私は何も知らない子供だった。
『人を愛すれば幸せになれる』
私の好きだった言葉。
それに例外はないと信じ、禁忌も罪という言葉も知らないただの子供だった。蒼蝿水(FLY
D5原液)
この世界に生れ落ちてから私が愛したのはひとりの男の人。
私よりも7歳も年上である実兄だった。
「久遠、キミは本当に可愛いね」
お兄様は私に優しく微笑み、頭を撫でてくれる。
私を溺愛してくれるお兄様を愛していた。
彼の前には他の男の子の姿なんて目に入らないくらいに。
私にとっての例外は幼馴染の恭ちゃんだけ。
実際、他の男の子とは小学生の頃は話した記憶はほとんどない。
それでも、私は満たされていた。
たったひとりの男の人を愛する、その意味は変わらないから。
私達の関係に変化が起きたのは4年前、中学2年生の冬。
その日は珍しく街に雪が降っていた。
降り積もる雪を踏みしめながら道を歩く。
白い雪に足跡がつくのが私は何だか楽しかった。
「ん?お兄様、もう帰ってきてるのかな」
学校から家に帰ると、何だか家の中は騒然としていた。
私がリビングの方へと向かうと、怒鳴り声が響き渡る。
「……この馬鹿者がッ!」
お父さんに頬を叩かれたお兄様の姿がそこにはあった。
普段、温厚なお父さんが怒るなんて滅多にない。
頬を押さえるお兄様は冷めた瞳をしていた。
私が室内に入ると、若干、険悪な空気は弱まった気がした。
「な、何?どうしたの?」
「……久遠か。何でもない。お前が気にする事ではない」
「だって、お、お兄様が……大丈夫?」
私がお兄様に近づこうとすると彼は私に見せた事のない辛い顔をして、
「触るな、久遠。僕にはもうその資格はないんだ」
「何があったの、お兄様?」
「……」
彼は何も言わずに自分の部屋と戻ってしまう。
私はリビングに残った両親に不安気味に尋ねた。
何が起きたのか私は知りたかったから。
それは私の心を震撼させる大きな事実だった。
突然、お兄様が“結婚したい”とお父さんに言ってきたらしい。
……相手の女性は人妻、彼は既に家庭を持つ相手と関係を持った。
その果てに彼女には子供ができて、向こう側の家庭は崩壊する。
自分の都合で離婚させた人と結婚したいなんて言うお兄様。
うちの家はそれなりの資産家でもあり、スキャンダルのような今回の事を認めるわけにはいかない。
当然、お父さんは反対して今の状況になっている。
他人の幸せを壊して得た新しい幸せ。
私は信じる事なんてできずに呆然としていた。
信じられるわけがない、信じたくなんてない。
あの優しい彼がこんな形で私を裏切るなんて思いたくない。
「そんな……嘘っ……」
お兄様が大好きだった。
私たちは兄妹を超えた関係だと思い込んでいたのに。
私は足から崩れ落ちるように座り込んだ。
「……嘘よ、そんなの嘘に決まってる……」
誰よりも信じたかった。
お兄様が私を裏切るはずがない、と。
けれど、それは紛れもない事実だった。
彼は私を裏切ったという事実だけが私に突きつけられた。Motivator
その夜、私の部屋をお兄様が訪れる。
外はまだ雪が降っている。
私はずっと冷たい雪を眺めていた。
「……久遠。僕だ、いいかな?」
静かに扉を開けて現れるお兄様。
腫れた頬が痛々しい彼はいつものように何も変わらない雰囲気だった。
「久遠、夜中に悪いな。少し、話がしたいんだ」
「私もお兄様と話がしたいわ」
彼は私に嘘をつかずに全てを話してくれた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
私の知らない所で動き始めていた世界。
それを運命というならば、私は運命なんて大嫌いだ。
お兄様はその女性を愛していると告げた。
「自分の行動の結末だった。何を言おうと言いワケにしかならないが、僕は彼女の事を愛しているんだ。この世界の誰よりも大切にしたい」
私がお兄様を好きだと知っているはずなのに、そう言ったんだ。
彼女のお腹には既に子供がいると告げられた時、止められない衝撃が私の中を駆け巡る。
それは怒りではなく寂しさ。
「……お兄様は私を裏切るの?私を好きだって言ってくれたのに」
「すまない。だが、僕たちは兄妹なんだ。血の繋がった者同士、結ばれることはない」
「そんなの関係ないじゃないッ!」
私が彼にすがりつこうとするのを首を横に振って拒まれる。
「私はお兄様が好きよ。誰よりも好きなの。それは今も変わらない」
「ダメなんだ。僕が……もうダメなんだ。キミを好きでい続ける事はできない」
兄妹で愛し合う事は罪、許されるべき事ではない。
だから終わる、ここで私たちの恋愛は終わる。
私とお兄様の関係、破壊されていくのを感じながらも必死に止めようとする。
それはまるで砂を手にすくい上げたように、指の隙間から流れ落ちて止める事ができない。
幸せも、思い出も、何もかも……壊されていった。
「……兄妹は好きにはなれても、愛せない。好きは気持ち、愛は行動。気持ちを持つ事はできても、行動できない。分かるだろう。僕達は兄妹、その事実は未来永劫変わる事のない事実だ」
「そんなの綺麗事よ……。気持ちさえあればそんなの関係ない」
問題なのは私たちの心のはず。
だからって、私以外の相手とそんな関係になるなんて。
しかも、相手には既に家庭があったはずなのに。
それを壊して自分達だけ幸せになろうとする彼らが汚らしい。
「……僕はね、あの人に同情していたんだ。愛の冷めた彼女に蘇らせたかった。人を愛する気持ちを。……それがいつのまにか本物の愛情に変わっていた」
「間違ってるよ、お兄様。そんなの間違ってる」
「それなら正しい恋愛って何なんだと思う、久遠?」
答えられない私、それは言葉の矛盾でもある。
この世界に間違いのない恋愛なんて存在しない。
そう叫べば、私とお兄様の関係も間違いではないのだから。
「お兄様。それがお兄様の選んだ道なの。それしかないの?」
「ごめん。……今はキミにそれだけしか言えない。僕はあの人と生きたいから」
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
何が間違っていたんだろう。
その夜、お兄様はこの家を出て行き、行方不明になった。
祝福されない恋愛の果てに駆け落ちした。SPANISCHE
FLIEGE
残されたのは私の孤独の気持ちと、白き雪の上につけられた足跡だけだった。
それからの私は何もかも信じられなくなった。
人の心も、人の気持ちも、人という存在も。
信じる事が正しいとは限らない。
私は部屋に引きこもる生活になった。
学校にも行かず、ただベッドに寝転がるだけの日々が続く。
怒り任せて散らかし、荒れ果てた部屋を眺めながら、お兄様の事を想う。
枯れた花は生きることはできずに、ただ朽ちていくだけ。
私にはもう何かにする活力もなければ、暗闇の世界だけしか待っていない。
「……おはよう、久遠。学校行かないのか?」
気がつけば私の部屋に男の子の声がする。
私はうつろな瞳で見上げると中学の制服を着た恭ちゃんが立っていた。
私が休みがちになってから、毎朝、彼が私を迎えに来てくれている。
私は何度も来なくていいと言ってるのに。
「行かない。今日も行く気がないから……」
「そう。なら、いいや」
彼は別に強制するわけでもなく、散らかった私の部屋を少しだけ片付ける。
恭ちゃんは誰かに言われて来てるわけじゃない。
私の事を心配してくれているみたいだ。
「西園寺……なんで毎日来るの?私は学校に行きたい気分じゃないの。分かるでしょ」
「ああ。でもさ、もしかしたら学校に行きたい気分になる日もあるんじゃないか。その時は一緒に登校してやる。それだけだ」
お節介、と言えるほどの事でもない。
彼のそういう優しさは今の私に必要なものだった。
両親のように言葉や態度で強制されるものでもなく、ただ私の気分に任せてくれている。
こうして毎日、顔を出してくれるだけで、私はこの世界から見捨てられていないと実感させられる。
「……西園寺。私は何で生きているのかな」
彼が窓を開けて新鮮な空気を入れ替えている後ろ姿に問う。
恭ちゃんは何も言わずにカーテンを紐でまとめていた。
「私……生きている意味ってあるの?どうすればいいの?」
無気力な私にようやく振り向いた彼は淡々と言葉を呟いた。
「……自分が生きる意味なんて他人に理解できるのか?」
「え?」
「俺の人生じゃない相手の生きる理由なんて答えられない。どうすればいいか、どうしたいか、の間違いだろ。誰かのために生きているわけじゃない。自分の決断、生きる目的、そんなもんは自分で決めろ。そうやって、久遠は15年間生きてきたんだろ」
まっすぐな彼の視線、私はまぶしい朝日を浴びながら、
「生きる目的はお兄様だった。彼だけが私の全て」
「そういう生き方もあるだろうな。だから、彼がいなくなったらそれで終わりか?」
「……他にどうしろっていうの?」
「自分で探せ。生きる目的なんてその時、その瞬間、変わっていく。それは誰かに敷かれたレールの上じゃなく、自分で決断した道を進む事が必要だから」
「難しいわね……すぐには何もできそうにない」SPANISCHE
FLIEGE D9
「なら、ゆっくり時間をかければいいさ。誰もそれを急くことはしない。ただ、俺は久遠のこういう姿をいつまでも見たくないけどな」
ふっと私の前に差し出された手。
私が見上げた彼は微笑みながら言う。
「少しだけ、外の空気を吸う気はないか?」
「……少しだけなら」
彼の手を握り返し、私はベッドから立ち上がる。
そのまま私をベランダに連れて行った。
外は寒さの本格的な1月、冷え切った空気が私を凍らせていく。
「外、寒いわね……」
「そりゃ、まだまだ冬だからな。寒いに決まってる」
自然な格好で私は温もりを求めるように抱きついた。
彼は拒絶することなく、私に温もりを与え続ける。
世界は私が何をしていようと動いている。
止まらない世界の動きに取り残されたまま。
私は失笑しながらその冷たい世界に触れる。
「……ねぇ、西園寺。泣きたい時に泣けないほど辛いものってないわ」
「泣きたいなら泣けばいい。誰かがそれを咎める資格なんてありやしない。涙を流せるっていう事は生きてるってことだからな」
「……そう。それじゃ……泣かせてもらうかな。それでもいい、恭ちゃん?」
「したい事があるなら誰のいう事も聞かない。それが久遠だろ」
静かにあふれ出した涙を彼は受け止め続けてくれる。
慰めに言葉はない、ただ何も言わずに抱きしめてくれた。
「……お兄様……うぁあっ……ぁぁっ」
泣き続ける私を受け止める彼、安心して泣けるという事。
泣くという行為は悲しさを洗い流す行動。
「……あぁぅ……やぁっ……」
誰の目も気にせずに自分のために泣ける。
恭ちゃんの行動は私に安らぎを与えてくれた。
ひたすら涙が枯れるまで泣き続けると、私は眠気に襲われる。
「……眠いか、久遠。疲れたら寝たらいい。今日は学校お休みだな」
「いつもだけどね……」
泣き止んだ後は彼にもたれるように瞳を瞑る。
彼は私をベッドに寝かせると静かに語りだす。
「例え、信じる気持ちが裏切られても、人はまた誰かを信じる。何度でも信じる」
「裏切られた痛みを知るのに、それってバカみたいじゃない」
「それがこの世界、現実なんだよ。誰も信じられない冷たい世界にひとりっきりでいるくらいなら俺はバカのままでいい」
私は「そうね」と短く答え、眠りに落ちていった。
私が恭ちゃんに求めたものは“お兄様の代わり”でも“恋人”でもない。
ただどんな時にでも頼りになり、私を受け止めてくれる存在。
私は恭ちゃんに“お兄ちゃん”を求めていた。
……それは今も心のどこかに眠り続けている感情。
恭ちゃんは私を裏切らない。
絶対的な信頼をしている私の理解者。
兄のように優しく私を見守り続けてくれる。
その日から少しずつ、私は再び、外の世界に触れる事になる。
彼が与えてくれたのはきっかけ。
私がもう一度現実を見つめなおすようになるきっかけ。
探してみよう、私が生きる意味、目的を……。
世界の明るさを見失った私だけど、ゆっくりと再生の一歩を踏み始めた。SPANISCHE
FLIEGE D6
没有评论:
发表评论