魔法陣の本を捲って使いたい魔法をのページを探し、それに魔力を篭めて発動と」
「そんな感じだな。少ない魔力は、魔晶石で補填するわけだ」
即応性には劣るが、複数が同じ魔法を同時に使える。
軍などでは、重宝されるかもしれない。
「ただ、古代魔法文明時代の魔法陣はなぁ……」
移転か強制移転が大半で、他の攻撃魔法などは、トラップ発動後にかなりの部分が消えて効果が無くなっている物くらいしか回収されていないそうだ。
「魔法陣に書く文字や記号に、意味不明な模様や絵に似た物と。パターンが複雑過ぎて、あまり成果は出ていないそうだ」
もう一方の魔道具ギルドの方は、徐々にではあるが成果を挙げている。
世間にそれなりの種類の魔道具が普及しているので、これは誰にでもわかる成果であった。
なるほど、魔導キルドが焦るはずだ。
「そこでだ。先日の地下迷宮攻略の際に新しい魔法陣を獲得し、それを売却してくれた坊主への感謝の気持ちと共に」
「会員にしてやると?」
「正解だ」
そんな理由で、俺とブランタークさんは王都の中心地にある魔導ギルドの本部を訪ねていた。
本部の建物は、事前の説明から想像した物に比べると立派なようだ。
そして、その対面に同じくらい豪勢な建物も建っている。
「それは、魔道具ギルドの本部な」
「嫌い合っているのなら、なぜ向かい合って……」
「先に引っ越すと、世間様に逃げた印象を与えるからだと」
「はあ……」
あまりにバカバカしい理由に呆れつつ、俺達は一階の受付で来訪目的を告げてから会長が待つ部屋へと移動する。
さすがに魔導ギルドは、トップが総帥などと言う大仰しい肩書きではないようだ。
「初めまして、ベルント・カールハインツ・ヴァラハです」
魔導ギルドの会長は、どこにでも居そうな普通の白髪の老人であった。
魔法使いなのでローブ姿ではあるが、あまり大した魔法使いにも見えない。
良くて、初級と中級の間くらいの魔力であろうか?
とりあえず、こちらも自己紹介をしておく。
「本日は、よくお越しいただきました。早速ですが……」
俺が最初にここで行ったのは、魔導ギルドへの会員登録であった。
会長が呼び鈴を鳴らすと、すぐに二十歳前くらいの若い女性職員が入って来て俺に会員証を渡す。媚薬
「あの、何か記入しなくても?」
「はい、バウマイスター男爵様の身元は確実ですので」
「そうなんですか」
ただ若い女性職員から会員証のみ渡され、手続きは終了となる。
どうやら、本当に入会して欲しいと思われると、必要事項の記入すら向こうで勝手にしてくれるようだ。
更に渡された会員証を良く見ると、そこには名誉役員という表記も見える。
いきなり、名誉付きとはいえ役員にされてしまったらしい。
「あの、名誉役員って?」
「はい、バウマイスター男爵様は優れた魔法使いですから」
要するに、魔導ギルドの宣伝のために名前を貸せという事らしい。
だが、その名誉役員とやらの仕事で時間を取られるのも嫌なので、これは断ろうとする。
だが敵も然るもの、すぐにこちらの意図を予想して反論してくる。
「名誉会員は本当に名前だけですので。お隣に居る、ブランターク殿を見ればわかると思いますが」
「俺も名誉役員だけどな。仕事なんて何もないぜ」
その代わりに、報酬なども無いらしいが。
更に、他のギルドのように会員費用なども一切無いそうだ。
あまり用事の無いギルドなので、年会費を徴収すると脱会する会員が増えるらしい。
しかし、話を聞けば聞くほど、何のためにあるのかわからない組織のように感じる。
「研究部門では、現在大車輪で魔法陣研究が進んでおりますです。はい」
俺達が見付けた、あの新しい様式の強制移転魔方陣の解析もそこで行っているらしい。
研究のために王国から出る補助金と、極一部の奇特な方からの寄付で魔導ギルドは運営されているそうだ。
「早速に、案内させましょう」
別に見たいとも思わないが、向こうがそう言うので。
先ほどの若い女性職員の案内で、研究部門がある地下階へと移動を開始する。
「ブランタークさん、あの会長なんですけど……」
言っては悪いが、どう見ても大した魔法使いには見えなかった。
なので、その理由をブランタークさんに聞いてみたのだ。
「そりゃあ、優秀な魔法使いなら現場に出るか、これから行く研究部門行きだからな」
結果、魔法使いとしては微妙だが、事務能力があったりする人が組織運営を行うそうだ。
なので、会長だからと言って、必ずしも優れた魔法使いなどと言う事もないらしい。
「あと、貴族の子弟の就職先な」
税金が投入されている組織なので、辛うじて魔力はあるけど現場で活躍するのは厳しい。
そういう人も、組織運営の方に入るそうだ。
「教育は受けているから、事務仕事とかは大丈夫なわけだな。あとは……」
ブランタークさんは、俺達の前を案内のために歩く若い女性職員を顎で指す。
王都に住む、辛うじて魔法使い扱いされる女性が、結婚するまで腰掛けで働くか、人によっては結婚後も職員として残るケースも多いそうだ。
「事務や管理部門なんて、基本お役所仕事だからな。魔法はあまり関係ないのさ」
「魔導ギルドって、つまり……」
優秀な人は、現場か研究部門へ。
そうでない人は、ギルド組織を運営する部門へと。
確かに、合理的ではあった。
「こちらになります」
お姉さんの案内で地下にある研究室に入ると、そこではいかにもな魔法使いの男女が、新しい魔法陣の試作や、解析などで忙しく働いていた。
魔力の方も、見た感じでは中級クラスも複数存在するようだ。
「ここが、魔導ギルドの心臓部なのさ」
言っては悪いが、今この上の階が吹き飛んで会長以下の職員達が全滅しても、全く魔導ギルドの運営に支障を来たさない。
彼ら研究部門こそが、この魔導ギルドの肝であると。
ブランタークさんは、小声で俺に説明をする。
「おおっ! 新しい魔法陣を売ってくれたバウマイスター男爵殿か!」
俺達の到着に気が付いた、一人の初老の男性が声をかけてくる。
白髪混じりのボサボサの髪を無造作にオールバックにしている、如何にも研究者と言った感じのその人は、研究部門のトップであるルーカス・ゲッツ・ベッケンバウアーだと名乗っていた。
「ブランターク。アルフレッドの弟子は、素晴らしい魔力の持ち主だな」
「だろう」
どうやら、この二人は知り合いのようだ。
お互いに気安く会話をしていた。
「よし、これほど魔力があれば。バウマイスター男爵殿、こちらに」
ベッケンバウアー氏は、形式通りに研究部門の案内などするつもりもないようだ。
俺の手を引き、自分が研究しているスペースへと強引に引っ張っていく。
「ブランタークさん?」
「こういう男なんだよ。所謂、研究バカ?」
俺の見立てでは、ベッケンバウアー氏の魔力は中級でも上の方だ。
普通に冒険者でもした方がよっぽど稼げるのに、魔導ギルドで研究に時間を費やしている。
ここに居る人達は、大半がそんな感じのようだが。
「これが先日、バウマイスター男爵殿から購入した魔法陣を改良した物だ」
「ブランタークさん、わかります?」
「いや、間違い探しみたいだな……」
集中して見ると眩暈が起こりそうな魔法陣の文様に、俺とブランタークさんは、自分達には魔法陣の研究など不可能だと感じてしまう。
「それで、これはどこに移動を?」
「いや、たまたまの成果なのだが、これは逆の効果が出る魔法陣の試作品でな」
「逆ですか?」
「うむ、逆にどこかからこちらに移動させる魔法陣なのだよ」
ベッケンバウアー氏の説明によると、この魔法陣は人や物をこの魔法陣の上に引き寄せる効果があるらしい。
「効果はわかりますが、どこの物を引き寄せるんですか?」
「その部分が、この魔法陣が試作品なわけでな」
普通の魔法と同じく、魔法陣を使う魔法使いの想像力にかかっているそうだ。
「ゴタゴタ説明しても意味が無いか。試しにやってみる事にしよう。このように……」
ベッケンバウアー氏が魔法陣の前に立ち、十秒ほど目を閉じながら集中する。
すると、一瞬だけ魔法陣が青白く光り、次の瞬間には何か白い布のような物が置かれていた。性欲剤
「何、コレ?」
「パンツ……」
魔法陣の上には、白い女性用のパンツが置かれていた。
しかも新品ではなく、直前まで誰かが履いていたようにしか見えない物がだ。
「あの、ベッケンバウアーさん?」
「あの女性職員の履いていたであろう、パンツを移動させたのだ」
ベッケンバウアー氏からの衝撃の発言に、研究室内にいる人達の視線が全て、俺達をここに案内してくれた女性職員へと向かう。
突然、しょうもない理由で注目された彼女は、顔を真っ赤にさせながら怒りで体を震わせていた。
「このように、この魔法陣は引き寄せる対象物の大きさ、重さ、距離で必要魔力量が変わるわけだ。理論上は時間や次元も超える事が可能なのだが、魔力の消費量が桁違いに……」
「いきなり何をするんですか!」
真面目な顔で説明をするベッケンバウアー氏の頬を件の女性職員がビンタして、引っ手繰るように魔法陣の上のパンツを持ち去って行く。
あとには、頬にビンタの跡がついたベッケンバウアー氏が残されていた。
「ワシ、研究部門のトップ……」
「さすがに、あれはお前が悪いだろう」
ブランタークさんの正論に、俺達ばかりか他の職員達も同時に首を縦に振るのであった。
「面白そうな物ではありますか」
「偶然の産物という点において、研究者から見れば失敗作なのだが」
強制移転魔法陣を改良中に偶然誕生した、別の場所から物を引き寄せる魔法陣。
その威力を、俺とブランタークさんはまざまざと見せ付けられていた。
実験で履いていたパンツを取られ、その復讐でベッケンバウアー氏をビンタした女性職員を見送ってから、俺はその魔法陣に視線を送る。
しかし、いくら見ても前の魔法陣との差がわからない。
多分、俺では永遠に理解不能だと思われる。
「実際に、使ってみるかね?」
「良いんですか?」
「正直、そんなに成功率は良くないのでね。危険も少ない」
引き寄せる物とその位置を正確にイメージ出来ないと、ただの魔力の無駄遣いになってしまうそうだ。
ベッケンバウアー氏が、視界にある女性職員が履いていたパンツを標的にしたのにも、一応の理由があったのだ。
「男のパンツなど引き寄せても、何も楽しくないからな」
「納得は出来るけど……」
『なぜパンツに拘るのか?』という疑問だけが、俺に残ってしまう。
「そういえば、理論上は次元と時間も超越可能であると?」
「理論上はね」
次元とは、この世界にも他の良く似た世界パラレルワールドの概念が存在している。
何でも、古代魔法文明時代に異世界の産物を魔法で引き寄せたという伝承が残っているのだそうだ。
それが事実なのか、物語なのかは不明であったが。
「(ここに、その異世界から来た人間がいるんだけどね……)」
正確には転生なのか憑依なのかは不明であったが、確かに異世界は存在していると俺は断言できる。
信じて貰えるかは不明であったが。
「では、早速に」
そんなわけで、俺も試しに魔法陣を使ってみる事にする。
ただこの魔法陣の魔力消費量は、物の重さに距離を掛けた分なのだそうだ。
遠距離にある重たい物を引き寄せると膨大な魔力を必要とする。
しかも、イメージに失敗すると魔力だけ無駄に失ってしまう。
「という事は、時間や次元が違うと?」
「消費魔力は桁違いであろうな。ワシなら、目的を達せられずに魔力だけ消費して気絶する」
中級の上の魔力を持つベッケンバウアー氏でもそうなのだから、異世界から物を引き寄せるには相当な魔力が必要なのであろう。
第一、その対象物のイメージが出来ないと魔力だけ無駄にしてしまうのだ。
まずは、安全策で近場の物をイメージする事にする。
「何にしようかな?」
「バウマイスター男爵殿、ちゃんとイメージを固めてからにしないと……」
具体的に何にするのかを良く考えないで、魔法陣の前に立ち集中してしまったのが良くなかったのであろうか?
魔法陣が青白く発光した後、その上には先ほどと似たような物が置かれていた。
良く見ると、やはり女性用のパンツであった。
この世界にも、地球と同じような下着が普及している。
俺の実家のような田舎だと自作のカボチャパンツだったりするが、王都や都市部では専門の服飾店によって洗練されたデザインの下着も置かれているのだ。
これも、王侯貴族御用達とまではいかないが、それなりの値段がする下着のようだ。
「色は黄色で、女性用」
「パックに、ウサギ柄の刺繍ねえ……」
この下着の持ち主は、かなり可愛い物が好きなようだ。
「誰のなんだ? 坊主」
「さあ? 実は、屋敷の中の物をイメージしただけなので」
俺の屋敷の中にある物を何かとイメージしたので、これは誰かのタンスの中から引き寄せられた可能性が高かった。女性用媚薬
「それだけのイメージで成功とは。さすがは、バウマイスター男爵殿。そして、このパンツは……」
ベッケンバウアー氏はそのパンツを手に取り、その温かさを確認していた。
本人は研究者としての目線で引き寄せられた物の確認をしているのだが、傍から見れば下着に執着するただの変態ジジイにしか見えなかった。
「ふむ、先ほどのワシのイメージも重なったのであろう。このパンツは、誰かが履いていた物で間違いない」
「えっ、そうなの?」
だとしたら、とんでもない事をしてしまった事になる。
なとと考えていると、いきなり研究室の扉が勢い良く開き。
室内に、一人の女性が乱入してくる。
その女性とは、今日は屋敷で休んでいるはずのイーナその人であった。
「ヴェル! 私のパンツ!」
「良くわかったな」
「いきなり履いているパンツが消えるなんて、魔法しかあり得ないわ」
更に、今日の俺が魔導ギルドを尋ねるという予定は知っている。
パンツを取り戻すために急ぎ魔導ギルドまで行くと、親切な女性職員がこの地下研究室に案内してくれたそうだ。
間違いなく、先ほどベッケンバウアー氏にパンツを取られた女性職員であろう。
「おおっ! いきなり初回で、上級貴族屋敷に住んでいる女性のパンツを召喚か。素晴らしい才能であるな。しかし、見た目はクールビューティー系なのに、パンツは可愛い系であるか。これは、ある種のギャップであるかと……」
「そんな事よりも! パンツを返せ!」
まだガッチリとパンツを握っていたために、ベッケンバウアー氏はイーナから強烈なビンタを貰ってしまう。
というか、この人はなぜこんなに無駄口が多いのであろうか?
まさに、『雉も鳴かねば撃たれまい』という奴だ。
「あの、イーナ」
「何? ヴェル」
「今度、下着を買うのなら付き合うから」
「……、まあ良いわ」
「坊主、惚れられてて良かったな」
イーナからの制裁を免れ、俺は心から安堵するのであった。
「ヴェル、今度はパンツ以外にしなさいよ」
「そういうコントロールには慣れていないんだよ。まだ二回目だし」
「慣れてなくても、パンツしか召喚できないなんて情けないじゃないの」
「改めて言われると、確かに情けない……」
ようやくパンツが戻って来たイーナも加わり、俺は次の召喚実験を開始する。
というか、いつの間にか実験になっているし。
召喚と呼ぶには、その成果は微妙とも言えた。
精々で、お取り寄せレベルであろうと。
「とにかく、パンツ以外で」
「わかったよ……」
イーナから強く言われながら、俺は再び自分の屋敷から何かを取り寄せるイメージを頭に思い浮かべる。
すると三度魔法陣が青白く光り、今度は黒い何かがその上に取り残される。
「ええと……」
その黒い物体は、俗に言うブラジャーと呼ばれる物であった。
「黒のブラジャー……」
「ヴェル……」
「いや、パンツじゃないし……」
「だからって、ブラジャーはないでしょうが!」
確かにイーナの言う通りなのだが、どこか思考がドツボに嵌っているらしい。
連続で下着を召喚とは、俺の品性が疑われてしまう話だ。
元から無いと言われれば、それまでなのだが。
「誰のなんだ?」
「ふむ、サイズは小さいな」
またベッケンバウアー氏が、黒いブラジャーを取ってマジマジと観察を始める。
重ねて言うが、これは研究者として真面目に召還物を観察しているだけである。
見た目は、ただの変態ジジイであってもだ。
「ヴェルぅーーー!」
そして、数分ほど後。
今度は、ルイーゼが研究室に乱入してくる。
やはり、とある女性職員が親切に案内してくれたそうだ。
「えっ! ルイーゼなのか?」
まさか、あのルイーゼが黒い下着を着けているとは。
少し言いたい事もあるが、それを口にすると大変な事になりそうなので言わないようにする。
ただ、またベッケンバウアー氏は空気が読めていなかったが。
「その幼い容姿で、黒の下着はまだ早かろう。それに、ブラジャーが必要な胸とも思えないが……」
「ふんっ!」
「あべし!」
ベッケンバウアー氏はルイーゼから往復ビンタを喰らい、頬のモミジの色を濃くしてしまう。中絶薬
あの地獄の地下迷宮を何とか攻略し、ようやく褒賞などの件が片付いた頃。
俺はなぜかブランタークさんから、魔導ギルド本部から送られた招待状を受け取っていた。精力剤
「王都ブライヒレーダー辺境伯屋敷に、俺宛で送られて来てな」
「ブランタークさんって、魔導ギルドの会員なんですね」
「別に、好きでなったわけじゃねえぞ」
ブランタークさんは、俺に渡すはずの手紙を団扇のようにヒラヒラさせながら答える。
魔導ギルドとは、文字通りに魔法が使える魔法使いが所属するギルドである。
会員数は、約二千人ほど。
魔法使いの全数から考えると少ないようだが、地方の農民で火種を出せる程度の人は会員にはならないからで。
もう一つ、魔道具が作れる人は魔道具ギルドに所属してしまうので、その分も人数は少なくなっていた。
「あれ? 二つに所属は出来ないんですか?」
他のギルドだと、例えば俺は子供の頃に商業ギルドの会員証を発行して貰っていたし、今は冒険者ギルドの会員証も持っている。
他にも複数のギルドを掛け持ちしている人は多く、ギルド側も会員数が多い方が色々と有利なので、何も言わないのが普通になっていた。
それが、魔導ギルドと魔道具ギルドだけは兼任できない。
不思議な話ではあった。
「出来ないわけでもないんだが……」
昔はそれほど仲も悪くなかったそうだが、今はある理由で両者の仲は険悪になっているらしい。
「予算の配分でな……」
「金の問題は深刻ですね」
「そうだな」
ヘルムート王国が成立してから暫くして後、余裕が出来た王国政府は、古代魔法文明時代の優れた魔法技術を復活させるため、魔法技術の研究に予算をつけるようになる。
ところが、魔法使いは数が不足している。
いくら公の機関でも、そう簡単に人は集まらなかった。
そこで、魔道具ギルドと魔導ギルドの双方に予算を渡し、魔法技術研究を依頼するようになっていったのだ。
この瞬間から、両ギルドは半公的機関として世間に認知されるようになっていく。
「どちらが成果を挙げたかとか、予算配分とかで揉めてな。あとは、ごらんの有様さ」
微妙に情けない話ではあったが、珍しい話でもない。
どこの世界でもある、人間の性という奴であろう。
「魔導ギルドは魔道具ギルドに対抗すべく、会員数の増加を図ったわけだ」
もう一方の魔道具ギルドであるが、ここは魔道具が作れない人には用事のない組織である。
それも、少なくとも汎用の魔道具が作れないと会員になれないのだ。
よって会員数は少ないが、魔道具は世間から引っ張り凧なのでギルドの存在感は揺らぎもしない。
魔導ギルドとしては、高名な魔法使いを無理矢理会員にしてでも、魔道具ギルドに張り合う必要があるのだそうだ。
「心の底から、どうでも良いですね」
「俺も心底、そう思う」
魔法とは、基本的には個人で習得していくものである。
師匠がいる人も多いが、別に魔導ギルドなんか無くても生きていけるわけで。
黙っていると、誰も会員登録に来ないらしい。
そういう俺も、魔導ギルドの存在など記憶の片隅にも存在していなかったほどだ。
「師匠は、会員だったのでしょうか?」
「勝手に登録されたと言っていたな。俺も同じだけど」
「良くそんな組織が、半公的機関扱いされますね」
「共用魔法陣の研究を委託されているからな。少数だが、優れた魔法使いもいるんだよ」
共用魔法陣とは、魔法使い個人の思考・想像能力に頼っている魔法を、魔力があれば誰にでも使えるようにするための物である。
先日の、強制移転魔法陣と同じ物と言えば分かり易いであろう。
あのような魔法陣を他の魔法でも作り出し、最終的には魔力を篭めるだけで様々な魔法が発動する魔法陣集を作り出す事が目的なのだそうだ。
「なるほど、魔法陣の本を捲って使いたい魔法をのページを探し、それに魔力を篭めて発動と」
「そんな感じだな。少ない魔力は、魔晶石で補填するわけだ」
即応性には劣るが、複数が同じ魔法を同時に使える。
軍などでは、重宝されるかもしれない。
「ただ、古代魔法文明時代の魔法陣はなぁ……」
移転か強制移転が大半で、他の攻撃魔法などは、トラップ発動後にかなりの部分が消えて効果が無くなっている物くらいしか回収されていないそうだ。
「魔法陣に書く文字や記号に、意味不明な模様や絵に似た物と。パターンが複雑過ぎて、あまり成果は出ていないそうだ」
もう一方の魔道具ギルドの方は、徐々にではあるが成果を挙げている。
世間にそれなりの種類の魔道具が普及しているので、これは誰にでもわかる成果であった。
なるほど、魔導キルドが焦るはずだ。
「そこでだ。先日の地下迷宮攻略の際に新しい魔法陣を獲得し、それを売却してくれた坊主への感謝の気持ちと共に」
「会員にしてやると?」
「正解だ」
そんな理由で、俺とブランタークさんは王都の中心地にある魔導ギルドの本部を訪ねていた。
本部の建物は、事前の説明から想像した物に比べると立派なようだ。
そして、その対面に同じくらい豪勢な建物も建っている。
「それは、魔道具ギルドの本部な」
「嫌い合っているのなら、なぜ向かい合って……」
「先に引っ越すと、世間様に逃げた印象を与えるからだと」
「はあ……」
あまりにバカバカしい理由に呆れつつ、俺達は一階の受付で来訪目的を告げてから会長が待つ部屋へと移動する。
さすがに魔導ギルドは、トップが総帥などと言う大仰しい肩書きではないようだ。
「初めまして、ベルント・カールハインツ・ヴァラハです」
魔導ギルドの会長は、どこにでも居そうな普通の白髪の老人であった。
魔法使いなのでローブ姿ではあるが、あまり大した魔法使いにも見えない。
良くて、初級と中級の間くらいの魔力であろうか?
とりあえず、こちらも自己紹介をしておく。
「本日は、よくお越しいただきました。早速ですが……」
俺が最初にここで行ったのは、魔導ギルドへの会員登録であった。
会長が呼び鈴を鳴らすと、すぐに二十歳前くらいの若い女性職員が入って来て俺に会員証を渡す。媚薬
「あの、何か記入しなくても?」
「はい、バウマイスター男爵様の身元は確実ですので」
「そうなんですか」
ただ若い女性職員から会員証のみ渡され、手続きは終了となる。
どうやら、本当に入会して欲しいと思われると、必要事項の記入すら向こうで勝手にしてくれるようだ。
更に渡された会員証を良く見ると、そこには名誉役員という表記も見える。
いきなり、名誉付きとはいえ役員にされてしまったらしい。
「あの、名誉役員って?」
「はい、バウマイスター男爵様は優れた魔法使いですから」
要するに、魔導ギルドの宣伝のために名前を貸せという事らしい。
だが、その名誉役員とやらの仕事で時間を取られるのも嫌なので、これは断ろうとする。
だが敵も然るもの、すぐにこちらの意図を予想して反論してくる。
「名誉会員は本当に名前だけですので。お隣に居る、ブランターク殿を見ればわかると思いますが」
「俺も名誉役員だけどな。仕事なんて何もないぜ」
その代わりに、報酬なども無いらしいが。
更に、他のギルドのように会員費用なども一切無いそうだ。
あまり用事の無いギルドなので、年会費を徴収すると脱会する会員が増えるらしい。
しかし、話を聞けば聞くほど、何のためにあるのかわからない組織のように感じる。
「研究部門では、現在大車輪で魔法陣研究が進んでおりますです。はい」
俺達が見付けた、あの新しい様式の強制移転魔方陣の解析もそこで行っているらしい。
研究のために王国から出る補助金と、極一部の奇特な方からの寄付で魔導ギルドは運営されているそうだ。
「早速に、案内させましょう」
別に見たいとも思わないが、向こうがそう言うので。
先ほどの若い女性職員の案内で、研究部門がある地下階へと移動を開始する。
「ブランタークさん、あの会長なんですけど……」
言っては悪いが、どう見ても大した魔法使いには見えなかった。
なので、その理由をブランタークさんに聞いてみたのだ。
「そりゃあ、優秀な魔法使いなら現場に出るか、これから行く研究部門行きだからな」
結果、魔法使いとしては微妙だが、事務能力があったりする人が組織運営を行うそうだ。
なので、会長だからと言って、必ずしも優れた魔法使いなどと言う事もないらしい。
「あと、貴族の子弟の就職先な」
税金が投入されている組織なので、辛うじて魔力はあるけど現場で活躍するのは厳しい。
そういう人も、組織運営の方に入るそうだ。
「教育は受けているから、事務仕事とかは大丈夫なわけだな。あとは……」
ブランタークさんは、俺達の前を案内のために歩く若い女性職員を顎で指す。
王都に住む、辛うじて魔法使い扱いされる女性が、結婚するまで腰掛けで働くか、人によっては結婚後も職員として残るケースも多いそうだ。
「事務や管理部門なんて、基本お役所仕事だからな。魔法はあまり関係ないのさ」
「魔導ギルドって、つまり……」
優秀な人は、現場か研究部門へ。
そうでない人は、ギルド組織を運営する部門へと。
確かに、合理的ではあった。
「こちらになります」
お姉さんの案内で地下にある研究室に入ると、そこではいかにもな魔法使いの男女が、新しい魔法陣の試作や、解析などで忙しく働いていた。
魔力の方も、見た感じでは中級クラスも複数存在するようだ。
「ここが、魔導ギルドの心臓部なのさ」
言っては悪いが、今この上の階が吹き飛んで会長以下の職員達が全滅しても、全く魔導ギルドの運営に支障を来たさない。
彼ら研究部門こそが、この魔導ギルドの肝であると。
ブランタークさんは、小声で俺に説明をする。
「おおっ! 新しい魔法陣を売ってくれたバウマイスター男爵殿か!」
俺達の到着に気が付いた、一人の初老の男性が声をかけてくる。
白髪混じりのボサボサの髪を無造作にオールバックにしている、如何にも研究者と言った感じのその人は、研究部門のトップであるルーカス・ゲッツ・ベッケンバウアーだと名乗っていた。
「ブランターク。アルフレッドの弟子は、素晴らしい魔力の持ち主だな」
「だろう」
どうやら、この二人は知り合いのようだ。
お互いに気安く会話をしていた。
「よし、これほど魔力があれば。バウマイスター男爵殿、こちらに」
ベッケンバウアー氏は、形式通りに研究部門の案内などするつもりもないようだ。
俺の手を引き、自分が研究しているスペースへと強引に引っ張っていく。
「ブランタークさん?」
「こういう男なんだよ。所謂、研究バカ?」
俺の見立てでは、ベッケンバウアー氏の魔力は中級でも上の方だ。
普通に冒険者でもした方がよっぽど稼げるのに、魔導ギルドで研究に時間を費やしている。
ここに居る人達は、大半がそんな感じのようだが。
「これが先日、バウマイスター男爵殿から購入した魔法陣を改良した物だ」
「ブランタークさん、わかります?」
「いや、間違い探しみたいだな……」
集中して見ると眩暈が起こりそうな魔法陣の文様に、俺とブランタークさんは、自分達には魔法陣の研究など不可能だと感じてしまう。
「それで、これはどこに移動を?」
「いや、たまたまの成果なのだが、これは逆の効果が出る魔法陣の試作品でな」
「逆ですか?」
「うむ、逆にどこかからこちらに移動させる魔法陣なのだよ」
ベッケンバウアー氏の説明によると、この魔法陣は人や物をこの魔法陣の上に引き寄せる効果があるらしい。
「効果はわかりますが、どこの物を引き寄せるんですか?」
「その部分が、この魔法陣が試作品なわけでな」
普通の魔法と同じく、魔法陣を使う魔法使いの想像力にかかっているそうだ。
「ゴタゴタ説明しても意味が無いか。試しにやってみる事にしよう。このように……」
ベッケンバウアー氏が魔法陣の前に立ち、十秒ほど目を閉じながら集中する。
すると、一瞬だけ魔法陣が青白く光り、次の瞬間には何か白い布のような物が置かれていた。性欲剤
「何、コレ?」
「パンツ……」
魔法陣の上には、白い女性用のパンツが置かれていた。
しかも新品ではなく、直前まで誰かが履いていたようにしか見えない物がだ。
「あの、ベッケンバウアーさん?」
「あの女性職員の履いていたであろう、パンツを移動させたのだ」
ベッケンバウアー氏からの衝撃の発言に、研究室内にいる人達の視線が全て、俺達をここに案内してくれた女性職員へと向かう。
突然、しょうもない理由で注目された彼女は、顔を真っ赤にさせながら怒りで体を震わせていた。
「このように、この魔法陣は引き寄せる対象物の大きさ、重さ、距離で必要魔力量が変わるわけだ。理論上は時間や次元も超える事が可能なのだが、魔力の消費量が桁違いに……」
「いきなり何をするんですか!」
真面目な顔で説明をするベッケンバウアー氏の頬を件の女性職員がビンタして、引っ手繰るように魔法陣の上のパンツを持ち去って行く。
あとには、頬にビンタの跡がついたベッケンバウアー氏が残されていた。
「ワシ、研究部門のトップ……」
「さすがに、あれはお前が悪いだろう」
ブランタークさんの正論に、俺達ばかりか他の職員達も同時に首を縦に振るのであった。
「面白そうな物ではありますか」
「偶然の産物という点において、研究者から見れば失敗作なのだが」
強制移転魔法陣を改良中に偶然誕生した、別の場所から物を引き寄せる魔法陣。
その威力を、俺とブランタークさんはまざまざと見せ付けられていた。
実験で履いていたパンツを取られ、その復讐でベッケンバウアー氏をビンタした女性職員を見送ってから、俺はその魔法陣に視線を送る。
しかし、いくら見ても前の魔法陣との差がわからない。
多分、俺では永遠に理解不能だと思われる。
「実際に、使ってみるかね?」
「良いんですか?」
「正直、そんなに成功率は良くないのでね。危険も少ない」
引き寄せる物とその位置を正確にイメージ出来ないと、ただの魔力の無駄遣いになってしまうそうだ。
ベッケンバウアー氏が、視界にある女性職員が履いていたパンツを標的にしたのにも、一応の理由があったのだ。
「男のパンツなど引き寄せても、何も楽しくないからな」
「納得は出来るけど……」
『なぜパンツに拘るのか?』という疑問だけが、俺に残ってしまう。
「そういえば、理論上は次元と時間も超越可能であると?」
「理論上はね」
次元とは、この世界にも他の良く似た世界パラレルワールドの概念が存在している。
何でも、古代魔法文明時代に異世界の産物を魔法で引き寄せたという伝承が残っているのだそうだ。
それが事実なのか、物語なのかは不明であったが。
「(ここに、その異世界から来た人間がいるんだけどね……)」
正確には転生なのか憑依なのかは不明であったが、確かに異世界は存在していると俺は断言できる。
信じて貰えるかは不明であったが。
「では、早速に」
そんなわけで、俺も試しに魔法陣を使ってみる事にする。
ただこの魔法陣の魔力消費量は、物の重さに距離を掛けた分なのだそうだ。
遠距離にある重たい物を引き寄せると膨大な魔力を必要とする。
しかも、イメージに失敗すると魔力だけ無駄に失ってしまう。
「という事は、時間や次元が違うと?」
「消費魔力は桁違いであろうな。ワシなら、目的を達せられずに魔力だけ消費して気絶する」
中級の上の魔力を持つベッケンバウアー氏でもそうなのだから、異世界から物を引き寄せるには相当な魔力が必要なのであろう。
第一、その対象物のイメージが出来ないと魔力だけ無駄にしてしまうのだ。
まずは、安全策で近場の物をイメージする事にする。
「何にしようかな?」
「バウマイスター男爵殿、ちゃんとイメージを固めてからにしないと……」
具体的に何にするのかを良く考えないで、魔法陣の前に立ち集中してしまったのが良くなかったのであろうか?
魔法陣が青白く発光した後、その上には先ほどと似たような物が置かれていた。
良く見ると、やはり女性用のパンツであった。
この世界にも、地球と同じような下着が普及している。
俺の実家のような田舎だと自作のカボチャパンツだったりするが、王都や都市部では専門の服飾店によって洗練されたデザインの下着も置かれているのだ。
これも、王侯貴族御用達とまではいかないが、それなりの値段がする下着のようだ。
「色は黄色で、女性用」
「パックに、ウサギ柄の刺繍ねえ……」
この下着の持ち主は、かなり可愛い物が好きなようだ。
「誰のなんだ? 坊主」
「さあ? 実は、屋敷の中の物をイメージしただけなので」
俺の屋敷の中にある物を何かとイメージしたので、これは誰かのタンスの中から引き寄せられた可能性が高かった。女性用媚薬
「それだけのイメージで成功とは。さすがは、バウマイスター男爵殿。そして、このパンツは……」
ベッケンバウアー氏はそのパンツを手に取り、その温かさを確認していた。
本人は研究者としての目線で引き寄せられた物の確認をしているのだが、傍から見れば下着に執着するただの変態ジジイにしか見えなかった。
「ふむ、先ほどのワシのイメージも重なったのであろう。このパンツは、誰かが履いていた物で間違いない」
「えっ、そうなの?」
だとしたら、とんでもない事をしてしまった事になる。
なとと考えていると、いきなり研究室の扉が勢い良く開き。
室内に、一人の女性が乱入してくる。
その女性とは、今日は屋敷で休んでいるはずのイーナその人であった。
「ヴェル! 私のパンツ!」
「良くわかったな」
「いきなり履いているパンツが消えるなんて、魔法しかあり得ないわ」
更に、今日の俺が魔導ギルドを尋ねるという予定は知っている。
パンツを取り戻すために急ぎ魔導ギルドまで行くと、親切な女性職員がこの地下研究室に案内してくれたそうだ。
間違いなく、先ほどベッケンバウアー氏にパンツを取られた女性職員であろう。
「おおっ! いきなり初回で、上級貴族屋敷に住んでいる女性のパンツを召喚か。素晴らしい才能であるな。しかし、見た目はクールビューティー系なのに、パンツは可愛い系であるか。これは、ある種のギャップであるかと……」
「そんな事よりも! パンツを返せ!」
まだガッチリとパンツを握っていたために、ベッケンバウアー氏はイーナから強烈なビンタを貰ってしまう。
というか、この人はなぜこんなに無駄口が多いのであろうか?
まさに、『雉も鳴かねば撃たれまい』という奴だ。
「あの、イーナ」
「何? ヴェル」
「今度、下着を買うのなら付き合うから」
「……、まあ良いわ」
「坊主、惚れられてて良かったな」
イーナからの制裁を免れ、俺は心から安堵するのであった。
「ヴェル、今度はパンツ以外にしなさいよ」
「そういうコントロールには慣れていないんだよ。まだ二回目だし」
「慣れてなくても、パンツしか召喚できないなんて情けないじゃないの」
「改めて言われると、確かに情けない……」
ようやくパンツが戻って来たイーナも加わり、俺は次の召喚実験を開始する。
というか、いつの間にか実験になっているし。
召喚と呼ぶには、その成果は微妙とも言えた。
精々で、お取り寄せレベルであろうと。
「とにかく、パンツ以外で」
「わかったよ……」
イーナから強く言われながら、俺は再び自分の屋敷から何かを取り寄せるイメージを頭に思い浮かべる。
すると三度魔法陣が青白く光り、今度は黒い何かがその上に取り残される。
「ええと……」
その黒い物体は、俗に言うブラジャーと呼ばれる物であった。
「黒のブラジャー……」
「ヴェル……」
「いや、パンツじゃないし……」
「だからって、ブラジャーはないでしょうが!」
確かにイーナの言う通りなのだが、どこか思考がドツボに嵌っているらしい。
連続で下着を召喚とは、俺の品性が疑われてしまう話だ。
元から無いと言われれば、それまでなのだが。
「誰のなんだ?」
「ふむ、サイズは小さいな」
またベッケンバウアー氏が、黒いブラジャーを取ってマジマジと観察を始める。
重ねて言うが、これは研究者として真面目に召還物を観察しているだけである。
見た目は、ただの変態ジジイであってもだ。
「ヴェルぅーーー!」
そして、数分ほど後。
今度は、ルイーゼが研究室に乱入してくる。
やはり、とある女性職員が親切に案内してくれたそうだ。
「えっ! ルイーゼなのか?」
まさか、あのルイーゼが黒い下着を着けているとは。
少し言いたい事もあるが、それを口にすると大変な事になりそうなので言わないようにする。
ただ、またベッケンバウアー氏は空気が読めていなかったが。
「その幼い容姿で、黒の下着はまだ早かろう。それに、ブラジャーが必要な胸とも思えないが……」
「ふんっ!」
「あべし!」
ベッケンバウアー氏はルイーゼから往復ビンタを喰らい、頬のモミジの色を濃くしてしまう。中絶薬
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